もっと早く

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 出勤する夫の背中を見ると、ホッとする。  今日も遅く帰ってくればいいのに――――。  益実はそんなことをぼんやり考えながら、うっかり玄関に鍵をかけてしまう。  すると案の定、その音を聞き付けて玄関ドアが外側から猛烈に叩かれる。  ドガガガガガアァーーー!!  暴力的な音に自分の耳を両手で押さえ、その場にしゃがみ込みたくなる。  それでも彼女は何とか我慢しながら恐る恐るロックを解除し、ドアを開けた。 「何で俺が出たら、すぐに鍵かけるんだよ!?何度も言ってるだろう!!閉め出されたみたいで嫌だろうが!!」  研一は細い目をことさら吊り上げ、怒鳴り散らす。  真っ赤というより、顔面蒼白に見えるのはもともと男にしては色白だからだ。 「ごめんなさい……」 「お前、俺がいないほうが嬉しいんだろう!?」 「そんなことない……」  消え入るような声で言い訳しながら、益実は思う。  “私の心の中にまで、ズカズカ入って来ないで!”  本当は嬉しくて仕方ない。  この男がいないほうが……。 「早くしないと遅刻するよ」 「お前のせいだろうが!」  研一は『遅刻』という単語に敏感に反応した。  それは益実から見れば滑稽なくらいだった。  外ヅラだけはいい研一は、上司や同僚たちの評価を極端に気にする。  役所に勤めてからは、遅刻と無断欠勤は一度もない。  自堕落だった大学時代とは大違いだ。  彼は興奮していたのが嘘のように、くるりと踵を返す。  そして妻に背を向け、力任せにドアを閉めた。  バーン!と風圧を伴ってドアは容赦なく閉まる。  古い借家のため、ドアに衝撃防止のクッションがないからだ。  家が壊れるのではないかというくらい、ビリビリと全身に振動を感じる。  まるで夫に殴りつけられたようだ。  いや、実際研一は私を殴りたかったにちがいない。  益実はそう思いながらも『本当に殴られなくて良かった』と思い直し、再び玄関ロックに手を伸ばした。  だが、彼女の手がドアノブに届く前に出し抜けにドアは外側へ勢いよく開く。  するとすかさず研一が、身体を半分だけ玄関へ捩じ込むようにして入ってきた。 「今、鍵かけようとしただろう?バーカ!!」  驚いた益実の表情を楽しむように、上目遣いでニヤつきながら見つめてくる。 『気持ちの悪い顔』  これが今の益実の偽らざる本心だった。  研一が彼女の表情を楽しんでいた時間は1分にも満たない。  彼は妻をイジメて満足し、今度はわざとゆっくりと、後ろ手でドアを閉める。  そして今の益実の恐怖を想像すると、『してやったり』という痛快な気分になり、足取りも軽く自家用車に乗り込んだ。  ◆  「バカ女!さっさとビール持ってこい!つまみだけじゃ、意味ねぇんだよ!!」  益実の期待に反して、研一は午後7時前に帰宅した。  リビングのソファにネクタイを緩めながら座ると、早速わめき散らす。  「頭悪いからお前、入院しろ。自殺でもいいぞ」  研一はキッチンに引っ込んだ益実をからかう。  「あ、その時は『通夜も葬儀も必要ありません』って、遺書を書いてね!俺、お前の葬式なんて面倒くさいから」  研一は職場のストレスを妻にぶつけてすっきりすると、何事もなかったようにテレビのリモコンを押す。  その瞬間、益実がビール瓶を研一の頭に振り下ろした。  ブンと鈍い音を立ててテレビが点くのと、研一の上半身がテーブルに倒れ込むのが同時だった。  気配を消して背後に忍び寄った益実に、研一は無防備だった。  ガチャンと枝豆の皿に顔を激突させると、後は益実にされるがままだ。  益実は両手で力の限りビール瓶を振り下ろす。  何度やったか覚えていない。  冷房が効いているはずなのに、暑くて息苦しい。  さすがに疲れて一息つくと、研一の後頭部にわずかの出血が見られた。  