マスターとブロくんの夏

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 序章   七月二十日 土曜日  それは、彼がいなくなってから三ヶ月くらい後、七月の半ば頃のこと。土曜の夜にいつも通り閉店作業をして、家に帰ろうとしていたら、携帯にメールが届いた。  送り主の名前を見て、どきりとする。……いなくなってしまった彼、ブロくんこと上風呂忍くんからだった。  ブロくんは、大学卒業と共に実家のある名古屋に帰り、どこかの会社の事務員として働いていた。この不景気には珍しく、小さいけれど中々忙しいところらしくて、毎日残業続きなんだとか。だから入社する前は「余裕ができたら遊びに行きます」と言っていたのに、その約束が果たされることはなかった。  筆無精どころか、メール無精、電話無精の彼のことをここまで知っているのは、俺が暇を見つけてはしょっちゅう電話をしていたから。特に彼が引越してすぐは、とにかく彼の声が聞きたくて堪らなかった。それまで、三日と開けずに店で一緒にいた反動は、自分で思っていた以上に大きかったんだ。  ……もう、三年も前に振られたのに。俺はまだ、彼への想いを忘れられなかった。俺を振った後も、ブロくんは変わらず俺に接してくれていたからかもしれない。はっきりとした答えを、もらえなかったからかもしれない。とにかく俺は、隣にいてくれる彼を三年間ずっと好きなままだった。  だから、彼が実家に帰ると言った時、俺は思いきり落ち込んだけど……、同時に、少し安心もした。これでようやく、失恋を嫌というほど実感できる。そして、別の誰かを好きになれる。そう思っていた。  ……でも、結局俺はこの三ヶ月間ブロくんを忘れることなんてできなくて、鬱陶しいくらい電話をしてしまった。彼だって疲れてるだろうに、ちょっと呆れてはいたけど、俺の話に付き合ってくれた。訊ねれば、自分のことも話してくれた。そのたびに俺は嫌われていないんだと思って……、嬉しくなってる自分がいた。大人げないから絶対に彼には言わないけど。 「……珍しいな」  つい、俺は呟いてしまった。  俺から連絡することはあっても、ブロくんから連絡が来ることはほんとに希だ。半田くんに聞いた話だと、ブロくんは彼にも他の友人にも、簡単な連絡事項を送るくらいしかメールをしない。その上、彼から電話を掛けられたことはおろか、彼が電話機能を使ってるところを見たことすらない程らしい。  そんな話を聞いてたし、実際に俺へのメールも簡潔なものばかり、電話が掛かってくることもなかったから、今回もそうなのかなと思ってそれを開いてみた。  予想通りとても短い文が一つ。でも、俺はその内容に思わず声を上げていた。 「……明日、店に行っていいかって……」  日曜は、今年から定休日にしている。大学に近いから、自然とお客さんも大学生や大学の先生が多くて、日曜はあんまり入りが良くないからだ。ブロくんもそれを知っているから、店に来られないのは分かってるだろうに。どうしたんだろう、一体。  少し迷ってから、俺はブロくんに電話を掛けた。でも、一向に繋がる気配がない。とうとう留守電になってしまい、俺は電話を切った。そして、明日は定休日だけど、と一応メールを送ってみる。  すぐに、返信が来た。電話には出ないのに、変だな……。店を開けなくてもいいから、十二時頃に店の前で待ち合わせてくれないかと書いてあった。句読点もなく、漢字の変換も少ない。なんだか、急いでるみたいだ。  ……ブロくんの様子は気になったけど、彼と久し振りに会える嬉しさの方が勝って、俺は結局店を開けることにした。それをメールしてから、売り上げを懐に入れて店を出る。戸締まりをして自転車に跨ると、またメールが届いた。  すいません。ありがとうございます。その二言だけだった。たくさん聞きたいことはある。でも、明日会ってから聞けばいいと思って、俺はそれ以上メールをしなかった。  そう。俺はこの時、大したことだと思ってなかったんだ。彼の異変を。  第一章  七月二十一日 日曜日  翌日。朝からいい天気で、すっかり夏めいた空から強い日差しが降り注いでいた。いつもはワックスで少し固めて後ろに流している髪を、今日は小さなゴムで結んでから外に出た。休みの日や寝る前は、結んでいる方が楽だし涼しいから。あと、一応頭皮を気遣って、っていうのもある。さすがに、三十越えたからねぇ。  すっかり慣れた道を、シティバイクでのんびり走った。こういうの、久し振りかもしれない。休みの日は家事やら帳簿の整理やらですぐ日が暮れるから、あんまり外に出ないから。今日はブロくんが来るから、帳簿は昨夜の内にどうにか仕上げた。家事はまぁ……、家に入れるつもりはないからいいかなって思って、なにもしてない。  彼と出会ってから三年間、一度も彼を家に上げたことはない。けっこう距離があるのと、家に上げたら最後、理性を保てる自信がなかったから、恐くて呼べなかった。もっとも、彼の方から行きたいと言われたこともないけれど。  半田くんとつーは、ブロくんがいなくなると決まってから、俺のやけ酒に付き合ってもらうために何度も家に入れた。あからさまに嫌そうな顔をしてたけれど、なんだかんだであの二人は俺を慰めてくれたな……。いい友達持ったよ、俺。  取り留めもないことを考えている内に、気が付いたら店の前まで来ていた。自転車を置いて、店を開ける。ついでだからちょっと掃除しようかな。  店の掃除をしてても、ブロくんのことを思い出す。バイト代出さないって言ってるのに、彼は二週間に一度の店の大掃除を手伝ってくれてた。それは決まって土曜日で、丸一日店を閉めて店内を隅々まで掃除する。決して器用とは言えなくても、ブロくんは丁寧に掃除をしてくれてた。ちょっと融通が利かないけど、彼はいつだって真面目でしっかり者だった。  いつも、友達と遊びに行ったりとかしなくていいのかな、とか思ってたけれど、手伝ってくれるのが嬉しくてなにも言えなかった。今思えば、二人きりで掃除しながら他愛もない話をしてる時間が、一番好きだったかもしれない。ささやかだけれど、……どうしようもなく、幸せだった。  あーあ、駄目だな。せっかくブロくんが久し振りに会いに来てくれるのに、凹んでちゃ彼に悪いよ。  音楽でも掛けようかな、と思って、備え付けの有線の機械に手を伸ばした時だった。  ドアベルが、鳴る。すっかり聞き慣れたはずのその音に、俺は奇妙な違和感を覚えた。 「……マスター」  聞きたくて仕方なかった、声。大好きだった、目。会いたくて堪らなかったはずの彼を見て、俺は驚きを隠せなかった。 「ブロくん……どうしたんだ?」  掠れてしまった声で、ブロくんは小さくなにか呟いた。目には光がない。目の下には黒い隈ができていて、足取りはふらふらと危なっかしい。 「ブロくん!」  足がもつれて倒れ込んだブロくんを、俺は咄嗟に抱きかかえてしまった。マスター、とブロくんはか細い声で呟いて、なんの抵抗もなく目を閉じる。  ブロくんはそのまま、寝息を立て始めた。このまま寝かせるわけにはいかないけど……、奥の物置部屋には布団なんてない。古くなったソファならあったな。とりあえず、あれに寝かせよう。  彼を抱え上げて、俺は奥の部屋に入った。少しほこりっぽいけれど、ここなら表より静かだ。古いソファに彼の体を横たえて、俺は表に戻った。  ドアに鍵を掛けてから、俺は冷蔵庫を開けた。先週の日替わりケーキの為に買っておいたレモンの残りと、それから生姜も取り出す。風邪かどうかは分からないけれど相当疲れているようだったから、生姜入りレモネードでもと思ったんだ。  少しのお湯で砂糖を溶かしていると、携帯が鳴った。着信は半田くんからで、訳もなくどきりとしてしまう。 「半田くん?」 『マスター、すいません。昨日もらったレシピなんですけど、店に忘れてるかもしれません。家探してもないんです』 「レシピ? ああ、シーフードパエリアの?」 「はい。しょうがないからネットで適当にレシピ探したんですけど、マスターに食わせてもらったのみたいになんなくて」 「パエリアって言っても、いろいろ味付けあるからねぇ」  レシピか。奥の部屋にあったような……なかったような。うーん、ブロくんしばらく起きそうにないから、探してみようかな。 「ちょっと待ってくれ。探してみるよ」 『へ? マスター、店にいるんですか?』 「え? ああ」  どうしようかな……。半田くんになら、言ってもいいかな。でも、ブロくんが来てるの、知らないみたいだし……。 『掃除の日じゃないですよね。なにやってんですか?』 「あー、えーっと……待ち合わせ、しててね」 『待ち合わせ? 店でですか?』  うーん、まぁいいか、半田くんなら。ブロくんも、いずれ彼には連絡取るだろうし。 「昨夜、ブロくんから連絡があってね。今日、昼にこっち来るから、店の前で待ち合わせしようって言われてたんだ。だから、ついでに店開けたんだよ」 『忍が? あいつ仕事忙しいんじゃなかったんですか?』  半田くんの声が、少し固くなる。 「そう聞いてたんだけど……、よく分からないんだ。来た途端に眠っちゃってね。相当疲れてるみたい」 『……どうしたんでしょう? あいつ』 「うん……」  こればっかりは、彼に聞いてみないと分からない。心当たりがないわけじゃ、ないんだけど。 『で、まだ店で寝てるんですか?』 「うん。奥の古いソファに寝かせてる。しばらく起きそうにないよ」 『じゃ、俺もそっち行きます。つーさんは?』  少し遠くから、小さくつーの声が聞こえた。それからしばらく、なにか二人で喋ってたみたいだけど、あまり聞き取れない。 『……やっぱ、つーさんがそっちに行きます。俺、飯作って待ってるんで、あいつ起きたら家に連れてきてください』 「うん。その方がいいね。なにか、食べやすいもの作ってあげて」  はい、と言って半田くんは電話を切った。  顔を合わせるとお互いに可愛くないこと言い合ってたけど、なんだかんだで彼とブロくんは仲がいい。二人とも結局は相手を心配してるし、いざって時は互いのためになんでもやる。でも、互いの距離はちゃんと保ってる。羨ましいくらい、いい関係だと思う。  ……って、なに考えてんだ俺は。半田くんに嫉妬なんて、無意味だ。彼が心の底から大切なのは、あの天然でシャイで馬鹿みたいに優しい、俺の幼馴染みなのに。  こんなこと考えてる暇があったら、ブロくんの心配しないと。とりあえず、作ったレモネードは冷蔵庫に入れておくとして……、他になにかできるかな。奥の部屋は冷房なんて付いてないけど、寝苦しくないかな?  そう思って、俺は奥の部屋を覗いた。  ブロくんは、時々眉を顰めながら眠っていた。暑くて寝苦しいというより、なにかにうなされてるような……。ほんとに、なにがあったんだろう。  ……お兄さんのこと、なんだろうか。  彼からは、二、三度くらいその話を聞かされていた。親に隠れてブロくんを犯していた、三つ上のお兄さんの話だ。その時、彼は決まって張り詰めた顔をしていた。震える声で、揺れる目をして、そこにいないお兄さんに怯えていた。  俺が知っているのは、ブロくんが高校に入るか入らないかの頃、お兄さんに何度か犯されたってこと。二人以外、家族すらそれを知らないってこと。そして、今はお兄さんと一緒に住んでいなくて、これは俺の予想だけど、お兄さんはあんまり幸せな人生を送っていないらしいこと。  それ以上は聞けなかったし、無理に聞こうとも思わなかった。彼の傷を抉るような真似はしたくなかったから。  ブロくんにはその時の恐怖や怯えがまだ残っていて、誰かに体を触れられると反射的に攻撃してしまったり、逆に全身が強張って動けなくなったりするらしい。だから彼は、友達にもあまり不必要に近付こうとはしなかったようだ。  実際、俺が見てる限りでは、半田くんとも言い合いをすることはあっても手が出ることはなかった。半田くんはよく俺の首根っこを引っ掴んだりつーの頭を撫でたりしてるけど、無意識の内になにか感じ取ってるのか、ブロくんにはそういうスキンシップをしない。  ブロくんの暗い過去を知ってるのは、当人達以外ではたまたま彼の頭を撫でようとして手を叩かれた俺だけ。そして、俺も誰にも言わなかった。俺が言うことじゃないのは、重々承知してる。それに……、不謹慎だけど、俺にだけ教えてくれたことが嬉しくて、他の誰かに……たとえば半田くんや口の固いつーにも、言う気にはなれなかった。  半田くんが置いていった、近所のスポーツジムが配っていた団扇でブロくんを扇いでいると、表のドアを開けようとする音が聞こえた。部屋を出てみると、案の定ドアの前にはつーが立っている。  いつかの夜を思い出しながら、俺は鍵を開けた。 「ヒロ、上風呂くんは?」 「まだ寝てる。かなり疲れてるみたいだ」  音を立てないように歩きながら、俺はつーと一緒に奥の部屋へ戻った。ブロくんは寝返りを打とうとしているのか、少し体を捩っている。 「……仕事で、無理をしたんだろうか?」 「かもしれない。……こないだ電話した時は、元気そうだったんだけど」  確かに、ろくに休ませてもらえないと愚痴ってはいたけど、なんだかんだ言ってブロくんは楽しそうだった。そういえば、今年から妹さんが地元の大学に通い始めたって、嬉しそうに言ってたっけ。それと、自分の給料からも少しだけ妹さんの学費を出してるとか、家にお金入れて始めて親の気持ちが少し分かったとか……。ほんと、泣きたくなるくらい、ブロくんは充実してたみたいだったのに。 「……ヒロ?」 「ん、ああ、なに?」 「お前も少し、参っているようだな。表で休んでいろ」  つーはそう言って、団扇を手に取った。うなされているブロくんの傍にしゃがんで、優しく扇ぎ始める。  ……俺、そんなに疲れた顔してたかな。訊ねようとして、やめた。  なんにも言わず、つーは手を動かし続ける。家からここまで歩いて十分程度の距離とはいえ、暑い中歩いてきたつーの頬にも汗が垂れている。俺はつーを置いて、表に出た。  レモンと生姜をまた取り出して、今度は二人分の分量でレモネードを作った。わざわざ来てくれたつーの分と、どうやら疲れているらしい俺の分だ。大して時間を掛けず、二杯のレモネードは完成する。  氷を二つずつグラスに落として、つーのところへ持っていった。つーはやっぱりなんにも言わず、少し頭を下げてそれを受け取って、口を付ける。その間も、手は動かしたままだった。  俺も黙って、ブロくんの寝顔を見ていた。優しい風に煽られて、少し癖のある前髪がふわふわと揺れている。俺が一目で気に入った意志の強そうな目は、瞼の奥に隠れていた。  レモネードを飲み終わっても、俺は二人の傍に立ち続けた。つーもとっくに飲み干していたけど、流しにグラスを持っていく気にはなれなかった。無性に、彼の傍から離れたくないと思ったんだ。  自分でも気持ち悪いくらい、まだ彼に執着してる。もう、これが恋なのか愛なのかも分からない。とっくに振られたのに、絶対に彼は振り向いてくれないのに。  いつの間に俺は、ここまで引きずるようになったんだろう。たとえ引きずってても、別の誰かに惹かれることなんていくらでもあったのにな。つーに振られた後が、いい例だ。上京して一年と経たず、好きな人ができた。イギリスにいた時には、何人か付き合ってみたこともある。心の隅にはずーっとつーへの気持ちが残ってたけど、見ないふりはいくらでもできた。それにあの頃、俺は今みたいにやたら連絡を取ったりはしてなかった。  ……違うんだ。あの時と今じゃ、相手も違えば状況も違う。けどそれは、引きずる理由にはならない。ほんと、どうしたんだよ、俺は。  溜息を吐くと、つーが少し顔を上げた。すっとした切れ長な目が、気遣わしげな視線を寄越す。また、表で休んでろって言いたいんだろうか。  言われる前に出て行こうとした俺の耳に、ブロくんの少し大きなうなり声が届いた。苦しげなうめきの後、衣擦れの音が響く。  目が覚めたんだ……! 「上風呂くん? 大丈夫か?」  つーが声を掛ける。俺もつーの隣に行って、ブロくんの顔を覗き込んだ。  ブロくんは力ない目で俺とつーを見てから、小さく頷いた。ゆっくりと体を起こして……、目を伏せる。 「……すいません」  開口一番、ブロくんは謝った。唇はひび割れてて、痛々しい。 「構わないよ。レモネード飲める?」  そっと頷いたのを確かめて、俺は表に戻った。冷蔵庫に入れておいたグラスを取って、すぐに奥へ引き返す。  レモネードのグラスを前にして、ブロくんはようやく少しだけ安心したようだった。強張っていた顔が緩み、目に僅かながら光が戻ってくる。 「落ち着いたら、俺の家に行こう。夏生がなにか食べやすいもの作ってくれている」  すぐ頷くと思ったのに、ブロくんはつーを見上げて悩んでいた。何度か口を開こうとして、止める。……遠慮してるのかな? 「半田くん、すごく心配してたよ。顔出してあげたらきっと喜ぶ」 「……俺は」  ブロくんは、今度は俺を見た。縋るようなその目に、不謹慎だけどどきりとする。 「夏生には悪いけど……、今は行けません。……すいません」 「なぜ? すぐ帰らなければいけないのか?」  ブロくんの目が、揺れる。それは、お兄さんのことを話す時に似ていた。 「……名古屋には帰りません。こっちで、仕事と家を探そうと思ってます。だから栗花落さんの家には、世話になれません。長居、したくなりそうだから」 「え……? でも、今の仕事は」 「一昨日、辞めました」  きっぱりと、どこか悲壮感すら漂わせながら、ブロくんは言い放った。 「一体、どうして?」 「……すいません。話せません」  つーの問い掛けは、俺の聞きたいことと全く同じだ。でも、ブロくんは……、話してくれそうにない。よほどのことがあったんだろうけど……。今は、それに触れない方がいいだろう。 「仕事と家を探すって言っても、寝るところがないと困るだろ。宛はある?」  ブロくんは、俺の質問に首を振った。 「……ネカフェか、カプセルホテル探そうと思ってますけど……」 「じゃあ、やっぱりつーのとこに世話になったら? とりあえずお金は掛からないし、半田くんがまともなご飯作ってくれるだろうし」  ブロくんの目が、また揺れた。それから、じっと俺を見上げる。……まさかと、思うけど。 「マスターのところは、駄目ですか?」  こういう予感ばっかり当たるなぁ……。 「……駄目だよ。つーの家みたいに広くない。第一、布団が一つしかないよ。それに、ここからも二キロくらい離れてるから、今から歩いて帰るだけでも……」 「ヒロ」  咎めるような声で、つーは俺の言葉を遮った。 「布団が必要なら、一つ貸そう。上風呂くん、それでいいか?」 