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4.葉月
おかしいな、と葉月は思う。
みんなにとってこれがベストの選択だと思ったから決めたことだったのだけれど、あれを聞いて以来、どうにも気持ちが晴れない。
かおりが発した「旦那」という名称を聞いて以来。
確かに旦那、なのだ。法律上、かおりは大和の妻だし、妻であるかおりが大和のことを「旦那」と呼ぶのはなんらおかしなことじゃない。
でも、葉月にとってのかおりはやっぱり「彼女」なのだ。
かおりとは性格も趣味も好きな曲もなにもかもが違ったけれど、高校時代、たまたま同じ委員会に所属したことがきっかけで仲良くなった。思ったことをすぐ口に出してしまう葉月と違い、かおりはどんな言葉もじっくり吟味してから口に登らせた。彼女の言葉にはいつも重みがあって、自分にはないその真摯な姿に惹きつけられた。憧れていた、と言い換えてもいい。
だからその憧れの彼女にこう言われたとき、本気で嬉しかった。
「胸の花、私にくれないかな」
高校生活最後の日、卒業式が終わったときのことだった。
卒業式において、卒業生が胸に付けた造花を式終了後にねだるというその行為は古くから、葉月たちの学校で告白を示すものとして捉えられていた。
葉月はその場で自分の胸から花をもぎ取り、かおりに渡して言った。
「かおりのも私にちょうだい」
葉月がそう言った瞬間のかおりの、白い花の香りが漂いそうな笑顔を今だって忘れていない。
好きで。大好きで。でも父は決して自分とかおりの関係を認めてはくれない。父からの心無い言葉はきっとかおりを傷つけ、自分達の間には消えない溝が生まれてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
だから考えた。どうすればずっと一緒にいられるかと。それがこれだった。けれど。
「ねえ、孝道。孝道にとって私って……妻?」
向かいの席でパソコンの画面を睨んでいる孝道に声をかけると、ああん? と面倒そうな声が返ってきた。
「まあ。でもどっちかっていうとやっぱ同僚だけど」
「そうだよね。そうなんだよ。でもかおりは大和のこと『旦那』って呼んだんだよ」
孝道が仕事のし過ぎでやつれた顔を上げる。知らず声が震えたけれど止められなかった。
「かおりにとって、大和はもう、身内ってことだよね。私より」
放置しているなとは思っていた。でもかおりなら許してくれると思い込んでいた。笑って、大丈夫だよ、と言って、腕を広げて待っていてくれると信じて疑わなかった。
でも、考えてみたら自分たちの間にはなんの約束もないのだ。対して大和とかおりの間には……紙切れだけとはいえ、絆がある。
「ねえ、恋人と夫婦ってどっちが重いのかな。孝道にとってはどう? 私と大和、どっちが……」
「葉月」
孝道が葉月を遮る。口を噤むと、孝道はふうっと息を吐いてから呟いた。
「離婚、しよか。俺たち」
え、と声が漏れる。孝道は葉月の顔を見て肩をすくめた。
「いいと思ってたんだ。大和とずっと一緒にいられるなら、仮面夫婦になろうがどうだって。でも……この間さ、大和に言われたんだよ。『姉貴と俺、どっちが好き?』って。びっくりしたよ。そんなこと訊かれると思ってなかったから……。でも、俺も似たこと思ってはいたんだよな。かおりさんと一緒のときの大和の顔、すごく穏やかに見えて」
だから、と孝道の声が掠れる。孝道、とそっと名前を呼んだ葉月に孝道は俯いたまま言った。
「仮面夫婦になんて見えなくてさ。一緒にいると夫婦って顔似て来るって言うだろ。大和とかおりさん、なんか似て見えて、それが悔しくて」
葉月は席を立ち、孝道の傍らに立つ。ごめんな、と孝道が詫びる声が聞こえた。
「俺は……葉月とは似た顔になる気、やっぱしないわ。似るなら、大和とがいい」
「うん」
葉月は頷く。
頷きつつも少し、思う。
孝道は、自分達は似た顔になる気がしない、と言ったけれど、中身はとても似ている、と。
特に、後悔するタイミングがめちゃくちゃ似ている。
「もう、遅いかもしれないけど、いい?」
そうっと問うと孝道は、うなだれながら、ふふ、と笑った。
「それはお前もそうだろ」
本当にそうだ。もう遅いかもしれないのだ。夫婦の絆ってやつに、恋人である自分は太刀打ちできないかもしれないのだから。
でもやっぱり、似た顔になるなら、かおりとがいい。
「ごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「変な提案して」
自分がこんな提案をしなければ孝道も傷つかないでいられたのに。しゅんとした葉月の前で、そのとき、孝道が唐突に噴き出した。
「夫婦最後の共同作業が弟夫婦をぶっ壊しに行くって笑えるよな」
「笑えんわ!」
肘でどつきつつ、葉月は苦笑いした。
夫となった男がこいつで良かった、と少しだけ、思った。
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