これ以上やると瓶が割れて、自分と部屋が汚れるな、と益実は判断した。  頭の中で何度もシミュレーションした通りに、研一を風呂場まで引きずって行く。  汚れたテーブルや床掃除をした後、自家用車で研一を家から運び出す計画だった。  なのに、午後8時を回って玄関チャイムが鳴った時には、益実は驚きで飛び上がりそうになった。  こんな非常識な時間にくるのは、春樹しかいない。  「研一いる?」  大学を卒業して3年にもなるのに、私たち3人はいまだに腐れ縁を引きずっていると、益実は思う。  「もう寝てる」  「そう、ならちょっと一緒に出ない?」  益実は迷ったが、今夜に限って断れば不審に思われるかもしれない。  彼女は軽く身支度を整えると、春樹の車に乗り込んだ。  春樹は研一の留守中によく益実をドライブに誘った。  薬学部で研究者になると言っていた春樹は、大学卒業後はなぜか薬剤師になり実家の薬局を手伝っていた。  「今夜は疲れているの。早く家に帰して」  「うん、わかった」  ぶっきら棒に話す益実を気にするでもなく、春樹は素直に頷く。  なのにその様子が、今の益実には妙に気に触った。  「何で怒らないの?いつも親切にしてやってる恋人だった女が、感謝もせずわがまま放題言ってるのよ!」  「別にこんなの、わがままじゃないよ。益実さん」  「さん付けで呼ばないで!!」  そう叫んで、涙があふれてくるのを益実は止められなかった。  なぜ春樹は私と別れたのだろう?  なぜ私は研一なんかと結婚したのだろう?  この3年間、考えなかった日はなかった。  卒業したら結婚する約束だった。  その約束を一方的に破ったのは春樹だ。  何度理由を問いただしても答えてくれない。  悲しみに暮れる益実を優しく慰めたのは、春樹の友人の研一だった。  それが地獄の入り口だったのだ。  「僕にはもう、君を名前で呼ぶ資格はないよ」  すすり泣く益実を見ようともせず、春樹は前を向いたまま車を走らせた。  どこか遠くで救急車のサイレンが鳴り響いていたが、益実には聞こえなかった。  ◆  結局、益実が帰宅したのは夜の10時過ぎだった。  玄関に一歩足を踏み入れた途端、彼女は異変に気づいた。  リビングからテレビの音声が流れてきたからだ。  それだけではない。  玄関のすぐ近くの風呂場の灯りが点いている。  研一を中に入れ、ガラス製の引き戸を閉めて灯りは点けていなかったはずなのに……。  益実の全身に鳥肌が立つ。  リビングからひたひたと、足音が近づいてくる。裸足の荒っぽい男の足音。  口の中に、苦い唾が湧いてくる。  しかもこの嗅ぎなれた、甘ったるいコロンの香りは――――。  「よう、遅かったなぁクズ女。元カノ気取りでのこのこ誘い出されやがって、バーカ!」  勝ち誇った顔の研一が、三和土の上で益実をあざ笑っていた。  「ズボンのポケットにスマホを入れててよかったぜ。風呂場から春樹にメールしてお前を引き離した隙に、病院に行ったんだよ」  研一はおどけた仕草で、自分の後頭部を指さす。  「5針も縫わせやがってこの野郎!診断書はバッチリ取ったぜ。救急隊員の証言もある。てめえはおしまいなんだよ!」  「いやあっー!!」  右手を伸ばし益実を廊下に引きずり込もうとした研一を、益実は振り払う。  そのまま家を飛び出すが、研一も追ってくる。  「どうしたんだ、益実!気は確かか!?」  研一の声は切迫していたが、顔は笑っている。  「落ち着け!益実!家に帰ろう!」  研一は走りながら、隣近所に響き渡るような大声で怒鳴り立てた。  「俺を殴ったことは許してやる!俺たち、夫婦だろ!?」  荒い息づかいと笑い声が、彼女のすぐ後ろに迫っている。  益実の行く手を遮断機が塞ぐ。  カンカンと、けたたましく警鐘がなる。  益実に追いついた研一は、彼女の背中に手を伸ばし道路に突き飛ばした。  