「ちょっと待ってくれよ。ほんとにうちは駄目だって!」  二人の視線が、俺に集中する。なんかもう……、やりにくいなぁ。言ってらんないけどさ。 「布団持ってくるって、どうするつもりなんだ? 車持ってるわけじゃないのに。それに、一応単身者用のマンションなんだ。二人で住んでるのが見つかったら困る」 「仕事が見つかるまでくらいなら大丈夫だろう。布団はタクシーで運んで貰う」  これは……、引く気はなさそうだなぁ。はぁ、こうなると頑固なんだよこいつ。溜息を吐いた俺のところに、意外な助け船がやってきた。 「あの、栗花落さん、やっぱいいです。……適当に、どっか寝られるとこ探すんで」 「だが……、なにがあったかは知らないが、疲れているんだろう? 無理をしてはいけない。せめて二、三日はちゃんとした物を食べて、きちんと布団で寝た方がいい」  ……正論だ。全くの正論なんだけど、そして俺もその言葉には賛成なんだけど……。 「きっと、夏生も同じことを言うと思う。ヒロ、お前だって分かるだろう?」  ブロくんは不安そうに俺を見ていた。……俺だって不安だ。多分、つーが思ってるよりずっと、事態は深刻なんだよ。いろんな意味で。 「……栗花落さん、マスターが駄目って言うなら、無理は言えません。俺なら、大丈夫です」 「しかし……」  とてもじゃないけど大丈夫そうには見えない顔をして、ブロくんは頭を下げた。 「いきなり来て、すいませんでした。レモネードありがとうございます」  来た時と同じように、危なっかしい足取りでブロくんは立ち上がった。目には、やっぱり光がない。  ……駄目、だな。俺も。 「……いいよ。おいで」 「え?」 「狭いし散らかってるし、あんまり世話もできないけど、うちでいいならおいで」  少しだけ、ブロくんの顔に喜色が浮かぶ。……ああ、もう……、誤解したくなるじゃないか。ありえないことを、期待したくなるじゃないか。 「つー、布団はいいよ。俺は座椅子で寝るから。あと、半田くんにごめんって言っといて」 「ああ。上風呂くん、気が向いたらでいいから、夏生に電話でも掛けてやってくれ。ひどく心配していた」 「……はい。落ち着いたら遊びに行くって、伝えてください」  僅かに、ブロくんの声が明るくなった。……なんだかそれだけで、いろんなことがどうでもよくなってくる。結局俺は、ブロくんが喜んでくれたらそれでいいんだろうな。  店の前でつーと別れてから、俺達はタクシーを拾った。さすがに、この状態のブロくんを二キロ近く歩かせるわけにはいかない。明日の朝もタクシーで行かなきゃいけないけど、仕方ないよな。  タクシーの中でも、ブロくんはずっと無言で窓の外を見ていた。俺も掛ける言葉が思い付かなくて、見慣れた風景をぼんやりと見送った。気怠い午後の空気が、いっそう俺達から言葉を奪う。  口には出さないけど、明るいところで見ると少し痩せたような気がするな、とか、こっちに住む気だって言うのに荷物もなんにも持ってないよな、とか、いろいろ考えた。あと、不謹慎だけど……少し疲れたような、伏し目がちな彼の横顔が綺麗だな、とかも。  なんにも言い出せないままマンションに着いて、俺達はタクシーを降りた。駅から離れた住宅地の隅っこにある、古い鉄筋コンクリートでできた単身者用マンションだ。店は知り合いの伝手で借りたとはいえ家賃はそんなに安くないから、せめてこっちの家賃は減らそうと思ってこんなところに住んでいる。  ……まぁ、距離を言い訳にしてブロくんの部屋に泊まったり、俺の部屋に来させないようにできたから、正直この立地は有難かったんだけど……。 「こっちだよ」  俺が歩き出すと、ブロくんは黙ってついてきた。ちらちらと、廊下や階段を見ている。 「古いところで、びっくりした?」 「……いいえ。あの」  部屋の前で立ち止まり、俺はポケットから鍵を取り出した。ブロくんはちょっとだけ躊躇ってから、頭を下げる。 「無理言って、すいません。お世話になります」 「……いいよ。今の君をほっとけないから」  ブロくんは、顔を上げて眉をぐっとしかめた。表情は険しく、目は揺らいで弱々しい。口を開こうとして、止めた。とりあえず、部屋に入って落ち着いた方がいいだろう。 「ちょっと待っててね。部屋、片付けるから」 「……お構いなく」 「そういう訳にはいかないよ。ほんと、足の踏み場もないから」  苦笑してみせると、ブロくんは小さく頷いた。いつになく従順な彼が、俺の不安を掻き立てる。……本当に、どうしたんだ? ブロくん。       *  初めて来たマスターのマンションは、少し古いが小綺麗なところだった。〈西風〉の上にある、俺と夏生が住んでた学生向けアパートもたいがい古かったけど、ここよりずっと汚かったような気がする。  マスターは、部屋の前で俺を止めた。中が汚いらしい。別に、気にしないのに。  ……とにかく、今は外にいたくなかった。いるはずがないあの人の影が、すぐ近くまで迫っているような気がして落ち着かない。  マスターは部屋に入ったまま、中々出てこなかった。五分か十分か、それ以上か……、背中がぞわぞわして、時間の経過がよく分からない。  ……恐い。……恐くて、仕方ない。恐がる必要なんてないはずなのに、俺の背中はずっと寒気を感じていた。それは、一昨日の昼から続いている。  早く。いつの間にか、俺はそう叫びそうになっていた。足が、小刻みに震える。恐い。  我慢できなくて、俺はドアを開けた。狭い玄関に入ると、すぐ目の前に緑色のカーテンが掛かっていた。左手にはちょっと広めのキッチン、右手にはユニットバスっぽいドア。俺は追い立てられるように、カーテンを開けた。なんの匂いかよく分からないが、懐かしい香りが鼻を突く。 「……すいません。上がります」 「ああ、ごめん。待ちくたびれちゃった?」  マスターはちょっと驚いたようだったが、すぐに笑顔を見せてくれた。……ほっとする。背中から、寒気が少しだけ逃げていった。 「そこ、座ってて。今、お茶出すから」  少しぼろくなってる座椅子を指さしてから、マスターはカーテンの向こうへ行った。冷蔵庫を開ける音と、グラスを置く音が聞こえる。  部屋は八畳くらいだろうか。シングルベッドと、洋楽っぽいCDが詰まってるラック、その隣にミニコンポ、小さな本棚が二つと、その上にノートパソコンが一台、後は俺が座ってる座椅子と、その前にあるローテーブル。部屋にあるのはそれくらいだった。あと、窓際に乾いた洗濯物を詰めた洗濯カゴが置いてある。俺が途中で入ってきたから、片付けられなかったんだろう。  生活感のある部屋に入ったのは、二日ぶりくらいだろうか。三日前まで実家で暮らしていたのに、随分久し振りに家らしい家に入った気がする。 「ごめんな。掃除とかあんまりできてないから、汚いだろう」 「いえ。……こっちこそ、いきなりすいません」  グラスとマグカップを持って、マスターが戻ってきた。一人暮らしだから、食器少ないんだろうな。俺もあんまり持ってなかった。  マスターは俺の向かいに座って、グラスとマグカップを置いた。目の前にあるグラスを取って、中を一口飲んでみる。冷たい麦茶の味が、口の中に広がった。  無性に、泣きたくなった。一昨日の昼から、ずっとそうだ。そのたびに我慢して、そのたびに余計苦しくなった。そして、頭の中がぐるぐるして、どうしたらいいか分からなくなる。 「……あの、さ」  混乱し始めていた俺の耳に、マスターの少し低い声が届いた。困り顔で、マスターは俺を窺っていた。 「あー、その……暑くない? クーラー、一応効いてるはずなんだけど」 「大丈夫です」  そっか、と言ってマスターも茶を飲んだ。いつも匂いの少ないワックスで固めてる髪は、今日が休日だからかゴムで縛られていた。さっきからずっとマスターと一緒にいたのに、ようやくそれに気付いた。  三ヶ月ぶりに会ったマスターは、ちょっと痩せた気がする。元々、太りすぎても痩せすぎてもいない体型だったけど、少し……頬の辺りが、こけたような。あと、変に優しい。……俺が、こんな状態だからだろうけど。  マスターはなんにも言わない。じっと、マグカップを見つめている。……前は、ほっといたらいくらでも勝手に喋る人だったのに。その割には、俺が喋ると急に静かになって、どんな話でも黙って聞いてくれてた。授業の話とか、読んでる本や聴いてる音楽の話とか、多分この人はあんまり興味なかったんだろうけど、それでも嫌な顔一つしなかった。  マスターが、俺のことをずっと……好きだったからだろう。  想いを告げられたのは、バイトを始めて二ヶ月くらいしてからだ。四月の末頃で、夏生が栗花落さんに告白したその日の夜だった。マスターは一人、店内でブランデーを飲んでて、俺は部屋に帰る途中、まだ店に灯が点いてることに気付いて寄った。  その時に、俺はマスターの想いを知って、マスターは俺の傷を知った。  俺は誰にどこを触れられても、反射的にその手を払ってしまう。場合によっては、あの夜のことがフラッシュバックして頭が混乱してしまう。動けなくなったこともあった。  だから、俺は高校の頃から気安く触れないような雰囲気を出そうとしていたし、実際に夏生や他の友達も俺にはあまりじゃれついてくることはなかった。  本当は、大学に入ってすぐは友達なんかいらないと思ってたけど、夏生に声を掛けられてからいつの間にかできていた。そして、そいつらといる時は、普通の大学生をしていられた。  マスターだけは、俺の傷を知っている。知った上で、俺を好きだと言ってくれた。……正直、嬉しかった。けど俺は、この人の想いに応えることはできない。……俺はゲイじゃない、はずだから。それに俺は、もう誰も好きになれない。好きって感情がどういうものかも、忘れてしまった。  他人に触れられるのが恐い。他人に近付かれるのが恐い。物理的にも、精神的にも。だから、俺には好きになってくれる誰かも、好きになる誰かもいらない。母さんと妹がいてくれれば、それでいい。二人を自分なりに助けて、守っていければそれでいいと思っていた。一昨日までは。 「……一昨日の、昼休憩に」  気付いたら、俺は口を開いていた。マスターは、いきなりしゃべり出した俺に驚いていたが、なにも言わずに頷く。 「母さんから、電話があって。……あの人、看護の仕事やってるんですけど、普段は昼なんて忙しいから、中々電話掛けられないのに……。だから、なんか大事かと思って、すぐに取ったんです」  上手く喋れない。舌も、回らない。でも、一度口を開いてしまうと、せき立てられるように俺は言葉を吐き出していた。 「……母さんの話だと、親父が、死んだって……」 「……え?」 「俺の家、高一の時に親が別居したんです。俺、母さんと妹と一緒に、最初は避難所にいて」  俺が上手く説明できないせいで、マスターはよく分かっていないようだった。荒れ始めた頭の中を、できるだけ整理して口に出す。 「DVの……、家庭内暴力の被害者が避難する施設があって、三人でそこに行ったんです。その時以来、親父には会ってなくて……。だから、親父がやばいなんて話、全然聞いてなくて」  マスターは固い表情のまま頷いた。……こんな話、他人に聞かせるべきじゃねぇかな、とか、聞いてたって楽しくねぇよな、とか思ったけど、俺は止められなかった。 「……母さんに、どこでそのことを知ったか、聞いてみたんです。そしたら、……その」  口の中が、乾く。引いていたはずの恐怖が戻ってきて、唇が震えた。……恐い、けど、言わなきゃ……。 「あに、きが……、電話、くれたって。……兄貴は、ずっと親父と一緒で、だから最期も看取って……、連絡、くれたって。母さん、兄貴にだけは、新しい電話番号教えてたから」  あの人の顔が、声が、頭の中に戻ってきそうになって、俺は目を瞑った。でも、余計に鮮明になっていく兄貴の姿が、暗闇の中で浮かんできた。……恐い。恐い……! 「ブロくん? 大丈夫? ブロくん?」  目を開けたら、心配そうなマスターの顔があった。少しだけ、恐怖が消える。 「……すいません。……それで、葬式は密葬で済ませたとかで、親父の墓参りに行ってやってくれないかって、言われたみたいです。……それと」  マスターの顔を見て、俺は深く息を吸った。ここに、マスターに頼りに来た本当の理由は、この先だった。 「……それと、もし良かったら、一緒に住ませてくれないかって、言われたって……」  目を見張って、マスターは言葉を探しているようだった。 「母さんは、兄貴のことずっと心配してたし……、あの人が、俺になにしてたか知らない、から……。すぐにでも、越しておいでって……言うつもりだって。俺、なんにも、言えなくて……!」  声が、詰まる。その時のことを思い出して、気付けば俺は泣き出していた。持ったままだったグラスの中に、ぼたぼたと涙が落ちる。  マスターは立ち上がって、洗濯カゴの中からタオルを一枚取り出した。悲しげな顔をして、それを俺に渡してくれる。少しごわごわしてたけど、あったかいタオルだった。余計、涙が止まらなくなる。  しばらく、俺は泣き続けた。マスターは黙って俺の隣にいてくれた。きっと、あの日の夜みたいに、ほんとは頭でも背中でも撫でたいんだと思う。手が何度か上がって、力なく下りていったのが見えた。  嬉しいけど、……申し訳ない。 「……家、帰ったら、もう兄貴がいるような気がして……、恐くて、帰れなかったんです。その内、名古屋にいると鉢合わせするような気がしてきて、結局こっちに来て……」 「……うん」 「事情話して、誰かのところに……って、思ったら、マスターしか思い浮かばなかったんです。すいません……」  タオルを顔から話して、俺は頭を下げる。その拍子に、涙がまた落ちた。 「……そう、だったんだ」  ぎこちない声で、マスターはそれだけ言った。 「ほんと、すぐに仕事探して出てくつもりなんで……、少しだけ、置いてください」 「うん……。そういうことなら、好きなだけここにいるといいよ」  笑顔も、どこかぎこちない。……やっぱり、迷惑だろうな。いきなり一人暮らしのところに来て、「しばらく泊めてくれ」なんて。 「できること、なんでもやるんで……、言ってください」 「いいよ、そんな。それより、ブロくんは体を休めることを考えなよ。あんまり寝てないんだろう? 隈、できてるよ」 「……あ、はい。……薬、置いてきたんで」  マスターは、不思議そうな顔をした。 「薬?」 「睡眠薬、飲んでたんです。大学入ってからずっと」 「そう、だったの?」 「はい。……マスターや夏生が泊まった時は、ばれないように飲んでたんで知らないと思いますけど」  そうか、とマスターは少し力なく言った。なんか……、ほんと、悪いことしてる気がする。こんなこと、知りたくなかっただろうな。 「行きつけてた病院があるんで、明日にでも行ってきます。今晩は寝られるか分からないけど……、疲れてるから多分大丈夫です」 「……無理しないでいいからね。辛かったら、なんでも言って」  マスターは優しくそう言ってくれた。心遣いは嬉しいけど、これ以上我が儘を言う気にはなれない。俺は首を振った。 「大丈夫です。ほんとに……すいません」 「もう謝らなくていいよ。……それより、落ち着いた?」  頷くと、マスターは立ち上がった。 「眠れないかもしれないけど、ちょっと横になってて。俺は買い出し行ってくるから」 「ついていきます」 「いいって。待っててね、シーツ替えるから」  笑顔で俺を制して、マスターはさっそくシーツの用意を始めた。泣き疲れて頭がぼーっとしてる俺は、なんにも言い返せない。黙ってマスターを見ていた。  黒いシャツに包まれた背中は、男の俺から見てもけっこう綺麗だ。重い荷物を運び慣れてるから、筋肉は適度に付いてる。週に六日はここから店までチャリで往復してるから、太腿も割と太い。……少し、羨ましい。身長は大して変わらないのに、体格はマスターの方がよっぽど良かった。  高校、大学とろくに部活をやってなかった俺は、あんまり筋肉が付いてない。その上、三ヶ月間の事務仕事で体は鈍る一方だった。栗花落さんや夏生は朝走ってるらしいから、俺もこの機会にちょっと走ってみようかな。体が本調子に戻ったら、だけど。 「はい、どうぞ」  気付いたら、マスターは寝床の用意を終えていた。促されるままにベッドに入ってみる。この部屋と、同じ匂いがした。  マスターは大人しく横になった俺を見て、少しだけ寂しそうな顔をした。でも、すぐに心配そうな表情に戻る。 「なにか、食べたいものある?」 「……すいません。食欲、あんまなくて」 「そっか。お粥しようか?」 「お願いします」  喜んで、と冗談めかして言って、マスターはいつものように笑った。……無性にその笑顔が懐かしくて、また泣きたくなる。 「……じゃあ、行ってくるね。なんかあったら、連絡して」  マスターは俺に薄い掛け布団を掛けて、背を向ける。俺はその背中を、ベッドの中でぼんやりと見送った。       *  予想以上に、ブロくんの家庭事情は深刻だった。父親からの暴力に、兄からの性的虐待。彼があんなになるまで傷付けられた理由が、ようやく分かった。  それにしても、彼のお兄さんはなにを考えているんだろう? 自分が散々に傷付けた弟と、また一緒に暮らそうとするなんて……。いや、実の弟を犯すようなヤツなんだから、それくらい平気でするか。  ひどく冷たい、けど激しい感情が、頭の奥の方からしみ出していた。会ったこともないブロくんのお兄さんへの憎悪が、一歩進むたびに増えていく気すらした。スーパーまでの道程で、この憎しみはどれだけ大きくなるんだろう?  同時に、忘れ去ろうとして忘れられなかった想いが、再び強くなっていることにも気付いた。……でもそれは、決して実ることがない。  彼を傷付けたのは、俺とも彼とも同じ、男である彼の兄だ。その苦しみの深さは、俺の希望のなさとも同じ。叶うはずないんだ、こんな想いは。俺が男である限り。  ……忘れなければいけない。頼ってきてくれた彼のためにも、彼の傷口を抉るようなこんな想いは、捨てなければいけない。 これでようやく彼を諦められると思うと、なんだか少しほっとした。これからしばらく、狭い部屋の中で顔を突き合わせて暮らすことにはなるけど……、あんな話聞いた後じゃ、おかしな気にもならない。  片思いの相手としてじゃなく、ただ純粋に、俺を頼ってくれた年下の友人として彼に接しよう。きっと彼にも、その方がいい。  食材と歯ブラシや箸なんかのちょっとした生活用品を買ってスーパーを出た時だった。ポケットに突っ込んだままだった携帯が、いきなり震えた。  ブロくんかな、と思って、俺は画面を見ずに電話に出た。 「もしもし?」 