【試し読み】羊は繭の夢を見る

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 欠伸混じりに見上げる空は高く、どこまでも広がっている。屋根の隙間から覗く山裾をたどると、遠くの山はまだらに紅葉し、すぐそこまで冬の気配が近づいた晩秋のよく晴れた朝に考えるのは、灯油のポリタンクを今日こそ物置から出そうとか、もらいもののどら焼きの賞味期限が昨日だったとか、町内会の赤い羽根募金の集金当番だったとか、およそ大したことではない。  三倉(みくら)中央通り商店街の朝は、忙しなくも長閑だ。  ショーウィンドウ越しに眺めるパン屋の棚は、既にずいぶんがらんとしている。朝一番、日の出前から焼き上げたぶんが午前中にほとんど売れてしまう商店街の人気店でもある。三軒先の花屋では、半分上げたシャッターをくぐって軒先を掃く奥さんが、和菓子屋の婆ちゃんと立ち話をしている。婆ちゃんは今日、鍼灸院の日らしい。バタンとドアを勢いよく閉め、白い軽トラックで走り去るのは八百屋の親父さん。勤め人や学生は、まだ目覚めきらない商店街を抜け、その先の小さな駅舎をくぐっていく。単線のローカル線は列車の行き違いがあるたびにしばらく遮断機を下ろして警報を鳴り響かせ、その後、たった三両の車両を満杯にして重たそうに走り出す。それを一時間に何度も繰り返す、単調な音と風景が子供の頃は嫌で嫌で仕方なかったものだが、その頃はまだ刑罰じみた都会のラッシュアワーを知らなかった。 「羊介(ようすけ)、ご飯よそって」  奥から声がかかる。  羊介は郵便受けから朝刊を抜き取ると、一面の見出しを一瞥し、また欠伸混じりに玄関を閉めた。 「ちょっと、羊介ぇ」 「聞こえてるって。はい」 「ありがと。そんな格好で出たの? 寒かったでしょ」 「まあ、もう十一月だしね」  米を二杯よそい、ひとつを居間の仏壇に供える。食卓に着くと、横から出された椀には、さいの目に切った豆腐が浮いたきりの味噌汁がなみなみとよそわれていた。乾燥ワカメかネギかで思案し、冷蔵庫から長ネギの端を探し出すと、ざっと細かく切って椀に散らす。それを見た母の朋子(ともこ)は愉快そうにほくそ笑んだ。 「手際良いじゃない」 「普通でしょ」 「お父さんそっくり」 「すぐそれだよ」  朝食のメニューは毎日変わり映えがない。記憶にある限りずっといまひとつのままの、白身に火の通りきらない目玉焼き。そこにぺらりとロースハムが載せられているのが、自分にとって代表的な「お袋の味」だ。今日はほかに昨夜のきんぴらごぼうの残りと、市販の漬物がある。  自営業だったこともあり、朝食はいつも家族揃って摂っていたが、ついにこの食卓に着くのは二人になってしまった。今ではもう、祖父母と父のいる仏壇のほうが人数が多い。ずっと台所を預かっていた料理上手の祖母のたまの不在に、父の作る卵焼きが好きだったことを最近になって思い出す。ツナ缶とネギを入れた、あまじょっぱい味つけの、しっかり焼いた卵焼きだった。 「今の時代、男の子だって料理くらいできなきゃ」 「ネギ切っただけだろ」  母と父では、父のほうが料理上手だった。これの因果関係は果たしてどちらが先だったのか、今ならなんとなく察しがつく。 「いただきます」  目玉焼きを米にかぶせて、真ん中の黄身を箸で崩す。ここに醤油を垂らし、混ぜながらかき込むのがいつもの食べ方だ。 「あ、お母さん今日ホームの日だから。帰り遅くなるからね」 「ん」 「洗濯物外に干してくから、冷たくなる前に取り込んどいてよ。あんた、いつまでも干しっぱなしなんだから」 「はいはい」  向かいの母が味噌汁を啜るのにつられて、自分も味噌汁を啜る。粉末だしをしっかり利かせた、味噌は薄めの熱々の味噌汁が胃に染みる。  昨年、ひとり暮らしの自由を手放して、十年ぶりに実家暮らしに戻った。覚悟とか決意というほどのものはたぶんなかったし、引き換えに得た今の暮らしが望みどおりだと言い切る自信もない。