人生に試練はつきもの?

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麦田(むぎた)さん、コピー機のインク切れてるよ」  向かい席の男性社員笠原(かさはら)さんに声をかけられ、伝票入力の手を止めた。  そして笑顔で頷いて、「わかりました」と言い立ち上がる。  男性は良いことをしたというように満足げな顔で笑い、自席に着いてコーヒーを飲み始めた。 「イエローね」 「はい、イエロー」  談笑する社員達を背に、黙ってイエローのインクを替えながら考えていた。  いつからインク交換の作業は、私の役目になったんだろう。  最初は良かれと思ってやっていたことが、気づいたら当たり前のように“私の仕事”になっていく。 「ねえ、麦田さん」  しゃがんで段ボール箱からカートリッジを取り出していた時、今度は営業部のリーダーの女性、杉本(すぎもと)さんに声をかけられ、立ち上がった。 「こないだの新年会の店、イマイチだったから、次はもっと慎重に店を選んでよ」  杉本さんは腕を組みながら言った。  トレードマークのボブヘアが艶やかで綺麗だ。 「……わかりました」  飲み会の幹事も、私になってからもうどれくらい経つのだろうか。  誰も「次は自分がやるよ」と名乗り出てくれる人はおらず、暗黙の了解で私の役目となっていた。  それどころか、回を重ねる毎に求められるレベルは上がっていく一方。 「もっと安くて居心地の良い店、探せばいくらでもあるでしょ。お酒の種類も多いとこ」 「はい」  新年会のお店、皆に喜んでもらおうと、一生懸命お店を探したつもりだった。  この辺では一番価額が安くて、おつまみも美味しいと評判のお店を発見したのにな。 「よろしくね」 「わかりました」  思うことはあるけれど、また無意識に笑顔を作る。  ……次はお酒の種類が多いところか。そしてお座敷の方が良さそう。  そんなことをぼんやりと考えながらインクを交換して、自分の席に戻る。  すると今度は、同じ経理の同僚で、隣の席の美沙(みさ)ちゃんが話しかけてきた。 「ね、むぎちゃん。お願い! 来週の金曜確か有給とってたよね? あれ、代わってくれない!?」  両手を合わせて目をぎゅっと瞑る美沙ちゃんにギクリとした。  来週の金曜は、同棲している彼氏の慎司(しんじ)と日帰りで出かける約束をしているんだ。  断らなくちゃ。 「ごめん、その日は」 「おねがーい! その日CUTのライブなの! 奇跡的にチケットゲットできてさ! グッズとか買いたいから、早く現地に向かいたいんだよね」  CUTとは美沙ちゃんが推している韓国のアイドルグループだ。  世界的に人気で、チケットは争奪戦となっているみたい。  せっかく奇跡的に観覧できるなら、思いきり楽しみたいという気持ちもわかる。  でも…… 「お願い!」  ……………… 「……わ」 「ありがとー!」  まだわかったと言い終わる前から、食い気味にありがとうと笑う美沙ちゃんに絶句する。  ああ。また慎司に謝らなくちゃ。  頭を抱えながら今度こそ自分の仕事にとりかかる。  その時。 「ねー麦田さん、トイレ汚れてる」  少しクレームも混じったような声色で、開発チームの田中さんが私を呼びに来た。  ……いつ私は、トイレ掃除の担当になったんだろう。  心では泣きながら、それでも笑顔を浮かべる。 「わかりました」  そしてお決まりの台詞を発するのだった。     
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