『マイドー、お久しぶりヤネー、ヒロ』  しかし予想に反し、胡散臭い片言の関西弁を使う、懐かしい声が響いた。 「エリ? 久し振り! どうしたの、急に」 『一ヶ月、東京本社で研修なっテン! 今、東京駅ヤネン!』 「すごいじゃないか! ししやの本社なんて、日本人の職人でも中々入社できないんだよ!」 『へへへ……。ウチ珍しいサカイ! こないだも、雑誌に載ったんヤデ!』  電話の向こうから、照れ臭そうなエリックの声が聞こえた。  エリことエリック=ウェイクフィールドは、俺がイギリスにいた頃、世話になってた菓子屋兼喫茶店のマスターの息子だ。そして、イギリスでの初めての恋人。すぐに別れちゃったけど、友人としての関係は今でも良好なまま続いてる。  俺の帰国より二、三年くらい前から来日して、ずっと京都で和菓子の勉強をしていた。二年前には就労ビザまで取得して、日本の大手和菓子メーカー、ししや京都店で働いている。どうやら、その内永住するつもりらしい。  この胡散臭い関西弁は、京都に住んでる内にすっかり覚えちゃったみたいだけど……。まぁ、意味は通じるからいいか。 『暇あったら、店にお茶飲み行ってエエ?』 「もちろん。ちっちゃい店だけど、いつでもおいで。あ、日曜はお休みだよ」 『オーキニ! あと、お酒飲み行ってもエエ?』 「あー……、それは」  酒飲むなら、匂い残したくないから家の方がいいけど、ブロくんいるからなぁ……。まぁ、閉店後に店でちょっと飲むくらいならいいか。 「土曜の夜で、店が終わった後ならいいよ」 『オーキニ! 落ち着いたら、また電話するワー』 「うん。また」  忙しなく、エリは電話を切ってしまった。あいつはあいつで、忙しいんだろうな。でも、久し振りに声を聞けて良かった。  携帯から耳を離すと、ちょっとだけ荒んだ気分が落ち着いたのに気付いた。さっきまで胸の中でわだかまっていた、どろどろした感情がなくなっている。ありがたかった。暗い気分のまま家に戻っても、ブロくんを落ち込ませるだけだろうから。  携帯の画面を見て、少し悩んでからブロくんにメールを打った。歯ブラシとかを買ったことと、他にいるものがないかって。  寝てるかなと思ったけど、すぐに返信が来た。感謝の言葉と、遠慮の言葉と。いつも通りの素っ気ない文面だ。つい苦笑してしまってから、俺は携帯を閉じた。  ブロくんが落ち込んでる分、俺がしっかりしないと。少なくとも、彼が仕事を見つけて家を出るまでは。  買い物袋を握り直して、俺は再び歩き出した。  部屋に戻ると、すぐにブロくんは起き上がった。少し眠そうな目を擦ってる。薬がなくて一昨日からろくに寝てないってことは、いい加減に体の方が限界なんだろう。 「おかえりなさい」  ブロくんは細い声で俺を迎え入れた。随分と久し振りに、そんな言葉を聞いた気がする。自然と、俺は笑顔になっていた。 「ただいま。眠れそう?」 「……いえ。眠りたいんですけど……」 「そっか……。しばらく、横になってていいよ。俺は夕飯の準備しちゃうから」  素直に頷いて、ブロくんはまた横になった。目を閉じると、いつも張り詰めている表情が少しだけ緩む。寝顔だけなら、童顔の半田くんと同じくらい幼く見えた。  まだ日が高かったけど、俺は夕食の準備を始めた。さっきブロくんが言ってたけど、食欲がないってことは多分あんまり食べてないんだと思う。もしこのまま眠れて睡眠欲が満たされたら、食欲も出るんじゃないだろうか。その時は、すぐにでも食べられるようにしておいてあげたい。  あ、でもお腹が減りすぎて眠れないってことも、ないわけじゃないか……。うーん、どうなんだろう。  カーテンの向こうを覗いて、ブロくんの様子を窺ってみた。横になってはいるけど、寝息は聞こえない。 「少しなにか食べる? ヨーグルトとかでいいなら、買ってあるけど」 「……大丈夫です」  すぐに答えが返ってきた。細く、張りのない声だ。ひどく……胸が痛くなる。 「けど……、お腹が減ってて眠れないのかもしれないよ」  状況をどうにか変えたくて、くどいのは分かってたけど言ってみた。 「ほんとに、食欲ないんです。……一昨日から、なに食べても味がしなくて。腹減ってるはずなのに、減った気がしないんです」 「そう、なんだ……」  ブロくんは横になって、小さく「すいません」と呟いた。それから、そっと口を開く。 「……でも、レモネードは……」 「え?」 「店でもらったレモネードは、久し振りに飲み物飲んでる、って気がしました。……ありがとうございました」 「う、ん……。どういたしまして」  駄目だなぁ。さっき、ちゃんと諦められるって思ってたのに、またどきどきしてる。……これじゃ駄目だ。普通に、普通に……。 「じゃあ、なにか飲み物作ろうか? レモンないからレモネードは作れないけど、酸っぱいものの方がいい? 疲れ、取れるよ」  しばらく、ブロくんは考えているようだった。かなり間を空けてから、ゆっくり起き上がる。 「いいよ、寝てて」 「……けど、眠れないのにベッド占領してんの、なんか悪い気がするんで……。飲み物くらい、自分で作ります」  立ち上がった彼の足元は、前ほどふらついていない。目も、僅かだけど光が戻ってきたみたいだった。眠そうだと思ってたけど、ちょっと横になって元気が出たんだろうか。それならそれで嬉しい。 「それに、なにかしてる方が気が紛れるんで」 「うん。じゃあお願いしようかな。ミルクセーキの作り方、覚えてる?」  こちらへ歩きながら、ブロくんは頷いた。 「砂糖、少なめでいいですか?」 「え、あー、うん……」  そういえば、これ教えた時に「砂糖何杯も入れるな」って怒られたっけ。糖尿病とか心配してくれてるのは有難いけど、ミルクセーキってあまーくするから美味しいんだよなぁ……。 「……やっぱ、マスターが味付けしていいですよ」  不意に、ブロくんは少しだけ柔らかな声で言った。……笑って、る。ブロくんが笑ってる。それだけで、頭が真っ白になりそうだった。 「えっと……」 「甘い方がいいのに、って顔に出てました」 「う、うん」  ブロくんはまともに受け答えできない俺を見て、笑顔を引っ込めた。 「どうか、しましたか?」 「あ、いや……、随分久し振りに、君の笑ったところ見た気がして」  見る見るうちに、ブロくんの顔が曇っていく。針のような罪悪感が、ちくちくと俺を突き刺した。ほんと俺、駄目だ……。 「ごめん」  ブロくんは首を振って、泣きそうな顔で俯いた。 「……マスターは、なにも悪くない」  白くなるほど手を握り締め、ブロくんは吐き出すように言う。頼りない肩を抱いてしまいたい衝動と戦いながら、俺は極力優しい声を作った。 「ねぇ、もっと素直になっていいんだよ。こういう時くらい。なんなら、俺に当たってもいい。もっと、自分勝手になればいい。  君は前から、人への気遣いは上手だったけど、我が儘を言うのは下手だった。でも今は、自分の気持ちをセーブしても辛いだけだろ?」 「けど……!」  ブロくんは顔を上げ、真っ直ぐな目で俺を見つめていた。その目には、ゆらゆらと涙が揺れている。場違いなほど、……綺麗だった。 「ここに押しかけただけで、もう十分我が儘言ってます。これ以上、マスターに迷惑掛けられねぇ……!」 「それとこれとは、話が別。俺が言ってるのは、君の感情のことだよ。辛いなら辛いって言えばいい。泣きたくなれば、思い切り泣けばいい」  一滴、涙がこぼれ落ちる。きつく噛み締めた唇が、痛々しい。 「君はさっきから何度も大丈夫だって言ってるけど、全然そうは見えないよ。繕った言葉ばっかり貰っても、余計心配になるだけだ。……俺に迷惑を掛けたくないなら、もっと我が儘になってくれよ。その方が安心……、っ!」  ……一瞬、なにが起きたか分からなかった。  胸に押し付けられた熱い額と、強く引っ張られるTシャツの感触が、俺の思考の全てを支配する。  ひくり、とブロくんの喉が鳴った。その音の間隔が、どんどん短くなっていく。俺の胸に埋まる額が、小刻みに震える。シャツを握る手が、力を増していく。  とうとう、彼の口から言葉にならない叫びが迸った。小さな子のような激しい泣き声が、胸元から何度も何度も漏れる。意味を成さない音の羅列の中に、時々しゃくりが混じっていた。  至近距離で胸を突くその音が、自然と俺の手を上げさせる。あやすように背中を撫でても、今の彼なら受け入れてくれるだろうか。「恐かったね」と言って頭を撫でても、手を払われないだろうか。……彼はその感触で、お兄さんを思い出さないだろうか。答えは全て、ノーだった。  俺にできることなんて、こうやって感情を吐き出させて彼を慰めるくらいなのに、上手いやり方が思い浮かばない。抱き締めたい衝動ばかりが、頭の中で暴れている。触れれば傷付けてしまうと、分かっているのに。  いつの間にか、俺は手を下ろしていた。さっきのブロくんみたいに、強く手を握り締める。  しゃくりは、ゆっくりと止んでいった。シャツを握っていた彼の手も、力をなくしていく。思い切り鼻を啜る音がしてから、ブロくんはそっと離れていった。  涙でぐしゃぐしゃになった目を腕で拭いて、ブロくんは顔を上げた。 「……ありがとうございます。すっきりしました」 「うん……良かった」  俺は、上手く笑えてるだろうか? 分からないけど、ブロくんもほんの少しだけ笑い返してくれたから、大丈夫なのかな。  照れ臭そうに目を伏せてから、ブロくんは俺の後ろにある冷蔵庫に向かった。予定通り、ミルクセーキを作ろうとしているんだろう。俺も気を取り直して、お粥の準備を進めた。  でも、頭から離れない。ブロくんを抱き締めたいと思ってしまった、自分の強い感情が。駄目だと言い聞かせても、収まってくれない。  どうにかしなければ、いけない。彼のためにも、自分のためにも。 *  マスターの言葉に甘えて思う存分泣いた後、俺の気分はかなり落ち着いた。お礼の意味も込めてミルクセーキをめちゃめちゃ甘くしたら、ちょっと飲むのが辛くなってしまった。けど、悪くないと思える。  そうやって俺の気分がすっきりしたのはいいが、今度はマスターが考え込んでいた。好みの味になってるはずのミルクセーキをちびちびと飲みながら、難しい顔をしている。  ……ガキみたいに泣いたから、引かれたんだろうか。それとも、勢いで抱きついたからだろうか。怒りや苛立ち以外の感情で自分から誰かに触れようと思ったのは久し振りだったけど……、触れない方が良かったんだろうか。  マスターの想いに応えられないのに、結局俺はこの人に縋っている。やっぱりそれは、マスターにとっては辛いんだろうな。苦しめてるって分かってても、俺はこの人しか頼れない。……嫌なヤツだな、俺。  自己嫌悪で、さっきと違う意味で泣きたくなってきた。  思わず漏れそうになった溜息を殺し、グラスの中のミルクセーキを飲み込む。甘ったるくて、優しい味がした。  目の前にいるこの人は、そういう物が大好きだ。その癖、俺みたいな甘くもなければ優しくもないヤツを好きになる。……そういえば、マスターはなんで俺のこと好きなんだっけ。 「……あの、さ」  俺がマスターの顔を盗み見たのと、マスターが口を開いたのはほぼ同時だった。 「なんですか?」  言いにくそうな顔をしているマスターを、ちゃんと正面から見る。 「こういう時に言うのも、なんなんだけど」 「はい」  なんだろう? いきなり改まって。マスターは俺の顔と手元のマグカップを交互に見てから、目を閉じる。 「……実はね、恋人できそうなんだ」 「…………え?」  恋人。こいびと。……コイビト。頭の中で、その単語がぐるぐる回る。……マスターに、恋人? 「イギリスにいた時、ちょっと付き合ってた人でね。お世話になってたお店のマスターの、長男なんだけど。今、日本で働いてて……。ヨリ、戻そうかと思ってる」  イギリス。付き合ってた。ヨリ戻す。ぶつ切りの言葉に頭が揺さぶられて、言ってる意味がよく分からない。 「心配しなくても、あっちは普段、京都にいるから、しばらくはここにいて貰って構わないよ」 「は、い」  ここにいても構わないってことだけは、分かった。一つが分かると、段々他のことも分かってくる。  ……マスターに恋人ができそうで、その人はイギリス人で、昔付き合ってた人で。……俺と違って、マスターのことをちゃんと好きだった人。そして、また好きになってくれるかもしれない人。マスターが好きな、俺以外の人。 「おめでとう……ございます」  一番に口を突いて出たのは、それだった。 「まだ、付き合うって決まったわけじゃないよ」 「でも……、おめでとうございます」  他に言葉が思い付かない。俺、今どんな顔してるんだろう? ちゃんと、この人のこと祝えてるのか? 自信、ない。  なんか……、馬鹿みてぇ。今でもこの人が、俺のこと好きだと思い込んでた自分が。この人は、もう別の恋を始めてたんだ。……俺と離れてる間に。  なんで俺、泣きそうなんだ? 誰とどうなろうと、この人の自由だろ!  自分を心の中で怒鳴りつけて、俺は極力平静を保とうとした。 「できるだけ早く、仕事見つけますね」 「いいって。そんな、心狭いヤツじゃないから。事情を説明したら分かってくれるよ。きっと」  マスターは苦笑してる。でも、どう考えても不味いだろう。恋人が、昔好きだったヤツと居候してたら。ちゃんとヨリ戻すまでには、ここを出ないといけない。  焦りが生まれると、変にやる気が出てきた。体調が落ち着くまでは止めとこうと思ってたけど、明日にでもハローワーク覗いてみようかな。どうせ、病院に行かなきゃいけないんだ。ついでに寄ろう。それと、気が早いかもしれないけど、安い物件がないか探してみるか。 「ブロくん」 「……はい」 「今は体調を整えることが一番大事なんだから、無理しちゃ駄目だよ」  ……見透かされてる。俺は、素直に頷くしかなかった。でも、せっかく久し振りに現れた前向きな気持ちを、すぐ捨てる気にはなれない。  明日やりたいことを思い浮かべながら、俺は残りのミルクセーキを一息に飲み干した。  七月二十二日 月曜日  お粥を食べて、シャワーを浴びて、マスターに無理矢理ベッドへ入れられて、もう何時間も経っていた。でも、眠気はやって来ない。  マスターは狭い座椅子の上で、窮屈そうに寝てる。掛かってるのはタオルケット代わりのバスタオルで、枕の代わりもやっぱりバスタオルだった。それでも寝られるのが、少し羨ましい。  疲れてるはずなのに……、寝ようと思って目を閉じても、頭の中でとりとめのない考えがぐるぐると回っていた。それは兄貴のことだったり、マスターのことだったり、自分のこれからのことだったりした。せっかくこれからのことを前向きに考えられたと思ったのに、また気分が落ち込んでいる。眠れないからなんだろうか。  どうやって自然に寝てたのか、もう覚えてない。今日の昼みたいに極限まで疲れ切ってたら少しは眠れるけど、それも浅い眠りだった。薬に慣れすぎているんだろうか。それとも、今の状況のせいなんだろうか。  ……少なくとも、兄貴のことに関してはかなり落ち着いている。思い切り泣いてからは、冷静に考えられるようになった。  あの人も含め、家族みんなが俺の居場所なんて知ってるはずない。だから、ここは間違いなく安全だ。それに、あれからもう七年は経ってる。兄貴だってもう……、変わってるかもしれない。それを確かめずに、ただただ恐くて逃げ出してきた自分が情けない。  離れた後……、もう二度と会えないと思い込んでいた頃は、あの人も少しは幸せな人生を送ってくれていたらいいなとも思えた。あんなことがなければ、あの人は非の打ち所がない、優しくて頼もしい兄だったから。親父の暴力にいつも怯えていた俺と妹を、母さんと一緒に守ろうとしてくれていたから。  そういえば、どうしてあの人があんなことをしたのかは、今でも分からない。その頃の記憶はあやふやで、よく覚えてないから。時々、記憶が断片的にフラッシュバックしては異常なまでのリアルさで俺を追い詰めるが、それは統一感がなく  パズルピースのようなものばかりで、全体像は全く掴めなかった。それに俺はあの頃のことと向き合うのが恐くて、ついこの間までは忘れたつもりでいた。それも、記憶の曖昧さに拍車を掛けていたんだろう。  ……向き合うべきなんだろうか。それとも、今度は母さんや妹のことも忘れて、何事もなかったかのように生きていくべきなんだろうか。  そうやって生きれば、楽なんだろう。一人きりで生きるのは、きっと楽だ。けど……、俺はきっと、忘れられない。一度は守ろうとした母さんと妹のことも、そして兄貴のことも。  かといって、正面から兄貴と向き合う勇気もない。心も体も、きっと耐えらない。 「……どうしろっていうんだよ」  布団の中で呟いても、答えが返ってくるわけじゃない。分かっていても、言わずにはいられなかった。頭の中がもやもやして、余計に目がさえてしまう。  寝返りを打って、目を閉じてみた。次に思い浮かんだのは、すぐそこで寝てるマスターの顔だ。  今日だけでも、散々迷惑を掛けた。それでも嫌な顔一つせずに、俺の我が儘を受け入れてくれた。この人が俺に優しいのは、俺が好きだからだとずっと思ってたけど……、ほんとに良心から来てたんだって、今日になって初めて知った。  なんだかんだ言って、優しいんだ。この人は。俺にだけじゃない。栗花落さんにも、夏生にだって、結局は世話を焼いてる。普段どんなにふざけてても、大事な時には必ずと言っていいほど手を差し伸べてくれる。分かってたはずなんだ。俺だけが特別だったわけじゃないってことくらい。  そして……、自分がこの人にだけは甘えてたんだって気付いた。この人の気持ちを知ってて、応えられない癖に優しさだけを欲しがってた。いくらマスターが優しくても、こんな身勝手な奴をいつまでも好きでいられるはずないのに。自分から離れていった癖にまだ好きでいてくれると思い込んでるなんて、図々しすぎるよな。  ……なんでだろう? 今更になってまた泣きたくなってきた。身勝手な自分に苛ついてるからか? マスターへの罪悪感でいたたまれなくなってるから? ……それとも、マスターがもう、俺を好きじゃないから?  分からない。この間から、分からないことだらけで頭がおかしくなりそうだ。もう、とっくにおかしくなってるかもしれないけど。  外が白み始めた。……結局、寝られなかったな。  布団を出ると、少しひんやりした空気が体にまとわりついた。七月も半ばとはいえ、朝はまだ涼しい。  俺は頭がぼんやりしたまま、台所へ向かった。  慣れない台所に立つと、なにをやるにしても時間が掛かる。鍋を探し、出汁と味噌を見つけ、浄水ポットに水を溜めて、俺は味噌汁の準備を始めた。  