最悪と努力の成果

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最悪と努力の成果

別の施設、仮に川岸寮と呼ぼうと思う。前いた施設より良かった。ただ職員は最低だった。何年務めたか知らないが、無知ばかりの連中ばかりだった。金管理してくれたが、取り出すには、その担当でないと駄目だと言う。私のお金なんだから、担当が違う人でも、次の日あたりに連絡すればいいではないかと言う。規則は規則だと言うので、知り合いに1万円借り、後日倍にして返した。とにかく規則が厳しい。食事もそうだ。病院の飯ではないかと思うほど味がしないし、量も少ない。料理人の態度は最低だった。ホラよと飯を出す。挨拶しても返事返さない人間は、私は嫌いだった。そのことを担当職員、加藤さんに言う。見た目がVシネマに出ていそうな人間だ。後で知ったのだが、彼は私の1つ年下らしく、病気で頭がツルツルになったそうだ。いろいろな人間みたが、この施設は、以前の施設と比べ、天国か地獄みたいだと、周りの人間達に話した。ここの入居している人間達も、私と同じ犯罪者ばかりだった。1部ホームレスもいた。とにかく仕事を見つけないと思い、ハロワに毎日通う。また宮島さんが担当だった。加藤さんから、この仕事やらないかと誘われた。土木工事だった。しかも解体工事だった。経験があったので、そこで働いてみた。みな、私をみて、犯罪犯すなよ?と軽い冗談を言う。気にしなかった。むしろ、誇っていたのだ。解体工事は朝は早いが、楽しかった。毎日、みんなが、私をイジる。悪い気持ちはなかった。しばらくして、社長さんが電話してきた。とび職してくれないか?という。社長さんには恩があったので、任せてくださいと返事した。これが良くなかった。20才の青年が私を迎えに来てくれた。彼は口が悪い。そして、性格も悪かった。私が犯罪者と知ってはいないらしく、散々と私の悪口を言ったりする。そして、私は我慢の限界を超え3日間、川岸寮に戻らなかった。金も減ったので川岸寮に戻った。社長さんは激怒し、テメェなんて刑務所に入っちまえ!!と捨て台詞をはき、出て行った。しばらくしてから社長さんの会社は倒産した。ざまあみろと私は思い、地面にツバを吐く。寮の職員さんは信用できなかったので、宮島さんに頼んで、極秘裏に新たな仕事を探して貰い、短期のアルバイトをした。干物屋だ。魚の匂いがすごいする。私はよく、人に死体の匂いを嗅ぎながら食事ができると言っていた。1ヶ月だが13万円手に入れ、そのお金で、今度は電車の清掃員を選んだ。1日7500円プラス深夜料金もあり、寝泊まりできる場所も提供してくれた。一発で採用された。交通費も支給してくれたのはありがたい。1ヶ月、講習を受けて、現場作業のやり方も教わり、頑張ってみた。私の対応のおかげか、色んな人間達がしゃべる。そのやり取りが楽しい。ただ、1部の人間は、私を嫌っていた。そんな彼らを私は可哀想な人間とみた。彼らの悪口は聞くに耐えない。会社の飲み会だったが、これは酷いと感じ、以後彼らの飲み会には参加しなかった。私、個人として、酒は日頃の行いを綺麗にするための場所だと思う。犯罪者の集まりの飲み会があったが、みな悪口を言わなかった。悪口の酒は美味くないと言っていた人を思い出す。毎日電車の清掃していた。会社の上司からの書類もすぐに出していたし、また、挨拶も元気にしていた。半年くらい経ち、上司から、他の作業をしてみないか?と聞かれた。また、頼られた。私は、任せてください!!なんでもします!!と元気いっぱいに答えた。清掃員から、電車の中の広告の貼り替えと、工場から出た汚水処理、電車のトイレのタンクの清掃を頼まれた。この3つが自分の誇りだった。アルバイトだが、無能な正社員より、私の方が身分や待遇が良かった。私は会社に貢献するために社内のテスト試験を4つ受けて、賞を頂いた。やはり、自分は他の人間達とは違うと感じた。自分は異常だと思っていたが、会社や社会は私を必要としていると思った。しばらくして、また上司から声がかかった。また清掃員やってくれないかと。今の時代、多数業務が必要だといい、悪いが、第一号になってほしいと頭を下げて頼んできた。私は、ますます興奮し、即座に任せてください!!と答えた。勤務表が変わった。これでもかというくらい、勤務が増えた。アルバイトだが、無能な正社員より、私は偉いと感じていた。実際、正社員の1部は必要ないと、思っていた。ギャンブルの話しばかりで、つまらないのだ。仲良くなった人にはよくお菓子を配っていた。これも高評価だった。だが、私を気に入らない人はこの多数業務をする私を嫌っていた。一緒に作業する時、いつも私を馬鹿にする。私は耐えた。私はまだ執行猶予後2年余りだったので、暴力をすれば、刑務所送り間違いないという考えで頑張っていた。ある夜、休日の日、川岸寮の職員総出で、私達を談話室に集めた。話しによると、国が支援金を出さないらしい。だから、今、住んでる人からお金を徴収するかも知れないと言う。タダにならないらしい。私達は、文句を言う。お金取るなら生活保護を受けてここを出ていきますとみなが言う。当時、働いていた人は、私をいれて、5人くらいしかいなかった。私は、担当の加藤さんと話し、お金がある程度溜まったらここを出ていきますと伝える。加藤さんはあなたは執行猶予ですからまだここにいてもいいんですよと答えた。私は今月中にここを出ていきますと強めに言う。そして今月の給料で、資金が溜まったので、スマホを使い、住む場所を見つけた。さっそく行動した。不動産に連絡し、アパートを見学した。3万円だったのでこのアパートに決めた。そして、会社に休みの連絡し、引っ越しした。長い1日だった。季節は春だった。借りた自転車を使い、荷物を運んだ。やっと一人暮らしができると感じた。後執行猶予2年くらいだが、今のままなら大丈夫だろうと考えた。1ヶ月に2回、その地区の保護観察所の人間と話すが、苦痛にならなかった。ただ、約束した日にちに待ち合わせるが、いくら待っても来ない。電話したら、今日でしたっけ?とマヌケな返事が返ってきた。正直、この人大丈夫なんだろうか?という考えになった。次回会える日を決めて、待ち合わせ場所から出る。そして、仕事をした。私は引っ越しした住所を会社に報告し、書類を書く。今度はバスを使うので、交通費も頼んだ。いつも、私を馬鹿にする人が会社に近い場所にしろと言う。私は怒りを我慢した。キレそうになった。だったらお前がしろよ!という考えが出た。その人を無視する事にした。それからは、毎日頑張っていた。刑期は短くならなかったが、無事に刑期を終えた。私は、自分のご褒美等して、他県に旅行した。2泊3日だ。これはネタなのだが、執行猶予か仮釈放の人間は他県に移動する際、すごい長い書類を書かないと行けないのだ。だから、会社の正社員テストをワザと落ちるようにしていた。そして、私は、これを好機と考え、アルバイトを辞めた。神経内科に頼み、診断書を書いて貰い、退職願いを提出した。内容は、パワハラに耐えられないと正社員の名前を書いて提出した。書いた人は、問題がある人達だった。私が、犯罪者だと誰も思わなかった。そして、仕事を辞め、ある機関に相談した。生活保護を受けるには、彼らの協力が必要と判断した。そして、彼らと話しをし、同情してもらう内容を話し、無事に生活保護を受けられた。
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