追憶は灯火のように

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『もしもし、どうしたの?』  声の主は息子の浩介(こうすけ)だ。あれから妻の物忘れを頻繁に見る様になった私は長男に相談することにした。 「あぁ、母さんがな、認知症かもしれないんだが、病院へ行こうと言うと怒られたんだ。どうしたらいい?」  すると浩介は笑いながらすぐに返答を与えてくれた。 『簡単だよ、父さん。物忘れ外来に一緒に行こうって言えばいいのさ。自分の物忘れが心配だからって』 「物忘れ外来?」 『うん、脳神経外科クリニックでやってるよ? 今度連れて行ってあげようか?』 「頼めるか?」 『仕方ないさ、この際これ以上悪化する前に何とかしないと』  後日、私は妻に話を切り出したところ、案外簡単に受け入れてくれたことに驚いた。  浩介の運転で最寄りの脳神経外科クリニックへ行くと、まず私から認知症の検査を受けた。  検査の内容は意外と簡単だった。  2種類の簡単な質問検査を受けた。内容は簡単すぎて拍子抜けするほどだった。  検査を終えると、担当してくれた若い医師は診断結果を一瞥し、結果を告げた。 「どちらの検査も満点でしたので、須賀野様は現段階で認知症の疑いはありません。物忘れも気のせいか偶然でしょう」  私はその結果にほっと胸を撫で下ろした。しかし、本題は私ではない。 「先生、問題は妻でして…。物忘れどころか人格まで変貌してきているのです」 「話を聞きましょうか」  一連の出来事を話し終えると、医師は妻を検査に呼ぶよう看護師に伝えた。 「それは明らかに認知症の症状ですね。しかも軽度じゃない。早期治療が必要となります。詳しく検査しましょう」 「よかった…。これで妻は認知症が治るんですね?」  安堵する私に、医師は表情を曇らせた。 「須賀野さん、お辛いことですが、認知症は薬で進行を遅らせる事はできますが、治らない病です。今後は悪化する一途であることを、ご覚悟なさって下さい」 「そんな…」  私は絶望した。やがて妻は、二度と私の事を思い出せない日が来るのだと。  現実を直視できず、私は俯いた。しかし医師は、私の肩をやさしく叩き、励ましてくれた。 「ご主人がそんなことでどうするんですか?いいですか?認知症は1人の時間が長ければ症状は悪化します。今まで以上に、人と接する時間を作る事が大切なのです!」 「は、はい」 「須賀野キミヱさん、入られます」  看護師の促しで浩介と一緒に入って来た妻。一見、認知症には見えなかった。全てが嘘であってほしいと願っていたが、覚悟もしていた。  妻だけは脳波検査やCT、レントゲンで脳の評価もされた。  そして診断された。 「須賀野キミヱさん、あなたは認知症の疑いが強い。今すぐに治療が必要です」 「はぁ、そうですか」  虚空を見つめ、どことなく諦めたような表情の妻。医師が薬の説明や脳についての話をするが、一切聞いていない様子だった。  医師はこう言った。  軽度の脳梗塞を認め、それにより血管性認知症を引き起こした。現在は生活に不便はないが、段階的に麻痺や不眠などの障害を併発する可能性があるらしい。症状が進行すればリハビリも必要になるとのことだ。  認知症の進行を遅らせる薬をもらい、その日はクリニックを後にしたが、定期的な検査を受けるために来月また訪れなければならない。
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