追憶は灯火のように

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 帰り道、妻は一言も話さなかった。私も、妻に何て声をかけて良いのか分からない。  きっとたまたま会計を忘れていただけだろう、ぼーっとしていただけなのだろう。そう自分に言い聞かせているが、脳裏には常に「認知症」という単語が()ぎる。  目を合わせず、私は恐る恐る妻に声をかけてみた。 「なぁ、病院に行ってみないか?最近のお前は何かおかしい」  すると妻は先ほどのように血相を変え、私に詰め寄った。 「私を病人扱いするの!?それでも私の夫ですか!」 「違う、そういう意味じゃない!」  慌てて取り繕おうとするが、それ以上の言葉を見つけることができず、妻は一方的に(まく)し立てる。 「あなたはいっつもそう!何もかも私のせいにして!」 「おい、何の話をしてるんだ」 「子供の世話だって全部私にさせてたじゃない!その癖息子の不始末は全部私のせい!」 「落ち着け、変だぞお前」  話が支離滅裂だ。脈絡のない会話が道中続き、私はもう身が保ちそうになかった。  次の日、妻は前日の出来事など忘れたかの様に笑顔で朝食を準備しており、私は呆気に取られた。 「あなた、どうしたの?」 「いや、何でも」  昨日の事には触れるまいと思い、私は普段通りに妻と接した。 「あ、そうだ。今日この後スーパーまでお買い物に出掛けるから」 「待て、私も一緒に行こう」  そう切り出した妻に、私は反射的にそう返答した。 「あら、珍しい。どうしたの?」 「あ、いや。たまにはな、お前も大変だろう?私が運転しよう」 「ありがとう」  不思議そうに首を傾げている。  一連の様子から、妻は昨日の事は全て忘れていると直感した。  車で連れて行ったスーパーは昨日とは別のスーパーだった。  私は妻の買い物を監視するように付き添い、会計まで済ませるところを確認した。  何事もなく買い物は終える事ができ、一安心するが。 「あら、そう言えば卵を買ってないわ」 「もう一回行くか」  再びスーパーへ入り買い物をすることとなった。  卵を手に取った妻は、レジへ並ぶかと思いきや、そのままカゴを手に取り買い物を続行した。 「おい、何を買うんだ?さっき買い物をしたばっかりじゃないか」 「え?そうだったかしら?」 「あぁ、したさ。卵だけ買って車に戻ろう」  妻は納得がいく表情をしていなかったが、実際に車に戻ってみると買い物袋があり、自分が買い物をしたことをものの数分で忘れてしまっていた事に気がつく。 「あらやだ。ついさっきのことなのにね」  たかが物忘れ、今の出来事はその段階を超えている。妻が認知症を発症していると思うには充分すぎだ。 「なぁ…」 「何?」 「いや、何でもない」  私は病院へ行く事を提案しようと思ったが、また激昂するのではないかと思い、口には出せなかった。
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