冷蔵庫の中に入ってた野菜をいくつか取り出し、できるだけ音を立てないように切る。水を入れて火に掛けた鍋は、さして時間を掛けず沸騰した。出汁を入れ、野菜を入れてから味を調える。  甘めにしようと思ってみりんを探したが、少ししか残ってなかった。醤油や料理酒はかなり余裕があったから、普段からみりん以外はあんまり使ってないんだろう。ほんと、マスターは甘党にも程がある。  煮立つまでの間に、米を探し出して磨いだ。埃をかぶってた炊飯器を適当に拭いて、釜をセットする。これもあまり使ってる様子がないけど、やっぱりマスターは家でも洋食が中心なんだろうか。……今になって、勝手なことしたかな、とか後悔し始めた。  ……やっちまったもんは、しょうがない。煮立った鍋の火を止めて、味噌を入れた。あの人でも飲みやすいように、少なめにしてみた。俺は濃い方が好きだけど、居候の身で勝手言うのもな……。  改めて火を点けて、味噌汁を温める。その間に時計を見たら、まだ五時にもなってなかった。マスターは十時くらいに店の準備を始めるから、家を出るのは九時半くらいだろうか。朝飯はいつも何時くらいなんだろう?  考えてる内に、味噌汁が沸騰しそうになってた。慌てて火を止めてから、手持ち無沙汰になったことに気付く。他になんか……うーん、卵料理は冷めると不味いよな。サラダ……せっかく時間あるんだから、ポテトサラダでも作るか。  和食も洋食も、マスターに教えて貰った料理ばかりだな。ジャガイモを剥きながら、ぼんやりそう思った。  料理なんてバイト始めるまで全然やってなかったけど、三年間でだいぶマシな物を作れるようになったと思う。さすがにマスターには敵わないけど、それでも美味いって言ってもらってたな。俺の部屋に泊まった時とか。  ……楽しかったな。あの頃。人生で一番、楽しかったかもしれない。好きなこと勉強して、馬鹿言い合える友達もいて、優しい店長のところでバイトして、時々家に人呼んで。……戻りたい、な。  タマネギを切ってるわけでもないのに、目が痛くなった。昨日から緩みっぱなしの涙腺が、また涙を零し始める。包丁を握れなくなって、俺は手を拭いた。音を立てないようにゆっくり、しゃがみ込む。  キッチンマットに、涙が吸い込まれていった。いくつもいくつも涙の玉が落ちて、黒い毛糸に吸い込まれていく。嗚咽を堪えながら、俺はそれを見送った。どうしたって涙が止まらないことは、昨日の今日でよく分かった。だからもう、止めようとは思わない。  ただ、マスターを起こしてしまいたくはなかった。これ以上、心配を掛けたくない。なんでもない顔をして、ここから出て行くためにも。  どれくらいそうしていたか、覚えてない。涙が止まる頃には、外はすっかり明るくなっていた。  改めてポテトサラダを作っていると、座椅子の軋む音がした。少し間を空けて、大きな欠伸が聞こえる。マスターが起きたみたいだった。 「ブロくん?」  真っ先にそう言って、マスターはカーテンを開けた。寝起きの目を丸くしたマスターと、目が合う。 「……作って、くれたのかい?」 「ええ。まぁ。……すいません、勝手に」 「ううん」  首を振って、にこりと笑った。店で見せる営業用じゃない、人懐っこい子どもみたいな笑顔だった。 「いろいろ作ってくれてありがとう。朝に味噌汁飲むのなんて何年振りだろ? いい匂いだねぇ」  目を細めて、マスターは味噌汁を覗き込む。……なんか、照れ臭い。 「こっちはポテトサラダ?」  ボウルに気付いて、それも覗いてくる。ちょうど、茹でたジャガイモを潰しているところだった。 「残ってるハムとか、使っていいよ。あ、キュウリもなかったかな。マヨネーズは足りそう?」 「多分……」 「良かった、ちょうど買い置きがなかったんだよ。あ、ご飯も炊けてるんだ。白ご飯って久し振りだなぁ」  嬉々としてしゃもじを取り、マスターは炊けていたご飯を掻き混ぜ始めた。なんか、起き抜けからえらく上機嫌だな。……そんなに、朝飯できてたのが嬉しかったんだろうか。 「こんなにいろいろ作ってたら、時間かかっただろ? 何時から起きてたの?」 「……あー……、その」  寝てないなんて言ったら、心配するだろうな。 「早く起きたんで。……五時くらいに。で、暇だったから、どうせならと思って」 「そっか。やっぱり、睡眠薬ないとよく眠れないんだ」  はい、と言っておいた。これはこれで心配掛けてる気がするけど、まだマシな方だろう。きっと。 「今日、ちゃんと病院行くんだよ。服とか、俺ので良かったら適当に使っていいから」 「ありがとうございます」  母親にでも言われてるような気になりながら、俺はとりあえず頷いた。  話に区切りがついたから、冷蔵庫を開けてハムとキュウリを取り出す。扉を閉めようとしたら、いつの間にか後ろにいたマスターがぬっと手を伸ばしてきた。そして、輪切りのキュウリっぽいのが詰まっている瓶を取る。知らない内に近付かれたせいで、少しだけ肩が震えた。 「えーっと、ピクルスはあるから、あと一品なにか欲しいね。目玉焼きでもする?」  背を向けている俺の表情が見えないからか、マスターはいつも通りの口調で言った。 「あ、ああ、やりますよ」 「それくらい俺が作るよ。ブロくんはそれ、仕上げちゃって」  言うが早いか、マスターは卵を二つ取った。冷蔵庫を閉めてから、フライパンを取り出してコンロに置く。少し姿勢を低くして火を点けながら、マスターは口を開いた。 「味付けどうする? 醤油とソースと、塩胡椒ならあるけど」 「マスターは?」 「俺は醤油かな。白ご飯あるから」  フライパンの熱を確かめる目が、少しだけ店にいる時に近くなる。  料理をしてる時、この人は男の俺から見てもやたらと格好が付いていた。昼時の忙しい時間帯なんか、特にそうだ。無駄のない動きで、魔法みたいに素早く料理を仕上げちまう。もっとも、本人はじっくり作るケーキとかの方が楽しいらしいけど。 「で、なに掛ける?」  手早く油を引きながら、マスターはまた訊いてきた。そういや、返事してなかった。 「俺も醤油でお願いします」 「はーい。半熟にする?」 「いえ」 「りょーかい」  言い終わるか終わらないかの内に、卵が二つフライパンに載る。小気味のいい音を聞くと、急に腹が減った気がしてきた。なんか……懐かしい感覚だった。 「こういうの、ほんと久し振りだよ。最近、あんまり家で料理してなかったから」 「そう……だったんですか?」  うん、と空返事をしながら、マスターはフライパンの中に少しだけ水を入れた。激しい音を立てるフライパンに蓋をして、火を小さくする。 「やっぱりブロくんが抜けた穴はけっこう大きくてね。半田くんも頑張ってくれてるんだけど、さすがに二人分も働けないから、どうしてもお互いに負担が増えちゃったんだよ」 「……新しい人、入れないんですか?」  バイト戻りましょうか、と言いかけて止めた。そんなことしたら、ここから出たくなくなる気がする。 「そうだねぇ……。入れた方が、いいんだろうなぁ」 「余裕、ないんですか?」 「そういうわけじゃないんだけどね。まぁ、気分の問題というか」  気分? 別に、人見知りするってわけでもないのに、なにが嫌なんだろう。切り終わったキュウリとハムをすり潰したポテトの中に入れながら、俺は何となくそう思った。 「新人さんの件は、前向きに検討するよ。あ、塩胡椒と一緒にちょっとだけ砂糖入れてくれない? 小さじ一杯でいいから」 「はい」  結局、具体的にどういうことなのか分からないまま話は終わってしまった。それ以上突っ込むのもなんとなく気が引けて、俺はポテトサラダ作りに集中することにした。  といっても、マヨネーズと塩胡椒、後はマスターの希望に沿って砂糖を少し入れて混ぜれば、ポテトサラダは完成する。朝から一汁三菜なんて、俺も久し振りだ。  サラダを食器棚から取り出した皿に載せ、リビングに持っていく。ローテーブルの上に置いてから、また台所へ戻った。ちょうど、マスターが鍋に火を点けているところだった。そういや、味噌汁温めるの忘れてた……。目玉焼きはもう完成してて、火は消えてる。 「ご飯入れてくれないかな? こっちは俺がどうにかするから。あ、茶碗一つしかないから、俺のは平皿でいいよ」 「はい」  てきぱきと動きながら、俺にも指示をくれる。バイトしてた時を思い出して、また少し泣きそうになった。料理をしてるこの人の姿をすぐ近くで飽きるほど見てたはずなのに、今はそれが懐かしくて仕方ない。  緩みそうになる涙腺を叱咤して、俺は食器棚から茶碗と平皿を取った。それから、炊飯器の蓋を開けて温かいご飯を載せる。ご飯がこんなにいい匂いだと思ったのは、初めてかもしれない。耐えられなくて、少しだけ鼻をすすった。……マスター、気付いてるかな。 「ついでに醤油も取ってくれる? 醤油差しがなくて悪いけど」  目玉焼きを皿に載せているマスターは、特に気付いた様子はない。ホッとしながら、炊飯器の傍にある醤油を取った。  朝食を終えて一息吐くと、マスターは店に出る準備を始めた。自分が着替えるついでに、俺にシャツやらジーンズやらを貸してくれる。シャツはちょっとでかいけど、ジーンズはちょっと短い。複雑そうなマスターの表情が、なんだか面白かった。  顔を洗って、髪を整えて、ほんの少しだけ香水を振って、ぴしっと立つと、もう俺のよく知ってる喫茶店のマスターになっていた。あの店では空気みたいに溶け込むのに、ここでは違和感がある。 「……ん? なんか変?」 「いえ、変じゃないから、余計に変です」 「なにそれ……」  吹き出したマスターの笑顔も、俺のよく知ってるそれだった。……懐かしい、な。 「鍵、預けとくよ。俺より早く帰るだろう? もし遅くなるようなら、メールだけちょうだい」 「分かりました」  キーリングの中から家の鍵を取って、俺にくれた。なくさないように、財布にでも入れとくか。 「じゃ、行ってきます」 「行ってらっしゃい」  自然と口を突いて出た言葉に、自分でびっくりした。そういや、昨日も自然と「お帰りなさい」が出てきたっけ。こんなこと、今まで一度も言ったことなかったのに。  マスターはふっと優しい笑顔になって、軽く手を振った。それから、俺に背を向けて部屋を出て行く。ドアの軋む音が響いた後、部屋は静かになった。  一人きりになって、改めて部屋の中を見回してみた。CDラックには、知らない洋楽のCDが詰まってる。本棚には、経営や料理の本が乱雑に並んでた。そういえば、この部屋にはテレビがない。新聞を取ってる様子もないけど、ニュースはネットで見てるんだろうか?    思えば、俺はマスターのプライベートなことはほとんど知らない。どんな曲を聴いてるのか、どんな本を読んでるのか、料理以外に趣味があるのか、あまり話してくれなかった。  ……俺が知ってたのは、喫茶店に立って料理をしたりお茶を淹れたりしながら、お客さんと楽しそうに話してるマスターだけだ。栗花落さんの幼馴染みで、この部屋に住んで寝起きしてる重永寛弥については、ほとんど知らない。  重永寛弥の恋人になるかもしれない人は、どれだけのことを知ってるんだろう。どれだけのこと、これから知るんだろう。……俺には関係ないことだけど、なぜか気になった。  こんな風に気にしてること自体、その人には不快だよな。なに考えてんだよ俺は。  溜息と一緒に自己嫌悪を吐き出して、俺も外へ出る準備を始めた。って言っても、着替えて髪をといて携帯と財布をポケットに突っ込むだけだけど。  確か、ハローワークは二駅くらい先の街にあったはずだ。駅までちょっと歩くけど、運動だと思って頑張るか。体、鈍ってるしな。 預かった鍵で部屋を施錠して、俺も外に出た。今日もよく晴れてる。俺の気分も、少しだけ晴れた。  ……頑張ろう。どうなるか分からないけど、頑張らなきゃな。頑張ればきっと……どうにかなる。 *  擬似的な同棲を楽しんでる、と思えばいいのかな。店へ向かうタクシーの中で、俺はそう考えることにした。シミュレーションのようなものだと思っていれば、おかしな期待も持たなくてすむんじゃないかな。  できるだけ上手く、気持ちを隠さないといけない。彼のためにも自分のためにも、こんな想いは早く捨てるべきなんだ。だから、なんでもない風に接しないと。  嬉しさにも痛みにも気付かないふりをしていれば、いつか本当になくなるんじゃないかな。……もしなくならなくても、つーのことをそう思えたように、兄弟みたいに思えるようになる。きっと。 きっと……、忘れられる。だから、今は耐える時だ。  自分にそう言い聞かせながら、携帯を開いた。  ……エリからメールが来てる。来週には遊びに行けるかも、と書いてあった。いつでもどうぞ、と打って送信した。できるだけ……、エリとも連絡を取っといた方がいいかな。エリには悪い、けど。  少し溜息を吐いてから、窓の外を見た。嫌味なくらいいい天気だ。……余計に落ち込みそうになる。  頑張らないと、な。頑張って、いつものマスターでいなきゃな。ブロくんのために。 * 「……これ、うちの大学……」  思わず、俺は口に出していた。俺と夏生、栗花落さんが通っていた母校で、事務職の中途採用の募集が出ていたのだ。  ……これに受かったら、精神的にはかなり楽だな。慣れたところだし、事務の人なら奨学金の話とかで顔見知りになってるし、なにより……マスターや夏生、栗花落さんの近くにいられる。  募集要項をメモして、一応他の企業も一通り調べてから、ハローワークを出た。半端な時期だから募集があるか不安だったけど、意外と探せば見つかるもんだな。  思ったよりも早く出られたから、病院へ行くことにした。  この近くにある個人病院で、小さいとこだけど繁盛してるらしい。いつ行っても、かなり待たされた。……それだけ、心の疲れてる奴が多いってことなんだろうか。 病院に着いたのは、十一時前。午前の受付終了の直前に滑り込んだ俺は、置かれていた雑誌を引き抜いてからソファの隅に座った。今日は、ちょっと人が少ない。……時間が時間だからかもしれないが。  表紙も見ずに取った雑誌を、適当に開いた。女性向けのそれには、夏休み企画と銘打って旅行記事が載っている。  旅行か。在学中は、ゼミの合宿で毎年どっかしら行ってたな……。栗花落さんと夏生が不自然に離れててちょっと気になったけど、まぁ概ね楽しかった。割と男が多かったのと、先生がけっこうアウトドアだったのもあって、いろいろ遠出もした。平安時代半ばから鎌倉時代末くらいまでを専攻してるゼミだったから、源平合戦の合戦城跡や、両氏ゆかりの場所を回ることが多かったな。関西や東北に足を伸ばしたこともあった。  そういえば、死ぬほど暑い日に京都市内の里内裏  平安宮の内裏に対する私邸のことで、先生はそれの専門だった  跡を回ったことがあったな。石碑が建ってるわけでもない場所をひたすら歩き回ってて、俺も含めて大半が途中で疲れ切ってた。栗花落さんと先生だけやたら元気だったけど。一体、どこからあの体力が出てきたんだろ。  ……あ、京都の記事だ。和菓子、ねぇ。あんま食べたことねぇな。ふーん……、外国人の和菓子職人か。まぁ、外国の菓子を勉強したくてあっちに行ったマスターみたいな人もいるんだから、逆もいておかしくないよな。なんか、日本食ってブームらしいし。  写真の中で、綺麗な青い目をした金髪の男が笑っていた。手には作りかけの和菓子と、木のヘラみたいなやつを持ってる。不思議と、違和感はなかった。  ……マスターがヨリ戻そうとしてる人も、外国人だったな。あっちで世話になってた人の息子さんか……。やっぱ、菓子を作ってる人なのかな。こっちでもケーキとかみたいな洋菓子を作ってるんだろうか。それとも、この記事の人みたいに和菓子か? 俺には関係ない人だけど、ちょっと気になる。……訊いて、みようかな。  そんなことを考えながら、京都の和菓子屋が紹介されてる記事を眺めた。食べるのが勿体なくなるほど細かく作られたヤツや、逆にめちゃくちゃシンプルなヤツ、和菓子と洋菓子の間の子みたいなヤツなんかもあって、見てるだけで面白い。  ……金が貯まったら、遠くに一人旅するのもいいな。京都じゃなくてもいいから、三日くらいかけてのんびりと。どうせなら、山奥がいい。あんま、人がいないところ。ちっせぇ温泉宿みたいなとこで、しばらくぼーっとしたい。そしたら、薬なんかなくても眠れる気がした。実際、旅行になると薬なしでも自然と眠れてた。興奮してるはずなのに、なんでだったんだろ。  ぼけっとそんなことを考えてる内に、名前が呼ばれた。雑誌を戻して、見慣れたドアをくぐる。  ふと時計を見たら、〈西風〉の開店時間だった。昨夜、ちょっと寝苦しそうだったけど……、マスター大丈夫かな。 * 「大丈夫なんですか?」  ランチタイムが終わり、ティータイムには少し早い時間。半田くんは、突然俺にそう言った。 「忍と一緒に暮らすなんて、あんたには無理だと思ってましたけど」 「大丈夫だよ」  珍しく少し凝った肩を揉みながら、俺は極力なんでもない風に返す。 「けど、あいつを部屋に呼んだら最後だなんて言ってたの、あんたですよ」  少し不機嫌そうに、半田くんは俺を見上げていた。 「あの時と今じゃ、状況が違うからね。……あんな状態の彼に、変な気なんて起きないよ」 「……俺には、無理してるようにしか見えませんよ」  してないしてない、と軽く言っても、半田くんは信用してくれてないみたいだった。眉を顰めて、猫みたいな目で睨んでくる。 「いつでも、ウチに連れてきてくれていいですからね。あいつがなに言っても構いませんから」 「そんなにブロくんが心配?」  と言ったら、……思いっ切り溜息吐かれた。 「なんでこの流れでそうなるんですか。心配なのはあんたですよ。まだ諦めてないんでしょ?」 「……ははは。まぁ、大丈夫じゃない?」 「そうは見えません。大体、忍も忍ですよ。あんたの気持ち知ってる癖に、しばらく泊めて欲しいとか……。応える気がないなら、半端なことしなきゃいいんです」  半田くんのすごいところは、これを本人にも言えちゃうとこだよな……。今のブロくんに会わせたら、思いっ切り凹ませちゃいそうだ。 「心配しなくてもブロくんは長居したくなさそうだから、しばらく俺が辛抱すれば大丈夫だよ。それに、頼ってくれたことは純粋に嬉しいんだ」 「嘘! あんたがそんな殊勝なこと言えるわけないじゃないですか」  うーん……。なんだか、信用ないなぁ。三年間一緒に働いてきたっていうのに……。 「大体、あいつなんで戻ってきたんですか? なんの説明もなしにウチに来るのは嫌で、マスターんとこがいいって言われても、納得できません」 「それは、本人が言いたくなるまで待って欲しい。