「はあ!やっと捕まえたぜ!」  「放して!」  「お前、春樹のとこに逃げる気?さっき言っただろ。あいつは、俺の言うことは何でもきく、しもべだよ」  「なに言ってるの!?でたらめ言わないで!!」  「鈍い女だなあ。俺と春樹は――――」  研一の言葉に、益実は絶句する。  彼女の背中を押さえつけていた研一は、わざと両手の力を抜いた。  「だから春樹は、お前より俺を選んだんだよ」  研一は能面のような感情のない顔で、益実を見下ろした。  益実はヨロヨロと立ち上がると、研一から逃れるように真っ直ぐに踏切に向かった。  遮断機をくぐる刹那に彼女は思った。  もっと早く真実が知りたかった。  そうすれば希望など持たず、この男を殺しても無駄なのだと、もっと早く絶望できたのに……。  夫はそんな妻の背中をアスファルトに座って眺めていた。  研一は益実が急行列車にはねられた瞬間、両手で膝を抱えるとニンマリと笑った。  ◆  「あ~!やっと終わったわ、ヤツの葬式!だから遺書、書けって言ったのによ!あのバカ女!!」  喪服姿の研一は、自宅でソファに座る春樹の膝の上に、ごろりと頭をのせた。  「妻は最近ノイローゼ気味で夫を殴ったあと、発作的に飛び込み自殺しましたって、警察を丸め込むのは楽勝だったわ!だけどさあ、益実んちは金持ちだから結婚したのに、この3年間たいして搾れなかったしよ!あの役立たず!それに比べてお前は学生時代から、俺の役に立ってたよなあ」  そう言って研一は寝返りを打つと、春樹のズボンの膝に手を伸ばす。  「益実さんにはひとかけらの愛情もなかったの?」  春樹は研一の頭の傷を優しく撫でる。  「あるわけねぇだろ。俺、女に興味ないの。そのこと、お前が一番よく知ってるだろ?」  研一は春樹の腹部に顔を埋めた。  「ああ、嫌というほどね」  春樹は微笑みながら内ポケットからガムと小さなプラスチックケースを取り出す。  ガムを噛みながら春樹は、研一の顔を両手で包み濃厚な口づけをした。  「飲み込んじゃった」  研一は甘え声で、春樹の胸に両手でしがみつく。  春樹はその研一の耳元にに、静かにささやいた。  「学生の時、僕に薬を飲ませて無理やり関係したな?その後も断れば益実さんにバラすと脅して」  「ああん?なんだよ、今さら」  「いつでも都合良く呼び出すために、僕が研究職に就くことも妨害した。おかげで僕と益実さんの人生はめちゃめちゃになったよ」  研一は何か言おうとしたが、春樹は彼の口を片手で軽く塞ぐ。  「しゃべるな。今夜はあと30分だけ、お前の相手をしてやる」  春樹のくぐもった声に、研一は満足そうに笑って目を閉じた。  ガムに包んだ睡眠薬のカプセルが胃の中で溶け出した30分後、研一は春樹の車で遠方の海岸に運ばれた。  彼の身体は春樹によって海中に投げ込まれる。  呼吸した瞬間、鼻腔から海水が気道を抜ける。  研一の意識は覚醒したが、身体を動かせない。  浅瀬で仰向けの彼が、あまりの苦しさに口を開けると一気に肺めがけ海水が流れ込む。  「苦しい苦しい死ぬ死ぬ死にたくない」  ゴボゴボと肺の中の空気が海面に上がる。  あっという間に肺が海水で満たされ、収縮と拡張が完全に停止する。  研一はわずか海面、数センチ下で溺死した。  最期に彼の頭を占めたものは、死の恐怖と錯乱だけだった。自らが踏みにじり、あざ笑った益実と春樹への詫びなど、むろんなかった。  「益実さん、僕らの恨みをやっと晴らしたよ」  春樹は岩の上に腰かけながら、研一に飲ませたものとは別のカプセルを口に含んだ。  「もっと早く、こうすればよかったんだ」  春樹は意識が遠のくのを感じながら、悔しげに呟く。  人が死ぬには、月が明る過ぎる夜だった。
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