夏の始めは、塩素の匂い

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 海人は、自分の部屋の扉を強く締めた、バタンと大きな音が、階下にも響いた。 自分の部屋に入ると、閉めた扉に背中をつけたまま、海人はずるずるとしゃがみこんだ。 さっき、空知に触れた唇が燃えるように熱かった、ゴシゴシとこすってみても、空知の柔らかい感覚が消えなかった。  声もなくついたため息が震えていた。  夏の暑さだけじゃない、けだるさが、胸の奥にほの暗く渦巻いていた。  ドクリと、胸が音をたてて軋んだ。  仄暗い沼のような心の奥で、気泡がはじけて波紋を広げていった。 「クソッ、空知のバカ……」  一人取り残された空知は、海人の足音を目で追いかけていた。 「ただいまぁ~あっ空知、今日は早かったね」 波千はランドセルを下ろして、手を洗いに洗面所に入っていった 「…お帰りィ」  空知は深いため息をついて、二階を見上げた。 「海人のバァカ」    兄弟たちがそれぞれ、学校や幼稚園から帰ってきた。 久美さんに言われて、空知は海人の分のおやつを持って、海人の部屋のドアをノックした。 「海人~入るよ」  ガチャリと扉を開けると、空調の効いた部屋で、海人はベッドの上で布団を被っていた。その布団の中から抗議の声が聞こえる 「入って来るなよ」 「何で?」 空知は、海人のベッドに腰かけた 「何で…って!」 布団から、海人の頭のてっぺんだけが見えた 「俺、謝らないから」 「は?」 ガバリと布団から海人が顔を出した 「謝らない、海人にキスしたかったし」 「えっ、おまっ!…キ、キ、キ、キ、」 「うん、キスしたよ。俺、海人が好きだし、海人も俺が好きでしょ」 「な!な、な、な、なに、何!言ってるんだよ」 「じゃあ、どうして、あんな顔してたの?」 「あんな顔?」 空知の眼が、まだ赤く燃えているようだった、そのことに気が付くと、海人はおずおずと距離を開けた。  その様子に、空知は少し傷ついたような顔をした 「…まぁ、いいや…兎に角」 空知は立ち上がって、手に持っていた皿を海人に突き出した …反射で思わずうけとってしまう。  海人は気まずいまま、空知を見上げた。 「俺、本気出していくから…… もう、腹くくれ」 それだけ言うと、空知は部屋を出ていった。 海人はただ、布団を抱えたまま、皿を片手にもって、空知の出ていった扉を見つめていた。 「…… 腹くくれ」 海人の小さなささやきは、静かに深く落ちていった。  次の日、海人はいつもより早く家を出た、空知と、どう接していいのか…… 距離感が全く分からなくなってしまったからだ。    とりあえず、時間が欲しかった、家にも、学校にも空知は居る。  海人が一人になれるのは、この通学時間だけなのだ。  いつもは一緒に登校する空知を、何も言わずに置いてきたから、きっと…相当怒っているだろう。  でも、どんな顔をすればいいのか…… 。    海人を乗せた電車は、ガタンゴトンと走っていく、窓の外の風景が流れていった、ぼんやりとそれぞれの家にかけられた、洗濯物を眺めていた。    空知は、朝から怒っていた、どうにもイライラが止まらない。  朝起きると、もう海人は先に学校に行っていた。    今日から、本格的に距離を詰めて、海人の本心に迫る予定だったのに、逃げられた。 「まぁ、手加減するつもりないけど」 割と大きめの独り言。  空知は学校へ行くと、海人の姿を探した、校内をウロウロと探すと、体育館でバスケット部が朝練をしていた、海人は、バスケ部だ。  そう言えばもうすぐ大会だと海人が言っていたのを思い出した。  きっと、海人に詰め寄ったら、部活の練習の為だったと言い訳をするのだろう。  それなら、久美さんにも怪しまれない…。  それにしても、一言も無いのは酷すぎる、そこは何とか反省してもらわないといけないなぁと、そこまで考えて、少し悪い顔になった空知は、自分の教室に帰っていった。
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