俺の口から言うことじゃないから」  不満そうな半田くんには悪いけど、俺はなにも話すつもりはない。ブロくんの心が落ち着いたら、その時に彼自身が話すかどうか決めるべきだ。 「……分かりましたよ。今のところは蚊帳の外にいます」 「ごめんな。きっと、落ち着いたら本人が説明すると思うから、それまで待っててあげて」 「保護者みたいなこと言ってる暇があったら、もっと自分に正直になったらどうですか?」  流しに積まれてる洗い物に手を付けながら、半田くんは少し嫌味っぽく言った。  ……俺が正直になったらブロくんがどうなるか、彼は知らない。自分に嘘を吐いてでも、俺はブロくんを傷付けたくないんだ。 「少なくとも、そんな顔してるあんたは俺には平気そうに見えません」  皿に向かっている半田くんの眉が、一瞬だけ苦しげに歪む。  もしかしたら、彼は俺の本心に一番近いのかもしれない。でも……、駄目なんだ。俺は半田くんのように、真っ直ぐにはなれない。 「……ったく。ほら、マスター! ぼーっと突っ立ってないで、仕事してください」 「え? あ、ああ、ごめん」  半田くんは呆れ顔でまた溜息を吐いた。 「店に立ってる時だけでも、しゃんとしてください。それ以外はぼけっとしてていいですけど」 「うん……」  あーもう、駄目だなぁほんとに。気持ち、切り替えないと。うん、仕事しよう。いつものマスターでいなきゃいけないんだ、俺は。  カラカラと、ドアベルが音を立てる。俺はいつもの笑顔を作って、お客さんを迎え入れた。      *  薬局で渡された大きめの薬袋を見て、俺は溜息を吐きたくなった。睡眠導入剤……睡眠薬だけ貰えれば良かったのに、精神安定剤と胃薬まで処方されてしまった。飯食った時、一緒に飲まなきゃいけないらしい。  仕事を辞めたことや、実家から逃げるように出てしまったことを話したからだ。その時、親父のことも話したけど……兄貴のことは話せなかった。  ほんとは、話した方がいいんだろう。けど、言えない。怖さや恥ずかしさもあるが、なによりあの時のことと向き合う覚悟が、今の俺にはなかった。  暗い気分のまま、マスターの部屋に戻った。昼飯には少し遅い時間だったが、外で食べる気になれなくて、まだなにも食べてない。腹は減ったが、なにか作る元気はなかった。  冷蔵庫に納豆があった。今朝炊いた白米は、まだ炊飯器の中にある。昼飯はこれだけでいいか……。  味付けされた納豆を食べてるのに、どこか味気ない。どうにか食べきって腹は満たされたが、満足感はなかった。茶碗と箸を洗ってカゴに入れる時間を合わせても、昼飯に五分と掛かってない。  水をグラスに入れ、薬袋から錠剤と粉薬を取り出した。……精神安定剤なんて、一度飲んだらひたすら飲み続けなきゃいけないんじゃねぇのか? そんな話、聞いたことがある。……飲まずにこっそり捨てても、医者には分からないよな。でも……、飲めって言われた物を勝手に捨てるのも、気が引ける。  意を決して、錠剤を口に入れた。水でそれを流し込み、間を空けずに今度は粉薬の方を飲み込む。こっちは胃薬だ。  当たり前だけど、すぐに気分は変わらない。医者の話だと、精神安定剤には副作用がいくつかあるそうだ。過食だったり、睡眠薬みたいに眠くなったり、胃が荒れたり……。個人差があるからどんな副作用が出るかは分からないが、大きな異変があったら連絡をしてくれと言われた。  五分、十分と経っても、特に変わった様子はない。効いてるのか効いてないのかもよく分からない。そんだけ、弱い薬だったってことなんだろうか。  ……あ、でもなんか、頭がぼーっとしてきた気がする。眠い訳じゃないけど、眠気があるような。  半端な気分で座椅子に身を預けた。視線の先に、乱雑に本が詰め込まれた本棚がある。……なんか、気になるな。整理しようかな。勝手に触ったら怒られるかもしれないけど、まぁ捨てたりしなきゃ大丈夫だろう。  ふと、俺が作った朝飯を見て喜んだマスターを思い出した。……大丈夫だ。あの人なら、多分。  経営と料理に関する本ばかりが詰まった本棚の前に立ち、とりあえず落ちそうになっている本を取り出した。その奥にも本が並んでいて、そっちは隙間がないくらいぎっしりと入れられている。……本が増えたなら、本棚を増やせばいいのに。  奥にあるのも、やっぱり経営本と料理本なんだろうか。なら、それぞれ整理して入れた方がいいよな。そう思いながら、俺はぼんやりした頭で奥に詰まっていた本を一つ抜き出した。  その題名を見て……、頭が真っ白になる。 「……精神医学?」  口に出して、ようやく頭の中に入ってくる。それから、慌てて他の本を引っ張り出した。どれもこれも、精神病だとか心の病だとかそういった類の、身に覚えのある単語が並んでいる本ばかりだった。  恐る恐る、一冊を開く。跡が付いていて、すぐそのページになった。  PTSD。心的外傷後ストレス障害……? 今日、医者もそんなことを言ってた。父親からのDVが原因で、PTSDになっているかもしれない、とかなんとか……。  不眠、事件の記憶のフラッシュバック、精神的苦痛……。黄色いマーカーで、そんな単語がチェックされていた。他のページを開くと、黄色のマーカーで色づけされた性的虐待の項目に行き着く。……やっぱり、身に覚えのあることばかりが書かれていた。  まさかと思って他の本も開く。……全部、同じような項目のところが勝手に開いた。そして、黄色いマーカーが引かれていた。  胸が、激しく動悸を打った。ぼんやりしていたはずの頭が、覚醒していく。知らない内に、涙が零れていた。本に落ちて、いくつか円ができる。随分前に引かれたらしいマーカーは、滲みもしなかった。本を閉じても、涙は止まらない。  ……なんでだ? 苦しいけど、嬉しい。嬉しいけど、苦しい。マスターの顔が思い浮かんだ。あの人は、こんな本を読んだことなんて一言も口にしなかった。俺の不眠だって知らなかったのに、なんで。  学生時代の癖で、本の一番後ろにある発行年月日を調べた。……三年前、二年前、一年前、……今年。全部の本が、俺とあの人が出会ってから書かれたものだった。でも、どれもこれも専門書じゃなくて、普通の本屋で売られてるような一般向けのものばかりだ。  動悸が打ってるのに、胸が温かい。ぐちゃぐちゃに置いた本の一つを取って、額に押し付けた。……懐かしい匂いがする。なんの匂いか分からないけど……この部屋と同じ匂いだった。涙は余計、止まらなくなった。  この本を読んでる時、間違いなくあの人は、俺のことを考えてくれてた。なんでか、そう確信できた。  ……愛されてたんだ俺は。ずっと。知ってたはずのことなのに……、無性に嬉しくて、辛い。こんなに愛されてたことを今更みたいに突き付けられて、どうしたらいいか分からない。  もう、あの人は……、俺のこと、好きじゃない。別の誰かを好きになった。その誰かに、想いを伝えようとしてる。俺じゃない、誰かに。 「今更、じゃねぇか」  鼻水が出そうになって、思い切り鼻を啜った。 「今更、どうしろって言うんだよ……」  分からない。兄貴のことと同じだ。どうしたらいいか、分からない。どうしたいのかも、分からない。  自分の気持ちが分からない。この、苦しくて嬉しいのはなんなんだ。意味が分からない。俺のことなのに、自分が一番分かってない気がしてくる。頭の中が滅茶苦茶で、なんにも理解できない。ただ、マスターの顔だけが鮮明に思い浮かんだ。  別の誰かに優しく笑ってるマスターの顔が、気味が悪いほどリアルに想像できる。苦しい。辛い。涙がまた溢れる。これの意味なんて、俺は知らない。知らない? ……忘れた?  浮かんできた言葉はひどく温かくて、辛かった。考えた瞬間、否定したくなるほど。  ……分からない。肯定したら、楽になるのか? 余計、辛くなるんじゃないのか? それに、……確信なんて持てない。だって俺は、もう。  もう、誰も。  気が付いたら、俺は本を抱いて床の上で寝転がっていた。かなりの時間、眠ってたらしい。ごろごろする目を擦って、薄暗くなった部屋の中で立ち上がる。灯を点けて時計を見ると、もう〈西風〉の閉店時間だった。ぼんやりした頭のまま、散らかしてしまった本を棚に戻した。  夕飯、作ろう。きっと疲れてるだろうから。昨夜は、よく眠れなかっただろうし。  冷蔵庫を開けて、中を確かめる。使えそうな具材を揃えて、料理を始めた。あの人みたいに上手くは作れないけど、朝のように喜んでくれるような気がしてた。  ……あの人を喜ばせて、俺はどうしたいんだ? ……今更、なのに。近い内に出て行かなきゃいけないのに、なんでこの生活に溶け込もうとしてるんだ?  ……出たくない、んだろうか。俺は。ここにいたいんだろうか。ここで、あの人と暮らしたい?  駄目に決まってる。あの人にはきっと、その内恋人ができる。そしたら、ここにはいられない。……いたくない。それならいっそ、早く出て行った方がいい。  頭では分かってるのに、心は言うことを聞かない。出て行く、という言葉を思い浮かべただけで、また涙腺が緩んだ。……ここを出たら、ほんとに一人きりになってしまう気がした。  涙を腕で拭って、料理を続けた。考え事をしていたせいで、あまり料理は進んでない。  マスターは何時くらいに帰ってくるんだろう? 閉店作業は早ければ閉店後十分、遅くても三十分後くらいには終わる。あの自転車で店からここまでは……十分くらいだろうか。だとしたら、遅くても七時四十分頃には帰ってくる?  適当な計算をしながら、料理を進めた。作るものは、朝と大して変わらない。味噌汁とかサラダとか、卵焼きとかだ。あの人ならもう少し手の込んだ料理を作れるんだろうが、俺にはこれくらいしかできない。  ふと、朝みたいに料理を教えてもらってた時のことを思い出した。閉店後、店の厨房に並んで、パスタとかシチューみたいな洋食から、味噌汁や煮付け、煮浸しみたいな和食まで、簡単に作れるものを色々教えてくれた。時々、夏生も混じってわいわい騒ぎながら、失敗したりもしたけど、けっこう楽しく料理をしてた。マスターも疲れてただろうに、いっつも笑って教えてくれてたな。  結局、俺は人並み程度にしか上達しなかったけど、夏生はいつの間にか俺よりずっと上手くなってた。栗花落さんの為に毎日作ってる内に、俺をさっさと追い越していったらしい。って言っても、やっぱりマスターには敵わないようだったが。  また、戻れない頃のことを思い出して、俺は一人で凹んでた。……ほんと、馬鹿みたいだ。  外はもう真っ暗だ。ぼーっとしてたら、マスターが帰ってくる。さっさと作って、あの人を待っていよう。 *    店を閉め終わり、さぁ帰ろう、って時に携帯が鳴った。画面に表示された名前を見て、どきりとする。……少し深く息を吸ってから、電話を取った。 『〈もしもしー? 今平気?〉』 「〈エリ、どうしたの?〉」  久し振りに聞いたクィーンズ・イングリッシュは、耳に心地いい。でも、俺の英会話能力はすっかり鈍ってしまっていたから、咄嗟に簡単な言葉しか出てこなかった。 『〈やっと仕事終わったんだー〉』 「〈そっか、お疲れ様。俺もさっき店閉めたよ〉」 『〈うん……〉』  声が、少し弱気だ。昨日の元気がない。研修一日目にして、なにかあったんだろうか。 『〈ヒロ、僕ちょっと自信なくした〉』 「〈……なにか、あった?〉」 『〈うん……。さっそく、思い切り怒られた〉』  それから、ぽつりぽつりとエリは愚痴を零し始めた。正直、俺にはあまりよく分からなかったけど、相当落ち込んでるみたいだった。いきなり英語で喋ってきたのは、多分日本語を使う元気がなかったからだろう。  英語で話せる友達、日本にいないのかな? それとも、愚痴をこぼせるような友達がいないのか……。こいつも、割と無理して明るく振る舞おうとしちゃうタイプだもんなぁ。あー、俺の趣味って分かりやすい。 『〈ごめん。週の始めから、こんなに愚痴っちゃって〉』 「〈遠慮しなくていいよ。仕事中じゃなかったら、いつでも話聞くから〉」 『〈ありがとう。……ヒロは、相変わらず優しいな〉』  優しい、か。そう言われて嬉しくないわけじゃない。でも……、その優しさが、誤解を招いてしまうことだって、少なくなかった。そのくせ、ほんとに好きになって欲しい人には、想いが通じない。……自分の望むようにはならないものだよな。こういうのって。 「〈暇ができたら、いつでもお店においで。おじさん直伝のスコーン焼いて待ってるから〉」 『〈本当? 絶対行くよ! うーん、来週のつもりだったけど……、頑張れば土曜には、行けると思う〉』  エリの声が、いつもの明るさに戻る。……正直、おじさんのスコーンは日本人には味気なさ過ぎて、お店に出せないんだけどね。まぁ、たまにはいいか。正統派スコーンも。 「〈そうだ、その日の夜にちょっとお酒も飲もうか。奢ってあげるよ。ウィスキーがいい?〉」 『〈スコッチで!〉』 「〈好きだねぇ。俺、あれ苦手〉」  あっちにいた頃、おじさんに無理矢理飲まされて、一口で吐きそうになったのを思い出した。……どうも、甘くないお酒は口に合わないんだよなぁ。ブランデーは、チョコと合わせて食べてる内に好きになったけど。 『〈じゃあ、僕はカシスリキュール持っていくよ。ヒロ、好きだっただろう?〉』 「〈覚えてたんだ〉」 『〈そりゃあね。ずっと、カシスのカクテルばっかり飲んでたから。忘れられないよ〉』  他に飲めるものが大してなかったからだけどね。けど、人に自分の嗜好を覚えて貰ってるってのは、嬉しいもんだなぁ。 「〈せっかくだから、フィッシュ&チップスもやってみようか? 上手に作れるか分からないけど〉」 『〈お願いするよ! ヒロの喫茶店が、一晩だけパブになるってことか〉』  パブかぁ。懐かしいな。よくおじさんに連れて行かれてたっけ。店内の雰囲気は好きだったけど、飲める酒も食べられる物も限られてて、けっこう辛かったなぁ……。 『〈楽しみだよ! よーし、今週はこれで乗り切れる!〉』 「〈元気が出て良かった。俺も楽しみだよ〉」  一頻り感謝の言葉を連ねてから、エリは電話を切った。かなりの間、電話をしていたせいか、耳が少し痛い。  うわ、もう八時過ぎたんだ。……ブロくんどうしてるかな? とっくに家には帰ってるだろうな。うーん……。  少し悩んだけど、俺はなんにも連絡せずに帰ることにした。  ……もし連絡をしてしまったら、今以上にこの同棲シミュレーションにどっぷり浸かってしまいそうな気がしたから。 *  遅い。八時過ぎても、あの人は帰ってこない。  ……恋人、になるかもしれない人と、会ってるんだろうか。もしそうなら、飯なんていらねぇかな。二人分作ったのが馬鹿みてぇ。  座椅子にもたれかかって天井を見上げた。少し埃が付いてるけど、白い電灯が眩しい。安っぽい灯の下で溜息を吐いてみた。ひどく大きな溜息に聞こえて、自分でも驚く。  ……アホらしい。さっさと飯食って、風呂入るか。そんで、今夜は俺が座椅子で寝よう。薬もらったんだから、どこででも寝られるだろ。……たぶん。大体、毎日仕事があるんだから、あの人こそベッドで寝るべきだ。  少し勢いを付けて立ち上がり、台所へ向かった。用意した物を一通り温めて、半分ずつ皿に載せる。  食い始めれば、早かった。朝の半分くらいの時間で、同じような量を食べ終えられる。話す相手がいないと、量があってもすぐに終わるもんだな。  皿を洗って片付けると、またやることがなくなる。マスターはまだ、帰ってこない。八時十五分か。かなり早いけど、汗流してさっさと寝るか。  ……あ、薬飲むの忘れてた。精神安定剤と、胃薬と……、ついでに睡眠薬も飲むか。風呂入ってる内に効いてくるだろ。錠剤二つを水で飲んでから、粉薬も同じように飲み込む。  その後、すぐにシャワーを浴びた。体が温まっていく内に、頭がぼんやりしてくる。……効きが早いな。髪と体をなんとか洗って浴槽から出ると、足元がふらついた。  ……もう眠い。ちょっと、効きが強すぎねぇか? 飲んでから、まだ十分くらいしか……。駄目だ、欠伸する気にもならねぇ。眠い……。  体を拭いてる間、瞼が落ちかかってた。視界がぐらぐらと揺れる。……本格的に、眠い。薬……だけのせいじゃ、ない、かもしれない。ここんとこ、ちゃんと眠れてなかった反動が……? けど、さっき、何時間か寝て……。  借りた下着を履いて、風呂を出る。ふらつく足を、どうにか座椅子まで動かした。少し乱暴に座椅子を平坦にすると、そこへ倒れ込む。  あー、なんか、気持ちいい。眠気って、こんなに気持ちよかったっけ? 頭がふわふわする……、っつか、ぐらぐらする……。吐き気はないけど、酔っぱらった時に似てるなぁ……。  ……あれ? なんか、聞こえる。チャイム? 客……? それか宅配便? なんだろうと、今の格好じゃ出られない。……なんか、着なきゃ。  這うようにマスターから借りたジーンズのところまで行って、もたもたしながら履いた。その間、もう一度チャイムが鳴る。段々、めんどくさくなってきた……。居留守使おうかな……。 「……ブロくーん、開けてー」 ん……? あれ、マスターの声だ……。ああ、そういや、あの人……鍵持ってないのか。マスターなら……半裸で出てもいいか。もう、服着るの怠い。  半分寝ちまった頭でぼんやりとそんなことを考えながら、俺は壁を伝って玄関へ向かった。 * 「ブロくーん、帰ってるー?」  変な意地張らずに、連絡しておけば良かった。さっきから何回もチャイム鳴らして、声まで掛けてるのに、ブロくんは出てくる気配がない。いい加減、近所迷惑だよなぁ……。  まだ八時半くらいだから、寝てるってことはないと思うけど。あ、でも睡眠薬もらいに行ったんだっけ。久し振りにまともに寝られるんだから、さっさと眠ってるのかもしれないな。  うーん、合い鍵ないと辛いなぁ。短い間だけど、やっぱ作っとこうかな。そんなことを考えながらもう一度チャイムを鳴らそうとしたら、鍵の開く音が聞こえた。すぐに、ドアノブを捻る。ただいま、と言おうか迷いながら、ドアを開けようとした。 「……マスター……」  細く、溶けてしまいそうな声が、少しだけ開いたドアの奥から届く。ゆっくりドアが開いていったと思ったら、向こうにいたブロくんが倒れ込んできた。……風呂上がりなんだろうか?上に、なんにも着てなかった。線の細い体が、……腕の中でぐったりしてる。  ああもう……。どうして君は、距離を取ろうとするたびに……。とにかく、ちゃんと立って貰わないと。 「ぶ、ろ、くん? 大丈夫?」 「すいません……」  案の定、まともに立てないらしく、俺の腕にしがみつきながらブロくんは謝った。なんだか、酔っぱらってるみたいに見える。あまり酒を好まない彼が、泥酔するまで飲むわけ無いんだけど。  