ただ、三倉に戻って朝がずいぶん楽になった。朝起きて、また朝が来てしまった憂鬱に耐えることがなくなった。いまだに時々、今日が夢なのじゃないかと思う。  大島糸店は創業昭和二十三年――七十年と少し続く、始まりは卸問屋の昔ながらの毛糸屋だ。今から五十年ほど前、郷土史にだけひっそり残る程度の地震で店舗の外壁が崩れるも、建物自体に被害はなく、修繕を重ねて今も当時の姿を一部残している。商店街に古くからある店はどこも似たようないわれだったが、サザエさんの世界観のようなまさに昭和の店舗兼住宅の造りの、良く言えばレトロな、つまりは古ぼけた我が家が子供心に恥ずかしかったのをおぼえている。  十時の開店に合わせてガラス扉の鍵を開け、シャッターを上げる。シャッターは目隠し用ではなく、スチールの格子タイプだ。休みの日や閉店後でも、通りかかる人に店の様子や季節のディスプレイを見てもらえるようにというのが理由らしい。これも物心ついた頃から変わらず、しかしずいぶん塗装に錆の目立つようになった。  カウンターの後ろのラジオを点けると、しんと静かな店内に明るい音が流れ出す。毎日何度聞くかわからない、すっかり馴染みのジングル。店に流すラジオのおかげで、ローカルFM局の番組にずいぶん詳しくなった。子供の頃、店に流れるのはAMラジオだった気がするが、人生相談だの通販番組だのがどうにも苦手で、今ではチューニングはFMに合わせたままになっている。  接客に追われるようなことは稀だ。おそらくかつてここにいた父もそうだったように、カウンターの中で帳簿つけや発注作業、それから自分の代で始めたネットショップの管理とかSNSの更新なんかをしている。昼頃に定期購読の雑誌を引き取りに来た常連客の世間話に付き合わされ、そこでお決まりの「いい人いないの?」に苦笑を返したりする、それもまた店主の仕事だった。  名前のとおり、この店は毛糸を主に扱っている。壁一面ぎっしりと天井まで積み上げた、ブランドごと色ごとの毛糸。号数順に並べた多種多様な編み針。それらに囲まれながら、今はほとんど生業として編み物をしている。作った物は作品見本として展示したり、店頭やネットで販売したりもする。  午睡の時間、妙にノスタルジックな音色の知らないロック・チューンに耳を傾けながら、柔らかな生成の毛糸を指でたぐる。アラン模様を編むのが好きだ。ケーブルやダイヤ、それに生命の木。ニットの模様と問われればきっと多くの人が真っ先に連想するだろう伝統模様は、アイルランドの漁師の島で編まれていたらしい。千年の歴史があるという説もあれば、百年程度という説もあるが、どうやら事実は後者のよう。ネットで見たその島は、岩肌に短い草が茂り、視界を遮る木など一本もない、水平線まで見渡せる寒々しいほどの絶景だった。同じ島国とはいえ異国の内陸で、今自分が編んでいるのは、いずれダイヤモンドとケーブルの組み合わさったセーターになる。  糸を編んでいる時間は幸福な時間であり、自己回復の時間でもあると思う。針に糸をかけるたび、一目作るたび、ほどけた自分を編みなおしている感覚。感傷だったし、いくらかのナルシシズムでもあるかもしれないが、それでも大切だった。  閉店の六時をずいぶん過ぎていたことに気づいた時には、外はもうどっぷりと暗くなっていた。首を伸ばして見たはす向かいのパン屋が、シャッターを下ろそうとしている。FMラジオの音も、日がな一日鳴り響く遮断機の警報も、いつの間にか届かない世界に没入していたらしい。おかげで、セーターの前身頃がずいぶん出来上がっていた。  棒針の先にキャップをはめて、カウンターを出る。ガラス扉を開け、日が暮れるとぐっと冷え込む空気をひとつ吸い込んで、凝った背筋を伸ばした時だ。 「すいません」  男の声がした。それが自分に向けられたものだと確信のないまま、しかし思わず首を巡らせる。ほんの数歩先に、スーツ姿のまだ若いサラリーマンが立っていた。