3.かおり

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3.かおり

 葉月からの連絡が少ないのは、仕事のせいだというのはわかっている。  昔からそういうところが葉月にはある。ひとつのものを見ていると、それ以外は見えなくなってしまうところが。  それでも別にいいかな、とかおりは思っていた。  猪突猛進なその性格こそが葉月の魅力であり、かおりを引き付けてやまないところだから。  だから『ごめん、プレゼン資料作ってたら時間過ぎてた……』なんてメッセージを、葉月と観るはずだった映画が終わったタイミングで受け取ったとしても文句はない。面白かったね、あのラストは思いつかないわ〜、なんて言いながらカップルが映画の感想を言い合って自分の横を通り過ぎている、その瞬間であっても。  自由奔放で突拍子もないことを思いついてはかおりを驚かせてくれる。かおりひとりでは決して見ることができない景色を見せてくれる。そんな葉月が大好きで。  その葉月から「結婚、してくれない? 私の弟と」なんて言われて、かおりには断るという選択肢はなかった。  葉月の弟の大和は、葉月とは正反対のナイーブな男で、男嫌いの自分でも一緒にいてストレスがなかった。いや、それどころか、他のどの女友達といるよりも楽だとさえ感じた。  彼はそれくらい周囲の人への気配りができる人で、だからこそ同じくらいすぐ傷つく人でもあった。  映画館を出て家に帰ると、リビングでスーツ姿のまま、スマホを片手に眠り込んでいる大和がいた。  その姿もここ数日、よく見る。葉月と孝道は同じ会社だ。しかも同じ部署であり、今は同じプロジェクトに携わっているらしい。必然的に大和もかおり同様、待ちぼうけを食わされる。 「大和くん、大和くん。こんなところで寝たら風邪、引いちゃうよ」  ゆさゆさと揺さぶると、うーん、と大和は唸って目を開け、手の中のスマホを見た。  ぽい、とスマホをラグの上に放り出し、やっぱりかあ、と呟く彼の髪をかおりは撫でる。 「ご飯、食べた?」 「……まだ」  忠実な犬のように、大和は孝道からの連絡が来るまで食事を摂らないことがある。まあ、わざわざそうしているというよりは食事が喉を通らないらしい。その姿を見ると痛ましくなる。  恋人でもなんでもない、「夫」という名前のただの同居人なのに、悲しい顔を見たくない、と思う気持ちがある。  いつからこうなったのか、かおりにはわからない。けれどこれもまあ、悪くないと思っている。葉月を想うときのような激しい胸の高鳴りは感じないけれど、それこそ本当の弟のように大和のことを愛しく思う。 「そっちは? 映画、楽しかった?」  ようやく起きる気になった大和がソファーに座りながら問いかけて来る。作り置きしておいたミネストローネを冷蔵庫から出し、電子レンジへ入れていたかおりは彼の方を見ないまま、観なかった、と答えた。 「葉月、忙しいみたいで。来なかった」 「……そっか」  そっか、だけでなにも言わない。言わないでいてくれる。そこがこの人の良いところだ。  ほっと息を吐き、大和くんも食べよう、と声をかけようとしたとき、鞄の中から振動音が響いた。 「電話、鳴ってる」 「うん。今ちょっと手が離せないから、大和くん、見てくれる?」  浮気を疑わなきゃいけない関係じゃないから、こういうことも気軽に頼めていい。妙な清々しさを感じているかおりの耳に、姉貴からだ、と大和が呟くのが聞こえた。 「出るよ?」 「あ、うん」  大和の指がスマホをタップする。もしもし、と電話の向こうに投げた声がひどく不機嫌で、かおりはミネストローネをそのままに思わず大和の顔を窺った。 「姉貴? 俺。いいだろ。かおりさんがいいって言うから出ただけ。ってかそんなことどうでもいいだろ。なんで今日来なかったわけ? かおりさん、二時間以上待ってたっぽいけど」 「大和くん、ちょっと」  キッチンを出て大和の腕に手をかけたが、あっさり振り払われた。常にない早口で大和が電話に向かって怒鳴っている。 「仕事仕事って! いい加減にしろよ! かおりさんと仕事とどっちが大事なんだよ!」  その言葉を聞いた瞬間、思わず噴き出してしまった。笑うかおりを大和がぎょっとした顔で見下ろすのがわかったけれど止められなかった。 「なに笑ってんの?」 「いや、だって、なんか……大和くんが葉月と付き合ってるみたい」  肩を揺らして笑うかおりに、大和はやっぱり唖然としている。 「なに言ってんだよ。ってかかおりさんがちゃんと怒れよ」 「うん。そだね」  頷いてからかおりはふうっと息を吐き、大和の手からスマホを受け取った。なによ、と怒り狂った葉月の声が聞こえてくる。その彼女に向かい、かおりは静かに囁いた。 「ごめんね。うちの旦那が暴走しちゃった。大丈夫だよ。気にしてない。葉月、仕事、無理しないでね」 
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