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 ぼくの頭はどうにも妻の不在という決定的な現実が理解できず、結果として我が家は彼女が居た頃のままの状態を維持していた。もちろん、掃除や片づけといったぼくが回避していた仕事をやる羽目になったし、食事の自分で作るようになったけれど、それは妻が居た頃の温もりのようなものを手放したくないが故の、ぼくの最低限の努力だった。  結果として、彼女が遺していった空気の温もりのようなものだけは、今も我が家にはまるで品の良い香水の残り香のように漂っている。だから余計に、彼女の事を思い出してしまう。思い出したくない気持ちが、いや、忘れてしまった方がいいような気分が、今は強くなった。  つらいからだ。  今朝、こんな事があった。  ぼくは居間の本棚で探し物をしていた。古いアメリカ文学の研究書だった。 「ねぇ、あの本知らない?川崎史郎先生の」  返事が返ってくる筈はなかった。この部屋にはぼくしか居ないのだから。 「ったく」  ぼくは嘆息して、それから不意に冬の寒気を感じて自分の腕を抱いた。誰かに会いたかった。それで、『ティアドロップ』を訪ねたのだ。
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