まっすぐにこちらを見る目と目が合って、今しがたの呼びかけが自分の注意を引くものだったと理解させられる。バネを感じさせる動作で大股に一歩進んだ彼がすぐ間近に立つと、羊介よりずいぶん背が高いのがわかった。 「あの、もう閉店、ですよね」  不思議に思ったのは確かだ。少なくとも今まで、年若い、おそらく会社帰りのサラリーマンが、こんなに神妙な――どこか縋るような面持ちで駆け込んできたことはなかったから。 「構いませんよ」  見上げた先の男が、ぱっと笑う。 「よかったぁ」  涼しげな目元をくしゃりと綻ばせ、白い歯を惜しげもなく見せる、人懐こい笑い方だった。 「何をお探しですか?」  中に招き入れながら、彼を振り返る。よほど緊急事態なのかもしれない。ボタンが取れたとか、はたまたズボンが割けたとか? 大島糸店は毛糸専門店ではあるが、地域の需要に応じて基本的な裁縫道具は取り揃えてある。手縫い針と糸、衣類の補修布、それから裾上げテープあたりはコンスタントに売れる。しかし彼の事情は、羊介の勝手な想像とはまるで違っていた。 「編み物、習いたいんですけど」  驚きをごまかすため、何度か目を瞬く必要があった。彼の顔には、まだ人懐こい笑みが残ったままでいる。 「そうでしたか」 「全然やったことなくて、道具も何揃えたらいいかわかんないくらいなんですけど」 「最初は誰だってそうですよ。それに、道具ならうちで全部揃いますから」  気の利いたせりふとは到底言えなかったが、彼がくすりと笑ってくれたことで失言とならずに済んだらしい。 「どこでうちのことを見てくれたんですか?」  SNSを始めたおかげで、この店が誰かのアンテナに触れることが少しずつではあるが増えてきた。ささやかな努力の実った感覚は、小さな幸福を伴っている。しかし彼は羊介の問いに不思議そうに首を傾げたあと、今しがた彼自身が立っていたショーウィンドウの先を指差した。 「そこ」 「え?」 「俺、毎日ここ通るんですよ」  このショーウィンドウの向こうには、朝から晩まで大勢の人が行き交う。 「就職してからずっと、毎日。あの、去年でしたよね、この店で見かけるようになって。いつも、もうシャッターは下りてるけど明かりは点いてて――中で編み物してるの、見てました」 「あ、そう、なんだ……」  思わぬ言葉にようやくそれだけ答えると、鼻を擦るような仕草の右手に隠れた彼の唇に、小さな失笑が弾けた。 「それに、ポスターも。こないだ、新しいのに変わりましたよね。俺にもできるのかなってずっと気になってたんだけど、ずっと、入る勇気がなくて。だから、さっき、出てきてくれてよかったです」  たったそれだけのことにあまりに嬉しそうに笑うから、羊介は堪らずに目を眇めた。背が高いだけでなく、スポーツマン然とした体格だ。野球かサッカーかで言ったら野球のほうが似合いそう。商店街を抜けて通勤するということは、駅から電車に乗るのだろうか。この先には建設会社と銀行の支店があるが、銀行員っぽさはあまりないなあとか、品定めじみた空想が浮かんでは消える。 「前は見かけなかったと思うんですけど、新しい店長さんなんですか?」  思わぬ問いかけに、また、目を瞬いて驚きを隠すことになる。それからつい笑ってしまい、たぶん彼を困惑させたのだろう、男っぽい両眉が心細げな微苦笑の角度に下がった。 「三代目なんですよ、俺。生まれも育ちも三倉で」 「あ、そうだったんですか」  自分が店の前を通る人々を時に不埒なストーリーで脚色しながら眺めているように、彼もまた自分を見ていたのかもしれない。何年もこの商店街を通っていた彼にとっては、羊介こそが新しい登場人物なのだ。 「去年親父が亡くなって、まだ継いだばかりです」 「よく見たら似てるかも」 「はは、母親似って言われるけど」  ずいぶんぞんざいな相槌に笑わされて見上げると、彼もまた悪びれずに笑っている。それからきょろきょろと視線を左右に動かし、その場でゆっくりとターンを始めた。  