ここでこのまま話すわけにもいかず、俺はブロくんにできるだけ触らないようにしてどうにか中に入った。彼は俺から離れる力もないようで、ぐったりともたれかかったまま動こうとしない。 「どうしたの? お酒……じゃないよな?」 「……薬……、飲んで」  寝言みたいな声で呟いて、ブロくんは目を閉じてしまった。まさか、この体勢で寝ちゃったわけじゃない、よな? 「ブロくん、ちゃんとベッドで寝なきゃ。歩けない?」 「……座椅子、で、寝ます……」  喋るのも億劫そうだな……。頑張って目を開けようとしてるみたいだけど、ほとんど開いてない。うーん……、ここまで眠そうなら、触っても大丈夫かな?  そうっと、むき出しの肩に触れてみた。薄くて細くて、頼りない。ぴくりと震えたけど、それ以上は動かなかった。耳元で寝息が聞こえてくる。……本格的に眠ってしまったらしい。 「肩貸すよ。いい?」  予想通り、返事はない。ブロくんの腕を俺の肩に乗せて、ぐったりした体を持ち上げた。ぞっとするくらい軽い。昔からやせてる方だったらしいけど、これは少し度が過ぎるんじゃないだろうか。不安を感じながら玄関を上がり、ベッドに向かう。その間も、ブロくんは起きる気配がなかった。  ベッドに横たえると、少し癖のある黒い髪がふわりと枕の上に広がった。寝顔はやっぱり、どこかあどけない。あまり起伏のない胸が、安っぽい電灯の下でゆっくりと上下していた。  瞼に掛かった前髪を、そっと払ってみる。いつかのようにブロくんは眉を顰め、小さく唸った。 「……ごめん」  自然と、口に出た。彼に触れてしまった手を握り締め、目を閉じる。穏やかな寝息だけが、俺の耳に届いた。しばらくそれに耳を澄ませる。……離れなければと思うのに、中々体が動かなかった。  どれくらいそうしていたか分からない。俺はどうにか目を開けて、掛け布団で彼の体を覆った。時計を確かめ、けっこうな時間になってしまったなとぼんやり思った。  いろんな想いを振り切って、俺は彼に背を向けた。明日も店を開けなきゃいけないんだ。早く寝ないと……。  七月二十三日 火曜日  目が覚めたら、昨日と同じでいい匂いがした。ベッドは空になっている。誘われるように、俺はまた台所へ向かっていた。 「おはよう」  昨日は忘れていた挨拶をすると、ブロくんは少しびっくりしたような顔をして俺を見た。 「……おはよう、ございます」  わざわざ頭を下げた彼の表情は分からない。声はかなり張りが戻ってきている。それだけ、元気になってきたってことなのかな。 「今日はコンソメスープ?」  コンソメのいい匂いが、台所に満たされていた。自然と顔が緩んでしまう。 「はい。あの……また勝手して、すいません」 「いいよ。君の食べたい物を作ってくれたら、それで。俺、朝はいつもいい加減に済ませちゃうから」  またなにか一品作ろうと思って、冷蔵庫を開けた。でも、うちの小さい冷蔵庫にはあまり具材が残ってない。うーん、男の二人暮らしってけっこう食費掛かるんだなぁ。朝晩しっかり食べてたら、こんな一気に減っちゃうんだ。 「あ、そういえば、昨夜もありがとう」 「俺……、なんかしましたか?」 「夕飯、作ってくれてただろ。美味しかったよ」  残り少ないレタスとプチトマトを取ってから、俺は振り返った。  ……ブロくんは、なぜか泣きそうな顔をしていた。 「え、と……ごめん、俺、なんか……」  変なこと、言った? 続けようとしたけど、言葉にならない。夏だって言うのに、背中が冷たい。ブロくん……、俺、君を傷付けるようなこと、した? 「……勝手なことして、すいませんでした」  さっきと同じことを言って、ブロくんはまた頭を下げた。握り締めた手が震えている。どうして、の一言が出てこない。 「それに、帰り……、遅かった、から。先に、食べました」 「そんなこと……気にしなくていいよ。作ってくれるだけで……」  ブロくんは首を振った。顔は上げてくれない。 「もしかして、待っててくれた? だったら謝るのは俺の方だよ」  ごめん、と言うと、ブロくんは弾かれたように顔を上げた。目に一杯の涙を溜めて、唇をぎゅっと噛み締めて、彼は俺を睨んでいた。その視線の強さに、場違いにも俺の心臓は跳ね上がった。 「……あんたが謝る必要なんて、ないです。俺はただ住ませてもらってるだけだ。あんたの恋人でも家族でもない」 「うん……」  そう、それが俺達の現実だ。俺も君も、よく分かってるはずだろう? なのになんで、君が泣くの? 「俺なんかに気ぃ遣ってる暇があったら、好きな人のこと優先してください」 「けど……!」  ほっとけない、と言おうとした俺の襟首を、ブロくんは勢いよく引っ張った。その拍子に、彼の目からぽろりと涙が零れる。……どうして。 「あんた、その人のこと好きなんだろ! もう俺のことなんかいちいち気にすんなよ! 大体、昨夜だって……」  ……どうして、君がそんな苦しそうな顔するんだ? もし、かして。 「……その人と、会ってたんじゃないのかよ」  目を伏せて、ブロくんは小さく呟いた。眉を思い切り顰めて、絞り出すような声で。  よく分からない感情が溢れて、体が強張る。それがもし事実なら、俺にとってはとても嬉しいことのはずなのに、恐くて仕方がなかった。  誤解だ、きっと。誤解してるんだ。俺も、彼も。だって、そんなこと有り得るはずがない。奇跡でも起こらない限り、まず間違いなく……。  駄目だ。このままじゃ、いけない。こんな誤解、解かないといけない。これじゃあ、彼が辛いだけだ。嘘を……吐き続けないと。そうしたらきっと、彼も自分の誤解に気付くはずだ。  ……お兄さんに人生を狂わされた彼が、男の俺を好きになるなんて……、そんなの有り得ない。辛い時に優しくされて、勘違いしてるんだ。すぐに、間違いに気付く。……気付かないといけない。彼がこれ以上、傷付かないためにも。 「……すいません」  不意に、ブロくんは手を離した。腕で顔を拭って、頭を下げる。 「いいよ。……俺こそ、ごめん」  皺が寄ってしまったシャツの襟を伸ばしながら、俺はできるだけ平静を装った。  しばらく、お互いになにも言わず突っ立っていた。ブロくんは下を向いたまま、俺は彼を見つめたまま。その沈黙を破ったのは、ブロくんの小さな一言だった。 「……うちの大学、事務の中途採用を募集してて」 「……うん」 「今日、エントリーしてきます。中途なんで、決まったらすぐ仕事始まると思います」  だから、とブロくんは小さな小さな声で呟いた。 「もし決まったら、出て行きます」  俯いている彼の表情は分からない。俺の胸に広がった寂しさと安堵が上手く隠せているかどうかも、分からない。  俺はただ、頷くことしかできなかった。  第二章  八月一日 木曜日  とにかく、今日は蝉の声がうるさい。夏期休暇に入った大学には人気がない分、奴らは余計に調子よく鳴いていた。  教務課・学生課が入っている棟を出た俺は、慣れた構内を改めて見回してみた。学生の頃となんら変わりのない風景が、変わってしまった俺を見下ろしていた。  母校の事務員になって、半日。俺は窓口での応対と書類の処理を並行して教えてもらっていた。休暇に入ったとはいえちらほら学生が現れては、奨学金がどうのサークルの合宿がどうのと相談を持ちかけてくる。  ついこの間まで自分も同じ立場だったというのに、そいつらが妙に子どもっぽく見えた。今は少し、それが羨ましい。  仕事は決まったが、俺はまだマスターの部屋から出ていなかった。貯金用にと作っておいた口座のキャッシュカードや通帳、印鑑を、全て実家に置いてきていたからだ。普段用のカードは財布の中に入っていたが、そっちも引越費用には心許ない。給料は月末締めの翌月十日払いだから、引越できるとしたらその後ってことになる。  ……そんなに後になるなんて、思ってなかった。すぐにでも出て行けたら、まだマシだったのに。  マスターの恋愛は、順調そうだった。口には出さないけど、週末はやたらと遅く帰ってくるし、時々英語で楽しそうに電話をしていた。夕飯はいらない、と連絡が来る日には、酒を飲んでるようだった。たぶん、好きな人と飲みに行ったりしてるんだろう。  俺には関係ないこと、と思っても、俺は……ひどく苦しかった。察しのいいあの人に、上手く隠せてる自信はない。でもあの人は、なんにも言わなかった。この間、好きな人と会ってるんじゃないかって言ったのを、否定しなかった時みたいに。  ……馬鹿らしい。あの人の恋愛なんて、俺がどうこう言えることじゃない。苦しむ必要なんてないんだ、今更になって。  早く昼飯を買いに行こう。確か、今日ならまだ生協が開いてたはずだ。できるだけ日陰を選びながら、俺は生協に向かった。  あと少しで着く、ってところで、目の前の自動ドアからすらりとした人影が吐き出される。 「上風呂くん?」 「……あ」  図書館や総合研究室の入ってる棟から出てきたのは、栗花落さんだった。十日くらい前に会ったはずなのに、顔を見るのが随分久し振りな気がする。 「やっぱり上風呂くんだった。元気になったのか?」 「はい。おかげさまで。栗花落さんは今日も勉強ですか?」 「いや、アルバイトだ。学内史料の整理の」  この暑さの中、栗花落さんは涼しげな笑みを浮かべた。細く見えて体力のあるこの人は、夏の暑さにも冬の寒さにも堪えていないようだった。夏生の方が、よっぽど弱い。その上、うるさい。そう言えば、あいつにも会って、礼言わなきゃな……。 「上風呂くんは? 大学になにか用でも?」 「あー……、用っていうか、今日から事務室で働くことになったんです」  え、と言って栗花落さんは驚いた。なんだ、マスターからなんにも聞いてないのか。 「そうだったのか。これから世話になるな」  嬉しそうに笑われると、なんか照れ臭い。頭を下げて、顔を隠した。……夏生が卒業しちまったから、少し寂しいんだろうか? 先生とは仲がいいけど、他の学生とはあんまり喋ってなかったもんな、この人。院でも一人なんだろうか。 「でも、引越はまだなんだろう?」  栗花落さんの声で、取り留めもない考え事から現実に引き戻される。 「はい。……先立つものがないんで」 「……すまない、余計なことを訊いてしまったな」 「いえ」  整った顔には、いろんな表情が浮かぶ。会ってすぐの頃はあまり顔色が変わらない人だなと思ってたけど、夏生と付き合いだしてからは表情がすごく豊かになった。っても、それも俺が知る限りでは〈西風〉の中にいる時だけで、ゼミの時なんかは基本的に人形みたいな顔をしてたが。 「今から昼食か?」 「はい。生協行こうと思って」 「一緒に行っていいか? 俺もなにか食べようと思っていたところなんだ」  少し迷ってから、俺は頷いた。……訊きたいことが、あった。  一緒に歩き出した俺達は、ゆっくりと話をした。思えば、こんな風に栗花落さんと二人きりになったのは初めてかもしれない。夏生やマスターと一緒の時にしか、栗花落さんと話したことがなかった。互いに距離を掴みかねて、自然と探るような会話になってしまう。  少し気を遣う会話に気を取られている内に、気付けば生協の前まで辿り着いていた。俺達は適当に飯を買って、傍にある木陰のベンチに腰を下ろした。 「……夏生が」  ぽつりと、栗花落さんは口を開いた。俺はサンドイッチを口から離して、栗花落さんの横顔を見る。 「酒に付き合ってくれる相手を、探している。暇だったら、次の土曜にでも顔を見せてやってくれないか?」 「酒?」 「ああ。俺の実家から日本酒を貰ってな。知っての通り俺は飲めないから、代わりに少し相手をしてやってくれないか?」  こういうと失礼かもしれないが、この人は面白いくらい一滴も飲めない。夏生は正反対でいくらでも入るから、一人暮らしの時からよく飲んでいた。俺は……親父があんなだったからあまり好きじゃないけど、一応少しは飲める。 「分かりました。土曜の夜に伺います」  すぐにそう言うと、栗花落さんはまた驚いたようだった。戻ってきた日のことがあるから、断られると思ってたんだろう。……悪いこと、したな。  俺の罪悪感に気付いた風もなく、栗花落さんは切れ長な目をちょっと開いてから嬉しそうに笑った。 「ありがとう」 「いえ……心配してくれた礼も、言わなきゃいけないんで」  俺が戻ってきたあの日、事情をなんにも知らなくても、夏生は俺を助けようとしてくれてた。その礼を、俺はまだしてない。それに……、今となってはマスター以外に頼れる人が欲しかった。これ以上、あの人に迷惑を掛けないためにも。   少し間を開けて、俺は恐る恐る栗花落さんの横顔を覗いた。 「……あの、マスターのことで、ちょっと訊きたいんですけど……いいですか?」 「ああ、構わないが……どうしたんだ?」  不思議そうな顔をして、栗花落さんは俺を見下ろした。羨ましいほど背の高いこの人は、俺より十センチはでかい。細く見えるけど、俺と違ってウェイトもあるし筋肉も付いてる。見た目こそ箸より重い物を持ったことがなさそうだけど、これで割と力持ちだ。ゼミのコンパで酔っ払いどもを引きずらなきゃいけなかった時、その力と背の高さは途轍もなく役に立った。  そんなどうでもいいことを考えながら、俺は極力自然に口を開いた。 「今、マスターが好きな人……知ってます?」 「……え?」  栗花落さんは、また目を見開く。 「イギリスにいた時、世話になってたお店のマスターの息子さんだとか……。今は、日本にいるみたいなんですけど」 「……ちょっと、待ってくれ。あいつは、君が一緒にいるのに別の誰かを好きになったということか?」  ずきりと、胸が痛んだ。……栗花落さんも、マスターが俺のことを好きだって知ってたのか。  そして同時に、心の隅に奇妙な安堵感が生まれた。訳もなくそれを否定したくて、言葉を続ける。 「俺が来る前から、みたいです。よく電話掛かってくるし、週末は帰りが遅くて。その人と会ってるみたいです」 「信じられないな……。いや、すまない。あいつはずっと、君のことを大切に思っていたようだったから、そう易々と別の誰かを好きになるなど……」  栗花落さんは口元に手をやって、目を伏せた。この人は、そういう格好がひどく様になる。 「君は知らないだろうが……、君が名古屋に帰ると知った頃から、あいつはずっと塞ぎ込んでいたんだ。酒量もかなり増えていた。それに、君が帰った後も何度も電話を掛けていたんだろう?」 「……はい。しょっちゅう」  ふっと、栗花落さんは苦笑した。それには慈しみみたいなものが混じっていて、なぜか俺はマスターが羨ましくなった。 「俺は今でも、ヒロが好きなのは君だと思っている。あいつが君になんと言ったかは知らないが、ヒロは好きになった相手を簡単に諦められるやつじゃないよ」  昔、あの人に想われていた栗花落さんの言葉は、ひどく説得力があった。……けど。 「でも……! 俺は、あの人に応えられない、……のに」  好きでいてもらえるわけがない。続けるのが恐くて、俺の言葉は尻すぼみになっていった。栗花落さんはなんにも言わない。蝉の声だけが、うるさい。 「……すいません」  栗花落さんはなにも言わずに首を振った。タンブラーに口を付けてから、枝葉の向こうに広がっているむかつくくらい青い空を見上げる。 「俺も、あいつの想いに応えられないと思っていた。あいつは男だし、兄弟みたいに思っていたし、半端なことを言って余計に傷付けたくもなかった」 「……はい」  三年前、マスターから聞いた。幼馴染みの栗花落さんに想いを告げたこと、それは受け入れられなかったこと、そして……、お互いに兄弟みたいな関係だと思ってる、ってこと。  俺も、そんな風になれるんだろうか? マスターを、年の離れた兄貴みたいに……? 想いに応えられないけど、そんな関係になれるなら。……そう思うのに、胸がもやもやする。  ふと気が付くと、栗花落さんは視線を俺に下ろし、揺るぎない目で俺を見据えていた。 「……あいつが君を好きになったからと言って、君が応えなければならないわけじゃない。それは、当たり前のことだと思う」 「はい」  でも、と栗花落さんは続けた。真夏でもほとんど焼けていない肌が、木漏れ日の中で淡く光っている。綺麗だな、って素直に思った。 「もし、先入観だけであいつの想いに応えられないと思っているのなら、少しだけでいいからそれを捨ててみて欲しい。……今更かもしれないが、な」 「……そう、ですね」  今更、だ。本当に。今更そんなこと考えてみたって、あの人はもう。  もう……? 俺はあの人に、なにを望んでる? 今更、なにを。俺は、あの人に甘えてるだけだ。想いに応えられないのに、優しさばかり欲しがっているだけだ。こんなのは……。 「俺の勝手な意見を言わせて貰えば」  いつの間にか、俺は下を向いていた。すぐ隣から、心地よい低音が届く。 「……はい」  俺が顔を上げると、栗花落さんはまた苦笑していた。俺を見下ろしながら、優しい目で。 「君とヒロの間には、なにか……俺や夏生には分からないが、繋がっているなにかがあって、それさえ大事にしていれば上手くいくと思っているよ。……想いに応えるにしろ、応えないにしろ」 「繋がってる、もの?」 「ああ。曖昧な表現ばかりですまない」  ほんと、曖昧だ。俺とマスターにだけ繋がってるものなんて、俺のトラウマくらいだ。大事にしたところで、どうこうなるものじゃない。栗花落さんは事情を知らないからそう思ってるだけだ。きっと。 「最初の質問に戻るが、あいつからは好きな相手のことなどなにも聞いていないよ。夏生もたぶん、同じだろう」 「……ありがとうございます。変な質問して、すいません」  かまわないよ、と栗花落さんは微笑んだ。だが、その後すぐに思案顔になる。 「ただ、イギリスの友人がこちらで活躍しているという話は聞いたことがある。確か……エリ、だったかな。京都で和菓子職人になったとか」 「マスターが言ってるのって、その人……なんですかね」  エリ、か。なんか、女みたいな名前だな。確かマスターは、その人は普段京都にいるとか言ってたから、多分このエリって人で当たりだろう。 「断定はできないがな。それに、その人が好きだとも聞いていない」  栗花落さんはフォローするみたいに言ってくれたが、俺には……もう関係ないこと、だ。だから、気にする必要なんて無い。  気にする必要なんて無いんだ。なのになんで、俺は……、この人にそんなこと訊こうと思ったんだろう?  ほんと、最近分からないことだらけだ。 *       家にブロくんがいる生活にも、段々慣れてきた。帰りが遅くなる日に連絡するのも、結局は習慣になってきている。  けど俺達の間には、ほとんど会話がなかった。……なにを喋ればいいのか、分からなくなっていた。