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「私、ずっとあなたに会いたかったんです」
目の前にいる女の人は黒く滑らかな髪を耳にかけた。
どことなく色っぽく感じる彼女は口元のホクロを動かす。
「あなたを夢に見るほど会いたくて。思わず、声をかけてしまいました。って、すみません。見ず知らずの女にこんなこと言われても困りますよね」
「あ、いえ。そんなことはないですよ。お姉さん、とても綺麗だから。その、びっくりしちゃって」
ちらっと見た左指には薄汚れたゴールドのリングがあり、心の中で肩を下げる。絹のような美しい肌に手入れの行き届いた手。『最近、太っちゃった』と言っていた婚約者とは正反対の美貌に何度も目を奪われてしまう。
僕と彼女の間にこの机がなかったら、触ってしまったかもしれない。それほどまでに魅力的な人がどうして僕に会いたがったのだろうか。
「注文、どうします? 私、コーヒー苦手なのでココアでもいいですか?」
「あ、どうぞどうぞ。僕が決めるようなことではないので」
「ふふっ ありがとうございます」
可憐に笑う彼女の周りに花が咲いた。思わずメニューで顔を隠し、「何にしようかな」などと言って誤魔化した。そうでもしないと、にやけた口元を見られてしまう。
「じゃあ、僕はコーヒーで」
「分かりました。あ、すみませーん」
彼女が軽く手を挙げると、近くを通った店員がゆるく返事をしてこちらへと来た。ココアを一つとコーヒーを一つ頼む女性。ミルクとガムシロップはいるのか聞かれたので「いるに決まっているじゃないか」と僕は答えた。
店員は細い目を更に細くし、無愛想に「かしこまりました」とだけ言ってそのまま去って行った。
「甘いもの、お好きなのですか?」
「え、えぇ。昔、後輩が甘いものを食べているのを見て影響されたみたいで。男らしくないナヨナヨしたやつだったのですが、そこだけは感謝しています」
ピクッと、水のコップを取ろうとした彼女の手が止まった。「そうなんですね」とすぐに微笑まれ、口の中に水をふくむ。僕は、数年前に会社を去ってしまったやつのことを思い出した。
いつもチョコレートを食べていたあいつは甘いものには目がないようで、彼女とスイーツ巡りをしていると聞いていた。そういえば、会議の時にコーヒーを出されて困ると言っていたような。あんな男にも彼女がいるなんて世も末だなと思ったものだ。
「あ、そうだ。お名前を聞いていませんでしたね。会いたかったと言いながらすみません。私は、宮崎いずみって言います」
「あ、僕は原和宏です。あの、宮崎さんは夢で僕と出会ったのですか?」
「うーん、そうですねぇ。夢でも会いましたが、どこか遠い記憶の中で出会ったのかも。だから、さっきすれ違った時にビビッと来ちゃったんですよ。ほら、電気が走る、みたいな?」
人差し指をピコンと立てて笑っている宮崎さんはとても可愛らしく、不思議なことを言うのだなと思った。不思議な人だけど、一緒に笑顔になってしまうような人だ。
電気が走る感覚、か。
僕には分からない縁遠い感覚だと思っていた。だが、それは彼女と出会う前までのこと。今、この場で言われたら僕も同じように感じてしまう。そう、それはまるで。
「運命、みたいですね」
「えっ」
「あれ、違いました? 小さい時に読んだ絵本で似たようなフレーズがあったので、てっきりそれかと思っちゃいました」
えへへ、と照れ隠しなのか、店員さんが置いていった水のコップを触った。うっすらと濡れているコップは外と中の気温差で汗をかきはじめている。
つーっと伝っていく水を見て、僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。これは、もしかして。高鳴る鼓動を抑えながら「あの」と声をかけた時。ドンッと、目の前に腕が出てきた。
「こちら、コーヒーです。お好みでどうぞ」
では、と首だけを使って頭を下げた店員が去って行った。僕の前に置かれたのは数分前に注文したコーヒー。細く白いストローがすでに刺されており、あとは自分で飲むだけになっている。
今か今かと出番を待っている飲み物には申し訳ないのだが、先ほどの店員の態度が許せない。いや、許してはいけない。ちょっと若い女だからって調子に乗りやがって。「おい!」と声が喉まで出かかった時、スッと僕の口元にシルクの指が来た。