すげー、と、唇が動く。 「中、こんなふうになってたんだ」  彼の頭よりずっと高くまで積み上げた毛糸を仰いで、愉快そうに呟く。好奇心に輝く横顔がほんの幼い子供のように無垢で、羊介はやはり目を眇めたい気分になった。 「作りたい物とか」 「え?」  はっとしたように振り向くから、つい勢いに押されてびくりと肩が跳ねる。 「えっと、作りたい物とか。ありますか?」 「うーん……」 「たとえば、そのクッションみたいなのとか、あと」 「クッションって、これ?」 「あ、うん、そう」 「これ、作ったんですか?」  スツールに載せたグラニーサークルのクッションは少し少女趣味が過ぎて、決まり悪くもある。羊介が曖昧に頷くと、やはり、すげー、と唇が動く。 「あとは、マフラーとか帽子とか」 「あ。マフラー。マフラーがいい」  声が輝く瞬間というのがあるらしい。表情と同じくらい、声のトーンも豊かな男だった。 「うん、初めてならちょうどいいと思う。材料、今日揃えていきます?」 「いいんですか?」 「はは、それが商売だから」 「じゃなくて、時間」 「あ、そうだった――ちょっと待って」  羊介は彼にスツールを勧め、ガラス扉の札を「CLOSE」に裏返す。このショーウィンドウに貼った手製の「初心者大歓迎」のポスターなんて、誰も見ていないと思っていた。 「一応、個別レッスンとか、教室もあるんですけど……」  カウンターの中から教室の案内を一枚摘まみ上げ、彼に差し出す。長い脚を持て余すようにスツールに跨がった彼は、まじまじと座面の模様を覗き込んでいたが、ぱっと顔を上げて手を伸ばした。 「あ、俺、平日は仕事で」 「いつでも、来てくれれば教えますよ。夜でも、土曜日でも」 「この時間でも?」 「知ってると思うけど、この時間ならまだいるから。シャッター閉まってたら、隙間からコンコンしてくれれば大丈夫」 「はは、うん、コンコン」  無意識に口をついてしまった幼児語を復唱され、気恥ずかしくなる。羊介は居住まいを正し、努めて業務的な口調で告げた。 「一番上のコース以外は、基本的に一回ずつのレッスンです。必ず申し込みをしなきゃいけないわけじゃないから、ちょっとしたことなら料金は気にせず相談してください。下のほうに詳しく書いてあるので、あとで読んでみてくださいね」  逆さに読んでいた紙面から目を上げると、レッスン希望の彼はやはり長い両脚を持て余し気味に投げ出したまま、しかし行儀の良い学生のような顔で大人しくこちらを見ている。笑い出したいような困ったような複雑な心地で、羊介は握りこぶしの中で空咳をした。コホン。 「……どんなマフラーを編みたいですか?」 「んー、と」 「贈りたい人はいますか? それとも自分で使う物?」  思案するように伏せられた目が、ふっと上がる。それから彼は立ち上がると、しばらく棚をじっと見ていたようだったが、やがて二種類の毛糸を手に羊介を振り返った。 「どっちが好きですか?」 「え? 俺?」  あんまり驚いて、ずいぶん間の抜けたことを聞いてしまったと思う。  遠くで流れていたラジオ番組がメールコーナーから交通情報へ移り、BGMがフェードアウトするまでの時間しか経っていないというのに。その短い間に、いったい何度驚かされているだろう。  彼の手には今、早朝の曇天をイメージさせる青くくすんだ薄いグレーと、たっぷりの牛乳で溶かしたココアのような淡いベージュの毛糸が握られている。どちらも彼には少し地味かもしれないが、どちらも羊介の好きな色だ。濃い色でないほうが編み目も見やすくていいだろう。 「そうだな……こっちかな」  向かって左側の、ベージュの毛糸を指差す。鑑定でもするように手の中でベージュの毛糸を転がした彼は、次に、満足そうに笑った。惜しげもなく白い歯を見せて。 「うん、決まり」  それが繭村(まゆむら)との出会いだった。
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