俺も、そして多分、ブロくんも。  ついこの間まで当たり前のように出てきた言葉が、今は一つも出てきてくれない。簡単な挨拶と、事務的なこと。それくらいしか、喋ることがない。  それでいい、はずだ。彼のことに興味をなくしたように接すれば、きっと彼も自分の勘違いに気付く。感謝や罪悪感みたいなものと、好意との違いに。  ただ問題があるとすれば、それは……彼の好意を素直に喜んでしまっている自分も、確かにいるということだ。ありがとう、俺も好きだよと告げられればどんなに幸せかと、妄想してしまう。理性がそれを全力で止めていると、他のことに頭が回らなくなる。結果的に、それが会話できない原因の一つになっているんだけど……。なんだか、情けない。  溜息を吐いている内に、今夜も家に着いてしまった。店を出た時にまたエリからの電話に捕まったから、時間はけっこう経っている。ブロくんはもう、夕飯を食べ終わってるだろうな。  エリからの電話は、「また土曜に飲みに行っていいか」という旨のものだった。この間の土曜、店でしこたま飲んで酔い潰れたっていうのに……。あいつも懲りないなぁ。相当ストレスが溜まってた上にホームシックまで併発してたみたいで、フィッシュ&チップスを頬張りながら大泣きしてた。まぁ、それでちょっと吹っ切れたみたいだけど、 俺はエリからのお願いを快諾して、再び土曜だけのパブを開くことにした。頻繁に家を空けていた方が、ブロくんから疑われにくくなるだろうし……。  なんだかんだと考えながら、この間作った合い鍵で鍵を開けた。ふわりと味噌のいい匂いが漂う。今夜はお味噌汁か……。ブロくんにも色々料理を教えたけど、一番覚えてくれたのは和食だったな。 「ただいま」  そう声を掛けると、カーテンの向こうから「お帰りなさい」と返ってきた。心なしか、いつもより少し柔らかい声だ。……というより、昔みたいな声、かな。最近、固く冷たい彼の声しか聞いていなかったから、なんか懐かしい。  ……いかんいかん。顔が勝手に緩みそうだ。  落ち着くために水を飲もうとした時、カーテンが開いた。こっちに入ってきたブロくんと目が合う。 「……飯、準備するんで、待っててください」 「へ?」  ブロくんは俺の返事も待たず、味噌汁を温め始めた。……夕飯、まだだったのか。いつもは先に食べてるのに、どうしたんだろう? 「座ってていいですよ」 「あ、うん……」  言われるままに、部屋に入った。……うーん、待ってろと言われても、手持ち無沙汰だなぁ。とりあえずテーブルの前に座ってみたけど、すぐにそわそわしてしまう。基本的に、世話をするのには慣れてるけど反対の立場には不慣れだ。昔からなにかと不器用だったつーの世話をし続けてたからかもしれない。逆に、あいつは他人の世話が下手だ。ついでに言うと、自分の世話も下手だ。半田くんがいない間、どうやって生活してたのか不思議なくらい。  俺がそんなどうでもいいことを考えている内に、ブロくんは温め終わった夕飯をテーブルの上に置いていった。温かな味噌汁とご飯、サラダに豚の生姜焼き、それに漬け物。全てを並べ終えたブロくんは、俺の向かいに座って手を合わせた。「いただきます」と言うのを忘れない。複雑な家庭事情を抱えているとはいえ、彼はけっこう育ちが良かった。  俺も「いただきます」と言ってから、食事を始めた。しばらく、黙々と箸を進める。ブロくんの味付けはいつも少し甘めで、どうやら俺の好みに合わせてくれているらしい。ここに来て初めて作ってくれた朝食もそうだったけど、……その頃から、ひょっとして。 「エリ、って名前なんですか?」 「……え?」  どうして、その名前を。 「……マスターの好きな人」 ブロくんはそう続けて、汁椀に口を付けながらちらりと俺を見た。だいぶ光を取り戻しているその目に射抜かれ、どきりとしてしまう。 「今日の昼、たまたま栗花落さんに会って、聞きました」 「あ、ああ、そうなんだ……」  罪悪感と奇妙な緊張感が、背中を駆け上る。つーには随分前からエリのことを話してたけど、あいつは俺がブロくんに吐いてる嘘を知らないもんなぁ……。余計なこと言ってなきゃいいけど……。 「女の人……みたいな、名前ですね」 「はは……、本名はエリックだよ。エリック=ウェイクフィールド。エリって呼べってうるさいんだ」  できるかぎり自然な笑顔を作ろうとしたけど……、できてるんだろうか? 「和菓子の職人だって、聞きましたけど」 「そうだよ。ししやって聞いたことある? 東京に本店がある、全国チェーンの和菓子屋さん。あそこで働いてる。その内、日本に永住するつもりらしいよ」  楽しそうに、嬉しそうに、……恥ずかしそうに。俺はできるだけ表情を作った。 「明るくて、気のいい奴だよ。ちょっと酒癖悪いけどね」 「そう……ですか」  ブロくんの表情が、僅かに曇る。だが、すぐにいつもの淡々とした顔に戻った。  また、沈黙が落ちる。お互いにひたすら箸を動かすことに集中すると、あっという間に料理はなくなってしまう。「ごちそうさまでした」と言って、ブロくんは箸を置いた。  でも、ブロくんは動かなかった。しばらく自分の指先を眺めてから、俯いたまま口を開く。 「……前は、どうして別れたんですか?」 「え……、あ、うん……」  ……これだけ興味があるってことはやっぱり、自覚があるにしろ無いにしろ、俺のことを意識してくれてると考えていいんだろうな。素直に喜べない自分が虚しい。 「簡単なことだよ。あいつが、別の人を好きになっただけ。で、その人の方を取ったってだけ。まぁ、来日が決まった時に別れたみたいだけど」  言い終わってから、しまったと思った。だが、出て行った言葉は戻ってこない。  ブロくんは「変なこと聞いて、すいません」と言って立ち上がり、食器を片付け始めた。顔を俺に見せようとしない。逃げるようにカーテンの向こうへ去っていった。  ……溜息が、勝手に出た。今のブロくんにあんなこと言うなんて……、ほんと、俺って駄目だな……。いや、ここは駄目な自分を喜ぶべきところか。着々と嫌われる要素は増えてるわけだから。  水の跳ねる音が、カーテンの向こうから響く。皿洗いまでしてくれているようだ。壁の向こうの彼が今どんな顔をしているのか、俺には見当も付かない。 ごめん、……ブロくん。俺じゃ駄目なんだ。男の俺じゃ、君を傷付けることしかできない。だから、早く気付いてくれ。君が今抱いている感情は、ただの感謝だってことに。それは、絶対に……恋なんかじゃないってことに。  八月三日 土曜日  俺達が口を開いたのは、朝食を終えた直後のこと。 「今夜……」 「今晩……」  言葉が被ってしまい、俺とブロくんは顔を見合わせた。 「……先、どうぞ」 「じゃあ……。今夜、けっこう遅くなるから。後、俺の分の夕飯はいらないよ」 「分かりました。……俺も、今晩は遅くなります。栗花落さんの家に行くんで」 「そっか。半田くんに会いに行くのかい?」  ブロくんはこくりと頷いた。今朝は睡眠薬の効果が抜けきっていないのか、まだ少し眠たそうだ。久し振りの仕事で、疲れが溜まってるのも関係あるのかな。……少し心配。 「マスターは……エリさんと、ですか?」 「……まぁ、そんなとこ」  そっと目を伏せて、ブロくんは立ち上がった。少しふらつきながら、皿を重ねてカーテンの向こうへ消える。  そのまま皿を洗うのかと思ったけど、今朝はすぐに戻ってきた。着替えを始めていた俺の傍にある座椅子に座り、ふわ、と大きく欠伸をする。いつもより表情が幼くなって、なんだかひどく胸が疼いた。……うー、落ち着け落ち着け。  ブロくんに背を向けて着替えを終え、俺はすぐにユニットバスへ向かった。鏡の前でいつものように顔を洗う。そして髪を整え、ゆっくり大きく息を吸った。姿勢を正して前を向けば、鏡の中には喫茶〈西風〉のマスターがいた。……これでよし。  部屋に戻ると、ブロくんは座椅子に座ったままうつらうつらしていた。どうやら、よほど薬の効きが良かったらしい。 「寝るならベッドいきなよ。今日、休みだろ?」 「……はい」  か細い声で、ブロくんは返事をした。その小さな声に、二週間前、彼が店にやってきた時を思い出してしまう。あの時はまさかこんなことになるなんて、思ってなかったな……。  億劫そうなブロくんがベッドで横になるまで見送ってから、俺は支度を調えて部屋を出た。  今日も気味が悪いほどいい天気で、少し自転車を漕いだだけでも汗ばんでくる。大学が休みに入った上にこの暑さじゃ、客足は少ないだろうなぁ。あんまり暇なら、半田くんにはちょっと早めに上がって貰おうか。その方が、半田くんにもブロくんにもいいだろう。  半田くん……、ブロくんにあんまりキツイこと言わなきゃいいけど……。 「あのね、それあんたに言われるの、すっげぇ癪なんですけど」  とてつもなく不機嫌そうな顔で、半田くんは言い放った。皿を洗いながら横目で俺を睨んでくる。少し忙しかったランチタイムも過ぎて、そろそろ俺達も賄いを食べようかなという頃合いにこの話をしたのがいけなかったんだろうか。空腹は人の心を狭くするって聞いたことあるし。 「つーさんから聞きましたよ。忍に好きな人いるとか言ったんでしょ」  彼の猫目は、明らかに俺の嘘を見抜いている。うーん、さすが。 「ああでも言わなきゃ、どうにかなりそうだったんだよ。実際、半分くらいはほんとの話だから」 「言ったところでどうにかなりそうなのは一緒でしょ? そりゃ、あいつも長居しづらくなるでしょうから、結果的には両方のためかもしんないけど」  ぎゅ、と強く蛇口を閉めてから、半田くんはお手拭きを掴んだ。 「結局、どっちに転んでもあんたは無理してるってことですか」 「……どういう意味?」 「あの、恋愛事に死ぬほど鈍いつーさんが言ってましたよ。……「上風呂くんはヒロのことが好きなんじゃないだろうか」って。この間、あいつと話しててそんな感じがしたそうです」 「まさか、そんなこと」  あるわけない。口に出すのがなぜか恐かった。……とっくに、確信していることなのに。 「俺にだって、あるわけないと思ってたことが起きた。あんたにだって起きるかもしれない。  大体、あんたにとっては嬉しいことなんじゃないんですか? 三年間あいつのこと好きだったんだから」 「……今更だよ」  賄い用のパスタを用意しながら、俺は首を振った。 「ずっと片思いだったのに、今更好きになられたって戸惑うだけだ。それに、今の彼は精神的にかなり疲れてる。そういう時に優しくされれば、誰だって相手を好きになる。もしあの時、ブロくんが君のところへ行くのを選んでいたら、彼は君を好きになったかもしれない」 「でも」  半田くんは、どこかを睨んでお手ふきを強く握り締めた。 「あいつはあんたを選んだ。俺はなんでなのかずっと分からなかったけど……、つーさんの話聞いて分かった気がしました。自覚があるにしろないにしろ、あいつはあんたのことが好きなんだ。ほんとに辛い時、他の誰でもなくあんたを選ぼうと思うくらい」 「それは好きってことじゃない。頼ってるだけだ。君に自分の弱いところを見せたくなかっただけかもしれない。それに、君はつーと暮らしてるんだから、遠慮するのは当たり前だ」 「……それは、そうですけど」  下を向いて、半田くんは小さく呟いた。童顔の彼がそんな顔をすると、なんだか子どもを言い負かしてしまったような気になってくる。 「ブロくんには」  水をたっぷり入れた鍋を火に掛けて、俺はできるだけ優しい声を出した。 「俺みたいなオジサンでいい加減な男より、若くて優しくて気の利く、可愛い女の子の方が合ってるよ。自分が辛い時におかしな嘘吐かないような、ね」  鍋に蓋をして、俺はほんの少しだけ溜息を吐いた。情けない自分を、笑い飛ばしたくてもらいたくて。でも、半田くんは笑ってくれなかった。    「……あんたから、そんな台詞が出てくるとは思わなかった」  振り絞るような声で、半田くんは呟く。……なんで君が、泣きそうな顔をしてるんだ? 君がそんな顔をしてると、こっちまで泣きたくなるじゃないか……。 「本気でそう思ってるんですか?」 「……ああ。俺じゃ駄目なんだ」 男の俺じゃ、駄目だ。彼を傷付けるばかりなんだから。……駄目なんだ。俺は君じゃないし、ブロくんはつーじゃない。君達みたいには、なれないんだよ。 「それを、あいつにも言えるんですか? あんたを望んでるかもしれないあいつにも、面と向かってそう言えるんですか?」  静かに、けど追い立てるように、半田くんは言い連ねた。 「言える。……それに、そんなことは誰より彼自身が知ってるはずだ」 「なんで断言できるんですか、そんなこと」 「……それは、俺の口からは言えない」  この間と同じことを言った俺を見て、拗ねたような顔をした半田くんはお手拭きを置いた。 「じゃあ忍に訊きますよ? あんたじゃ駄目な理由」 「う……、それはちょっと……」 「せっかく吐いた嘘が台無しになるから? ったく、あんたほんとに面倒な人ですね」 「頼むよ。人助けだと思って……」  俺が半田くんに手を合わせた時だった。カラカラとドアベルが音を立てて、勢いよくドアが開く。店の照明に照らされて、金色の髪がきらきらと輝いた。 「ヒロー! マイドー!」  開口一番にそう叫んで、カウンター内にいた俺に駆け寄ってくる。そして大げさにハグしてきた外国人を見て、半田くんの目は点になった……。 「えーっと、こいつがエリック=ウェイクフィールド。在日イギリス人で、京都に住んで和菓子の職人やってる」 「ドモー、エリですー」 「ど、どーも」  思いっ切り引きながら、半田くんはどうにか頭を下げた。こういうノリには弱いらしい。意外だ。 「エリ、この子は半田夏生くん。うちのアルバイト」 「ナツキ? 女の子?」 「夏生は男にも使う名前です!」  ムキになって言い返した半田くんだけど、エリは全く堪えてない。 「おー、スンマヘン」 「ちょっとマスター! なんなんですか、この胡散臭い大阪弁!」  あらら、矛先がこっちに向かって来ちゃったよ。 「チャイますチャイます。ウチ、京都弁ヤデ」 「はんなりがこんな喋り方でたまるか!」 うーん、いいツッコミだ。……漫才のことよく分かんないけど。ってか、大阪ならこの喋り方でもいいのかな。よくないよな。 「職場のオッチャンらが教えてくれハッタんですー。セヤカラ、ウチは京都弁ヤネン」 「俺、京都には住んだこと無いけど、これが京都弁じゃないことは分かる……」 「ノーノー。ドスやらオスやら使うンは、舞妓ハンやお金持ちだけヤデ」 「あー、方言のことは後でいくらでも話してくれていいから、とりあえずお茶出していい?」 「ハーイ。よろシュウ」  俺がお茶を淹れ始めても、半田くんとエリはなんだかんだと喋っていた。どっちも人見知りしないタイプだから、ほっといても大丈夫だろう。あ、そういえばパスタも茹でないと。このままじゃ、昼ご飯食いっぱぐれそうだ。 「半田くーん、お客さんとお喋りもいいけど、俺の賄い作ってくれる気なーい?」 「あ、はい。スパゲティでいいですか?」 「うん。古そうな野菜使っちゃって。そういえば、エリはもうご飯食べたよね?」 「ハーイ。東京のお蕎麦って、黒くてショッパイワー」 わざとらしく顔を顰めて、エリは肩をすくめた。うーん、前にもまして日本かぶれになってきたなぁ。いや、関西かぶれ? 「約束は八時だったのに、随分早く来たねぇ」 「ヒロの働いてるとこ、見たなっテン。迷惑ヤッタ?」  大きな青い目が、少し申し訳なさそうに下がる。なんだっけ、イギリスの耳が垂れてる猫。あれに似てる気がする。 「いや、いいよ。ちょうど暇してたとこだから。あ、ロールケーキもあるけど食べる? お茶とセットで六百円になるけど」 「ホナそれでー」  にこにこ笑いながら、エリはようやくカウンターの椅子に座った。俺もつられて笑いながら、お茶の準備を始める。 「……マスター、ちょっと」  野菜を切っていた半田くんが、俺を小声で呼んだ。近寄ると、少し下にある彼の目がじっと俺を見上げてくる。 「なに?」 「あの人が、好きな人ですか?」  半田くんは、ちらりとエリを見た。あいつは大して気にしてないのか、ニコニコしながら鼻歌を歌ってる。 「うん」 「忍は……」 「会ったことないよ。まだ。……会わせるつもりもない」  いくら俺でも、そこまで無神経にはなれない。……それに、なにも知らないエリを前にして嘘を吐き通せる自信もない。 「……頼むよ。ブロくんには」 「あんたと、あいつ次第です」  ふっと、半田くんは目を逸らした。少し辛そうな顔をしていたけど、振り返った時にはいつもの明るい表情に戻っている。 「ほら、お客さんにお茶出さないと!」 「あ、うん……」  急かされるままに、俺はまたお茶の用意に戻った。 「ヒロ、シリに敷かれてハル?」 「そーなんだよ。店長扱いしてくんなくてさぁ」 「してほしけりゃちゃんと働いてください!」  いつもみたいにやり取りをして、いつもみたいに笑う。けど、俺の心は沈んでいた。  俺と、ブロくん次第……か。ブロくんは……、今夜半田くんと会って、なにを話すつもりなんだろう?      *  二度寝から目覚めた時には、もう昼になっていた。ベッドから下りて軽く伸びをすると、ようやく頭がはっきりしてくる。  昨夜、どうしても寝られなくて睡眠薬をもう一錠飲んだせいで、今朝は散々だった。一昨日も効きが悪くて精神安定剤をもう一錠飲んだけど、その時は効果がなくて眠れなかったから、今度こそって思ったのに。逆に効き過ぎてこのざまだ。仕事始める前は、精神安定剤を一錠余計に飲むだけですかっと寝られたのに。薬の効きが悪くなってるのか、俺の精神状態が悪化してるのか、自分では判断ができない。  なんとか朝飯は作れたけど、使った皿は流しに置きっぱなしだ。一昨日から溜め込んでた洗濯もできてない。とりあえず昼飯を……って、昼飯なんて時間でもねぇな。もう。  寝間着代わりのシャツとハーフパンツを脱いで、洗濯機に放り込む。ついでに洗濯機を回して、今度は皿洗い。それが終わってから、ようやく昼飯を作り始めた。  今晩は、七時半に〈西風〉で待ち合わせてある。それまでに洗濯物を干して、できたら掃除もしよう。時間あるから、大丈夫だろ。  適当に昼飯を作って食べ終えても、洗濯機はまだ動いていた。規則的な洗濯機の音を聞きながら、皿を洗う。箸や歯ブラシなんかの、初日にマスターが買ってきてくれた物以外は、皿の数もコップの数も来た時と変わってなかった。身一つで、すぐに引っ越しできるように。  そういえば、すぐ引越できないとはいえ、そろそろ部屋を探さないと。一通り家事を済ませたら店に行ってみるか。確か、大学の近くに店が二、三軒あったはずだ。何軒か当たってみて、資料も貰っとこう。