「もう、今は私と話しているのですよ? よそ見したら、ダメです」
ムーっと頬を膨らませている彼女はこの前会食で食べたフグと変わらなかった。クリクリとした焦茶の目は僕を離そうとせず、中心にある黒い瞳の中に怒りが全て吸い込まれてしまった。
不思議だ。宮崎さんといると、心が自然と落ち着く。それでいてどこかで会ったことのあるような懐かしさを持っている彼女は、女性として完璧だとも言えるだろう。
ふと頭の片隅に婚約者の顔が過ぎる。取引先のお嬢さんだと言うことで会い、流れで付き合って結婚することになったのだが、想像以上にわがままで困っていた。何をしてもお礼を言わない。
サプライズして欲しいと言うから必死に考えたものをに『面白くない』と一刀両断して勝手に帰ってしまうのだ。これが取引先のお嬢さんでなければとっくの昔に別れていただろう。だが今日、僕はこんな素敵な人と出会えたのだ。この人となら、一緒になってもいい。
「あ、あの!」
「? どうかしました?」
首を傾げたと同時に、彼女の濡れ羽色の髪がさらりと落ちた。
「宮崎さんは、ご結婚なさっているのですか?」
「え?」
「結婚指輪、していますよね。でも、だいぶさびれていると言うか、かなりボロボロですよね。そんな人よりも、僕の方がお似合いだと思いませんか」
真っ直ぐ彼女の目を見て言うことができず、自然と視線がコーヒーの方へと向いてしまった。真っ黒の中に微かに見える暗い茶色。混ざり合っている中で、どんどん暗闇へと落ちて行く。
婚約者のことは後からどうとでもなる。いざとなったら他の後輩に押し付ければいいだろう。僕は、僕自身が結婚したいと思う人と運命的な出会いをしたのだ。キュッと真っ白な手が組まれた。
宮崎さんが、どんな表情をしているのか分からない。だが、彼女は必ず頷いてくれる。だって、同じことも考えてくれたのだから。
「……原さんは、運命ってどんなものだと思いますか」
「え。運命、ですか。ドラマで見るような、恋とかですかね」
「そうですか」
拍子抜けするような質問。ふぅっと一呼吸おいた彼女は一瞬だけ無表情になった。
しかしすぐに微笑みを取り戻したようで、朗らかな声でもう一度話を始めた。
「良かった。あなたが、変わっていなくて」
「? それは、どういう……」
「運命と言うのは、必然と必然が重なり合った時に起こるものなのですよ。そんなドラマティックではないのです」
彼女の言いたいことがいまいち掴めずに、「はぁ」と気の抜けた返事をしてしまった。きゅっと握られていた静かに手は解かれ、いつの間に置かれていたのか分からないスマホを撫でた。
「だからこれは、私だけが願っているのではないってことですよ」
「そう、ですか。それより、先ほどの返事は……」
「あぁ、そうですね。失念していました。もちろん、お断りさせていただきます」
「……は?」
ニッコリと口角をあげ、目を細めている彼女。
「いや、いやいやいや、何を言って」
「何をって、どういうことですか?」
「とぼけないでくださいよ。さっき、運命だって言ったじゃないですか」
「えぇ、そうですね」
「僕に会いたくて会いたくて仕方なかったって。夢に見るまで、僕に会いたかったんですよね?」
「えぇ、そうです」
冷や汗がダラダラと出てきた。確実に自分のものにできると思ったものが、いきなり手のひら返しをしてきたのだ。冷や汗よりも、怒りの方が沸々と、沸騰しかけのお湯のように暴れそうだ。涼しい顔をして表情ひとつ変えない女、もとい宮崎さん。一体何がしたいのだ。
「小沢志音」
「……誰ですか、それは」
「ご存知ないですか?」
「えぇ、知りませんね。そいつがどうしたって言うのですか」
「私の、亡くなった夫の名前です」
ガンっと殴られた衝撃でそのまま倒れるかと思った。細く目尻が下がっていた彼女は変わり、焦茶の中にある黒い瞳を強調させるかのように見開いた。じっと、こちらを見て。
上がっていた口角もいつの間にか漢数字の一の形になり、薄く桜色に色づいていた唇がギュッと噛み締められている。小沢、志音。声に出さず、口の中で言葉を反芻させる。
すると、僕と彼女の間に一本の腕が遮った。その腕の先にはココアが置かれており、ホットを頼んだのか上の方にホイップクリームがのっている。
「……もし、かして」
