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妻
後藤さんはぼくとナナに目配せしてから、おもむろにビアグラスの中にショットグラスを落とした。泡がふわり、と溢れて、ビアグラスから流れる。素早く後藤さんが白い布巾でそれを掬い取った。
「はい出来上がり。バーテンダー泣かせ」
「放り込むだけだもんね」
ぼくと後藤さんは笑った。ナナはまだ不思議そうにグラスを見ていた。
昔はよく、妻と二人この店に来て、ゲームに負けた方がボイラーメーカーを飲む、という遊びをしていた。谷垣くんが加わる事もあった。彼は妻の後輩で、ぼくと二人でここに連れてきたのだ。
妻は、谷垣くんの話だととても優秀な編集者だという事だった。
「ちょっと厳しいっすけどね」
家にいる時は決して怒った顔など見せずいつもほんのりとにこやかだった妻だけれど、職場では違ったようだった。
この遊びの最初の生贄になったのは谷垣くんだった。残基後でろくに食事も摂らずにこの一杯を飲んだ谷垣くんは、腰砕けになってこの店のある雑居ビルの階段も支えてやらないと降りられない始末だった。
楽しい思い出だ。
ぼくも妻も年齢を重ね、妻は長かった髪を切り、ぼくの白髪も増えて、こんなやんちゃはしなくなっていた。たまにぼくがオン・ザ・ロックをここで飲むだけ、という年が何年も続いた。
気楽に夜の街で酒を飲むという単純な事が叶わなくなる騒動が世間に起こった頃、妻の乳がんが転移していた事が分かり、そのまま入院となった。
「嫌な世の中になっちゃったね」
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