730人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ
「麦田さん、コピー機のインク切れてるよ」
向かい席の男性社員笠原さんに声をかけられ、伝票入力の手を止めた。
そして笑顔で頷いて、「わかりました」と言い立ち上がる。
男性は良いことをしたというように満足げな顔で笑い、自席に着いてコーヒーを飲み始めた。
「イエローね」
「はい、イエロー」
談笑する社員達を背に、黙ってイエローのインクを替えながら考えていた。
いつからインク交換の作業は、私の役目になったんだろう。
最初は良かれと思ってやっていたことが、気づいたら当たり前のように“私の仕事”になっていく。
「ねえ、麦田さん」
しゃがんで段ボール箱からカートリッジを取り出していた時、今度は営業部のリーダーの女性、杉本さんに声をかけられ、立ち上がった。
「こないだの新年会の店、イマイチだったから、次はもっと慎重に店を選んでよ」
杉本さんは腕を組みながら言った。
トレードマークのボブヘアが艶やかで綺麗だ。
「……わかりました」
飲み会の幹事も、私になってからもうどれくらい経つのだろうか。
誰も「次は自分がやるよ」と名乗り出てくれる人はおらず、暗黙の了解で私の役目となっていた。
それどころか、回を重ねる毎に求められるレベルは上がっていく一方。
「もっと安くて居心地の良い店、探せばいくらでもあるでしょ。お酒の種類も多いとこ」
「はい」
新年会のお店、皆に喜んでもらおうと、一生懸命お店を探したつもりだった。
この辺では一番価額が安くて、おつまみも美味しいと評判のお店を発見したのにな。
「よろしくね」
「わかりました」
思うことはあるけれど、また無意識に笑顔を作る。
……次はお酒の種類が多いところか。そしてお座敷の方が良さそう。
そんなことをぼんやりと考えながらインクを交換して、自分の席に戻る。
すると今度は、同じ経理の同僚で、隣の席の美沙ちゃんが話しかけてきた。
「ね、むぎちゃん。お願い! 来週の金曜確か有給とってたよね? あれ、代わってくれない!?」
両手を合わせて目をぎゅっと瞑る美沙ちゃんにギクリとした。
来週の金曜は、同棲している彼氏の慎司と日帰りで出かける約束をしているんだ。
断らなくちゃ。
「ごめん、その日は」
「おねがーい! その日CUTのライブなの! 奇跡的にチケットゲットできてさ! グッズとか買いたいから、早く現地に向かいたいんだよね」
CUTとは美沙ちゃんが推している韓国のアイドルグループだ。
世界的に人気で、チケットは争奪戦となっているみたい。
せっかく奇跡的に観覧できるなら、思いきり楽しみたいという気持ちもわかる。
でも……
「お願い!」
………………
「……わ」
「ありがとー!」
まだわかったと言い終わる前から、食い気味にありがとうと笑う美沙ちゃんに絶句する。
ああ。また慎司に謝らなくちゃ。
頭を抱えながら今度こそ自分の仕事にとりかかる。
その時。
「ねー麦田さん、トイレ汚れてる」
少しクレームも混じったような声色で、開発チームの田中さんが私を呼びに来た。
……いつ私は、トイレ掃除の担当になったんだろう。
心では泣きながら、それでも笑顔を浮かべる。
「わかりました」
そしてお決まりの台詞を発するのだった。
最初のコメントを投稿しよう!