「あ、思い出してもらえました? 良かったぁ、自分が殺した後輩のことも忘れるような人間かと思っちゃいました」
ホッとしたのか、彼女は大袈裟に胸に手を当てていた。同時に一切動かなかった表情筋を動かし、出会った時と同じような笑みを浮かべている。背中に毛虫が這っている感覚がした。ゆっくり、じっくりと端から端まで動いている。いないはずの毛虫が、今、目の前にいる。
「ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、夢に見ていました。あなたに、会えることを。あなたが、ほんの少し緩んでいる時に見せる隙を待っていました」
毛虫だけではなかった。ゾワゾワと足の裏から伝わってくるものは、恐怖以外の何物でもない。喉が狭まっているのか、上手く発声することができない。俺の前にいるのは、一体。
「あ、先ほどの台詞、録音しましたから。あなたの婚約者にお渡ししますね」
「……は? 何を言っているんだ。そんなの信じるわけが」
「それが、信じちゃうんですよねぇ。私、その婚約者さんとお友達なので」
手に取ったスマホをカツカツと手慣れたように操作し、こちらへと見せてきた。そこには誰もがインストールしているチャットアプリで会話している二人。ほんの数十分前の会話記録も残っている。定期的にやり取りをしている証拠だ。
なぜ、どうして。
こんな偶然が続くと言うのか。
ありえない、あり得るはずがない。
「そんなこと、ありえないだろう!」
「嫌だなぁ。あり得るんですよ、これが。先ほどお話ししたじゃないですか。『運命って言うのは、必然と必然が重なり合って起こるものだ』って。もう忘れちゃったのですか? 悲しいですよぉ」
猫撫で声で話し、はははっと嘲笑う彼女の笑顔は心底歪んでいた。歪んでいるのに、美しい。鳴り止まない彼女の甲高い笑い声に、複数の客が訝しげにこちらを見ている。
受け入れたくない現実と、彼女の表情に頭の中がグチャグチャに掻き乱される。冷静に考えるどころか、全てを吐き出したくなる衝動に襲われた。
「た、頼む。どうか、送らないでくれ。何でもする。俺にできることなら、何でもするから」
「何でも? まるで三流悪党の台詞ですね。本当、くだらない。こんなくだらない奴に、私の大切な人が壊されたなんて」
くだらない、ともう一度吐き捨てた。口の中に溜まった唾を道路に吐き捨てるように。
変な脂汗が止まらない。背中を伝うだけでなく、顔や首や手や足の裏まで溢れ出ている。あんなことを口走ったのを知られたら、確実に俺は終わる。取引がなくなるどころか、会社での立場も危うい。
今まで積み重ねてきた裏技に近いこともバレかねない。口を開いては閉じるを繰り返していると、「あ、もう行きますね」と彼女は立ち上がった。
「ま、待ってくれ、頼む。僕がこれまで積み重ねてきたことが全て無駄に! 十年、十年だぞ! それを、無駄にしろと言うのか!」
周りの目なんて気にしていられなかった。どこにでもあるチェーン店を選んだのが間違いだったのかもしれない。家族連れは少ないが、オフィス街が近いこともありスーツ姿の客も多い。知り合いに見られたらと、考える余裕もないほど切羽詰まっていた。
一瞬だけ手が止まった宮崎さん。しかしすぐにガサゴソと自身のカバンを探り、財布を取り出したこと思うと千円札を一枚だけバンっと勢いよく叩いて置いた。
「十年? こっちは、今まで生きてきた二十七年を全て無駄にされたの。たった十年で、泣くんじゃないわよ」
ぐしゃっとシワがついた一枚のお札。彼女の力強い音に騒がしかった店内が静まり返った。誰もが僕達に注目し、店員までもがヒソヒソと話をしている。「見るな!」と叫ぶと全員がスッと視線を逸らす。あぁ、こんなところで、こんなところで終わりたくない。
「では、私はこれで失礼しますね」
「いや、待て、待ってくれ、頼む」
「私、あなたに会えてよかった! それでは、素敵な余生をお過ごしください」
机の上に置いていた手を離した彼女。なんとかして立ち止まってもらおうと掴んだ腕は振り解かれた。カツカツと、ヒールの音が響く。静寂は徐々に喧騒に変わり、どこにでもある普通の光景に僕は成り下がった。
「僕は、君に会いたくなかったよ」
グシャリと歪んだ野口英世が、僕を嘲笑っているような気がした。
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