できたらこの近くで、家賃があんまり高くないところ……。  先のことを考えていれば、今のもやもやした気持ちから目を逸らすことができた。マスターのことも考えなくて済む。きっと一人で暮らせば、どうでもよくなるはずだ。で、その内忘れられる。……その方が、いいに決まってる。あの人のためにも。  ……忘れられる? 忘れたいのか、俺は。……あの人のことを? 違う、そうじゃなくて。 駄目だ。また、訳が分からなくなってる。どうしたい? どうすればいい?  分からない。この感情の意味なんて、知らない。分かるはずがない。  ぐるぐると同じことを考えながら、俺は家事を終わらせてしまった。洗濯物を干し終えてから、時計を見る。待ち合わせの時間にはまだまだ余裕があった。  財布と携帯、部屋の鍵をポケットに突っ込んで、蝉の声がうるさい外へ出た。移動手段がなにもない俺は、うだるような暑さの中を歩き始める。歩くこと自体は嫌いじゃないから苦にはならないが、この暑さは正直辛かった。自転車くらい、今の内に買っとくべきか……。  ぼんやりそんなことを考えていた時だった。ポケットの中の携帯が震え出す。……なぜか分からないが、嫌な予感がした。  開いた画面には、知らない携帯番号が表示されている。指が震えて、通話ボタンを押せない。「……まさか」  口に出して呟いた。前から歩いてきた中年の主婦が、胡散臭そうな目で俺を一瞥する。  しばらくして、振動が止まった。留守番電話のアナウンスが流れ始める。俺の手の震えは、止まらなかった。聞きたくない、でも……確かめたい。  奇妙なほど甲高い発信音の後。 『忍? 晃だ。……時間が空いたら、連絡をくれ』  予想していた、そして聞きたくなかった声が響いて、俺は携帯を取り落とした。アスファルトに落ちた携帯は、鈍い音を立てる。拾う気にもなれず、俺はそのまま突っ立った。  さっきまで嫌というほど気になっていたはずの蝉の声が、聞こえない。通り過ぎていく車の音も、時折吹き抜ける風の音も、なにも聞こえない。……留守電に入っている兄貴の声だけが、何度も何度も頭の中で繰り返された。  母さんと妹からの電話なら、家を出てすぐに何度も何度も掛かってきた。でも……、兄貴からの電話は、初めてだった。  嫌な汗が背中を流れる。暑いのに、鳥肌が立っていた。恐い。……恐い。  動けないまま携帯を見つめていると、再び震え始めた。今度は見知った名前が表示され、途端に肩の力が抜ける。夏生からのメールだった。  少し早めに店を上がれることと、待ち合わせ場所を変えたいと書かれていた。簡単に返事をしてから、携帯をポケットに突っ込む。  季節はずれの寒気を感じながら、俺は逃げるようにその場を去った。  家賃は収入の四分の一から三分の一くらいまでが目安。そんな話を最初にしてから、店員はいくつか部屋を紹介してくれた。大学の近くで探すと家賃は割高に、マスターの部屋の近くで探すと割安になるらしい。  地価の相場なんて考えたことなかったけど、前に住んでた部屋ってけっこういい物件だったんだな、と今更思った。学生マンションだったからか狭くて汚かったけど、大学には近いし家賃は安いし。正直またあそこに住みたい。……でも、あそこに住めたとしても、またマスターに迷惑かけそうだな。  ちょっと遠くて安い物件の資料をいくつか貰って、店を出た。鞄なんて持ってないから、店員に貰った封筒に資料を全部突っ込んでる。そのまま近所にある別の店に入って、またいくつか資料を貰った。そこからまたハシゴして、更に貰う。この辺は大学が近くて単身者用のアパートが多いせいか、いろんな物件があるみたいだ。  さすがに三軒も回れば、けっこうな時間が経つ。最後の店を出た頃には、もう三十分くらいで待ち合わせの時間になるというところまで来ていた。  夏生が指定してきた待ち合わせ場所は、近所のショッピングモールだった。ついでに栗花落さんとの買い出しに付き合わせるつもりらしい。「食いたい物はあるか」とメールがきていたが、相変わらずあまり食欲のない俺は「特にない」としか返せなかった。  夕方とはいえ、暑さはまだ引く気配がない。ショッピングモールへ向かう間に、俺は汗だくになっていた。でも数時間前の気持ち悪い汗に比べたら、ほとんど気にならないのが不思議だった。  到着したのは、待ち合わせの十分前。夏生は基本的にルーズだから、多分何分か……下手したらもっと、遅れてくるだろう。中に入って、資料見ながら涼んどくかな……。 「上風呂くん」  聞き慣れた声が、突然響いた。振り返ると、一昨日会った時と同じように涼しげな笑みを浮かべた栗花落さんがいた。 「栗花落さん」 「すまないな、待たせてしまって」  整った眉を少し下げて、栗花落さんは謝った。 「いえ、今着いたとこです。……夏生は一緒じゃないんですか?」 「ああ。あいつは〈西風〉から直接こちらに来る」  そう言って俺の隣に立つ栗花落さんは、エコバッグを提げている。その中にはまた、折り畳まれたエコバッグがいくつも入っていた。 「どれだけ買うんですか?」 「一週間分だよ。平日はお互いになにかと忙しいから、土曜に買い溜めることにしているんだ。と言っても、夏生が土曜に働いている日は、大抵日曜に買い出しに行くんだがな」  そう言って苦笑する栗花落さんはどこか幸せそうで、今更だけどこの人達は二人暮らしをしてるんだなと思った。在学中から二人暮らししてるようなもんだったけど、こういう話を聞いてると、もうあの頃とは違うんだと実感させられてしまう。 「君とヒロは、どうしているんだ?」 「え?」 「買い物は二人で行かないのか?」 「……マスターの家なんで、買い物とかは基本的にあの人が行ってます」  俺は今、どんな顔をして喋ってるんだろう。栗花落さんは俺の顔をちらりと見て、「すまない」と呟いた。 「どうも、いけないな。俺は余計なことばかり訊いてしまうようだ」 「いえ……」  いちいち落ち込んでる俺の方が悪い。栗花落さんは悪気があって言ってるわけじゃないんだから、俺が気にしなきゃいいんだ。  なんとなく気まずくて、お互いに黙り込んでしまった。そうこうしている内に、見慣れたいつもの癖毛頭がひょこひょこ近付いてきて、栗花落さんが安心したように微笑む。 「夏生!」 「ごめんなさい、遅くなりました。……よ、久し振り」  軽く手を挙げた夏生は、前と同じように笑った。……俺も、なんとなく安心する。当たり前と言えば当たり前かもしれないが、最後に会った時から全然変わってないのが少し嬉しかった。 「心配掛けて、悪かった」 「いいんだよ。俺だっていっつも心配掛けてたんだから」  言いながら、夏生は自動ドアの方へさっさと歩き出す。栗花落さんと俺もその後を追い、ショッピングモールの中へ入った。  その途端、鳥肌が立つんじゃないかってほどの冷気が、汗ばんだ体を冷やしていく。思わず体を震わせると、隣にいた栗花落さんが心配そうな顔をして覗き込んできた。 「大丈夫か?」 「はい。ちょっと寒かっただけです」 「これで? お前、痩せすぎたんじゃね?」  夏生も栗花落さんも、冷房の寒さをさして気にしていないようだった。不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。 「そんな痩せてねぇよ。……体重計ってねぇけど」 「絶対痩せてる。肩とか薄くなってる!」 「そうだな。確かに前より、少し痩せたような気がする」  栗花落さんにまでそう言われてしまい、俺は自分の手足を改めて見回してみた。……うーん、そんなに変わってねぇと思うけどな。 「ちゃんと食ってるか? って、あのマスターなら食わせてるか……」 「食ってるけど、作ってるのは基本俺だ。あの人、朝起きるのも夜帰ってくるのも俺より遅いから」  そう聞いて、二人とも驚いたようだった。視線を集められてしまい、ちょっとたじろぐ。 「え、事務ってそんな早く帰れんの?」 「夏休みの間は暇だからな。残業とかもほとんどない」 「へぇー。で、いくらもらえるんだよ」 「夏生、そういう話は……」 「栗花落さん、いいですよ。……月に二十万いくかいかないかくらいだ。事務の初任給なんて大体そんなもん」  ふーん、へぇーと一頻り感心する夏生と対照的に、栗花落さんは居心地が悪そうだった。多分、今までこういう話をあんまりしたことがないんだろう。社会人だったなら尚更だ。自分の給料なんて、よっぽど仲良くない限りは喋らないだろうしな。 「その……、ヒロは家では料理をしないのか?」  話を変えたいらしい栗花落さんが、俺を見下ろして小さく首を傾げた。そういう仕草をすると、歳よりずっと若く見える。……普段から、マスターと同い年には見えないけど。 「あんまり。マスターが作る前に俺が作っちゃうんで」 「毎日? お前、疲れてねぇの? 事務仕事って、肩とか腰とか痛くなりそうじゃん」 「大したことねぇよ、今のところは。それに、一人暮らしに戻ったら疲れてても自分で作るしかねぇだろ。予行演習してるようなもんだ」  そういう夏生こそ、毎日のように〈西風〉でバイトしながら、家事を一通りこなしてる……ってマスターから前に聞いたことがある。事務仕事より接客の方がよっぽど疲れるのに、よく続けられるもんだと思う。……栗花落さんのため、なんだろうな。 「めんどくさくなったら、いつでもウチ来いよ。お前の分くらいなら作る余裕あるから」 「……ああ」  夏生は少しだけ……、寂しそうな顔をしてる気がした。なんでかよく分からないけど、無理して笑ってるような。 「それより、今日の晩飯どうする? お前、客なんだからなんかリクエストしろよ」 「なんで招いた方が客より偉そうなんだよ」 「これでも最大限に謙ってますー」 「言葉の意味知ってるか?」 「うっせ。とにかくなんか言わねぇと、素うどんで済ませるぞ」 「……別に素うどんでいい」 「は!? マジで?」 「嫌なら最初から言うな」 「だーって、お前が特にないとか言うから」 「特にないもんは特にないんだからしゃーねぇだろ」 「あのなぁ、特にないが一番困んの! 母親に言われなかったか?」 「料理好きだったから勝手にいろいろ作ってた」 「あーもう、お前マジで話にならねぇ!」  ふと栗花落さんを見たら、やたらと優しい顔で微笑んでた。あれだ、子どもを見守る母親みたいな笑顔。……百八十超で未婚の成人男性だけど。 「無理に上風呂くんに決めて貰う必要はないだろう」 「はーい。じゃ、逆に食えないもんは? お前、あんま好き嫌いないよな」 「……食えないもん、ねぇ」  強いて言うなら、酒はあんまり好きじゃない。まぁ、付き合い程度には飲めるけど。それ以外だと……? 「あ……、奈良漬けは食えない。あと酒粕」 「ああ、俺も食べられないな」 「もうちょっと一般的な話してくださいよあんたら……。ニンジン嫌いとか、生姜入ってたら駄目とかねぇの?」 「別に。……味が薄いのは好きじゃないが」 「味が濃いもん、ねぇ。そういや、味噌カツとか好きじゃねぇの? あれ名古屋の名物だろ」 「トンカツはともかく、掛ける味噌がねぇだろ」  だらだら喋ってる内に、俺達は食品売り場に着いた。栗花落さんがカートを引いて来て、夏生がそれにカゴを載せる。さっそく青果コーナーで野菜を覗き始める夏生の後ろを、栗花落さんはゆっくりと付いていっていた。  俺は急にどこにいればいいのか分からなくて、二人の更に後ろにいるしかなかった。 「とりあえずトマトとナスかな。あ、夏野菜カレーとかどうよ? ……って、忍? なんでそんなとこいんの?」 「なんでって……、別に」 「いいからこっち来いよ。ほら」  夏生は笑いながら手招きをする。栗花落さんも微笑みながら俺を促した。 「どした? そんな顔して」  夏生は隣に行った俺の顔を、不思議そうに覗き込む。……俺は無性に、泣きたくなっていた。当たり前のように居場所をくれる二人に。 * 「ヒロ? ドナイシタ?」 「ん? んー、なんでもないよ」  いつの間にかぼんやりしてたらしい俺を、エリが現実に呼び戻した。一通り閉店作業を終えた俺は、今夜のつまみにオリーブとニンニクを炒めているところだった。炒めすぎて、オリーブがちょっと焦げてちゃった……。 「今日、上の空ヤネ」 「そうかな?」 「イエス。夏生が帰ってから、ずっとヤン」 「うーん、自覚ないけど」  エリはカウンターに肘をついて、皿にオリーブのニンニク炒めを移している俺を見上げてきた。海みたいに青い目が、電灯の下で淡く光っている。 「〈恋してるだろ〉」  綺麗な英語が、俺の耳に突き刺さった。俺はエリの前に強い香りを放つオリーブを置いて、フライパンを流しに持っていく。 「〈相手は夏生?〉」 「〈……違うよ。あの子は、俺の親友の恋人だから〉」 「〈じゃあ誰?〉」  蛇口を捻ると、生ぬるい水が音を立てて流れ出した。返事をせずにフライパンを洗っていると、エリが溜息を吐くのが聞こえた。 「〈ヒロはいつも、肝心なことを言ってくれなかったよな。隠し事、下手な癖に〉」  エリは呆れながら言った。……別れ話を切り出された時も、こんな喋り方してたっけ。 「〈あの頃だって……、知ってたんだよ。口では僕のことを好きだって言いながら、心の中に別の誰かがいたってこと〉」 「〈……今でも、エリには悪いと思ってるよ〉」  フライパンについた泡を水で丁寧に流してから、俺は蛇口を閉めた。水音が、止まる。 「〈けど、エリが好きだったのも本当だ。……それにね〉」  ワックスで固めた前髪を、濡れた手でくしゃくしゃにした。それだけでもう、俺は喫茶〈西風〉のマスターでなくなる。ただの男に……戻る。 「〈俺は、絶対に叶うはずのない恋を忘れられないだけなんだ。……忘れなきゃ、いけないのにね〉」  忘れなきゃいけないんだ。それが、お互いのためなんだから。二週間以上前から自分に言い続けている言葉を、俺はまた確かめた。 「〈忘れられないなら、その恋はまだ終わってないんじゃないか?〉」 「〈……そうかもしれない。けど、終わらせなきゃいけない〉」 「〈どうして?〉」 「〈お互いのためにならない恋だから〉」  エリに背を向けたまま、俺は言った。 「〈ヒロは、お互いのためになるかならないかで恋をするのか?〉」 「〈……好きなだけじゃ、続かないよ。エリだって、それは分かるだろう?〉」 「〈分かるさ。……嫌になるくらい〉」  椅子を引く音がした。エリが立ち上がったのが分かる。……けど、俺は振り返れなかった。 「〈でも……、だからって、忘れられるのか?〉」 「〈……きっと〉」 「〈本当に?〉」  エリの足音が、すぐ後ろまでやってきた。 「〈忘れられると思うなら、振り返って僕を見ろよ〉」 「〈エリ……? なに、言ってる?〉」 「〈こっちを見てよ、ヒロ〉」  声色が、変わった。……ほんの少しだけ、切なげに。 「〈僕の目を見て言ってくれ。……ずっと前みたいに〉」 「〈……エリ、俺は〉」  言葉は、続かなかった。うなじに柔らかな物が押し付けられる。俺よりずっと逞しくて、そのくせ頼りない腕が、ゆっくりと俺を絡め取った。  ひどく温かくて、ひどく苦しい。 「〈……ごめん〉」 「〈ねぇ、ヒロはなんで……〉」 繊細な生菓子を生み出す器用な手が、俺の目元にそっと触れた。 「〈なんで泣いてるの?〉」 「〈……自分の駄目さに、呆れたから、だよ〉」 「〈それも嘘、だろ?〉」  エリは綺麗な英語で残酷に囁く。 「〈ヒロはいつも、自分に嘘ばかり吐いてる。忘れられないのに忘れた振りをして、割り切れないのに物わかりがいい振りをして、……好きじゃないのに好きって言って。でもどうせ、本当に好きな誰かには、好きって言わないんだろ?〉」  どうしてこいつは、そんなことまで分かってしまうんだろう? あの時も、今も。 「〈振り返ってよ。僕を見てよ。好きな誰かに好きって言わないなら、好きじゃない僕に好きって言ってよ。そうしたら、ヒロの望んだ通りになる〉」  俺の、望んだ通り。……ああ、その通りだ。なにも知らないはずのエリは、俺が吐いたブロくんへの嘘を見抜いている。ブロくんには、嫌って程効いてるのに。 「……そうだよ。振り返ればいいんだ」 「……ヒロ?」 「振り返れば、いいんだ」  それでいいんだよな? ブロくん。それが一番……君のためになるよな? 俺はもう、これ以上君を傷付けることなんてなくなる、よな。咄嗟に吐いた嘘だったけど、本当になってくれるんならそれが一番だ。きっと、そうだ。  そして俺は、ゆっくりと、エリの方へ振り返った。 *  季節の野菜を豪快に入れたカレーを食べ終えてから、夏生は日本酒を取り出した。〈露姫〉と書かれたパッケージは、シンプルだけどどこか艶やかだ。 「はいこれ、本日のメイン」  酒と一緒に持ってきたお猪口を自分と俺の前に置いて、夏生は満面の笑みを浮かべた。今から酒を飲むってのに、こいつの顔はおもちゃを前にしたガキみたいだ。 「美味いぞー。飲みやすいしな」 「ふーん。お前の飲みやすいはあんまり信用できねーけどな」 「これはほんっとに大丈夫だって。あのマスターでさえ一合空けられたから」 「その後はほとんどなにも飲めてなかったがな」  苦笑しながら、台所から栗花落さんが戻ってきた。皿洗いは栗花落さんの担当らしい。 「呼んでおいてなんだが、あまり無理をして飲まなくていいぞ」 「はい」 「あ、つーさんごめん、おつまみ持ってきてくれます? スルメとマヨネーズ」 「ああ」  栗花落さんはすぐに台所へ戻っていった。そのすらりとした後ろ姿を見送る夏生は、妙にわくわくしていた。 「スルメにマヨネーズ?」 「美味いんだよ。スルメにマヨネーズ付けるの。意外と。確か、去年のゼミ旅行で京都行った時、飲み屋で出たろ」 「出たような、出てないような……。あん時は、酔っ払いどもを無事にホテルまで連れ帰れるかしか考えてなかった」  酒が飲めない栗花落さんと二人で酔っぱらった先生やゼミ生をなだめすかしてホテルに戻ったのは、夜もかなり更けた時間だった。ホテル内で騒ぐなって言ってんのに、どいつもこいつもでかい声で喋りやがって。思い出したらなんか腹立ってきた。……けど、懐かしい。 「とにかく美味いから、食ってみろって」 「悪い、腹いっぱい」 「あんだけで? お前、胃袋小さくなった? 夏ばて?」 「夏ばてはない、と思うけど……。食欲、あんまりない」  笑顔から一転、不安そうな顔をして夏生は俺を覗き込んできた。 「大丈夫か? ほんとに」 「ああ……多分」  こないだも今も、俺はこいつに心配を掛けてる。……謝らなきゃな。それと、ありがとうって言わないと。 「食欲が落ちるのは、体力が落ちるのと一緒だ」  俺がなにか言う前に、スルメとマヨネーズを持ってきた栗花落さんがそう言って、俺の隣に正座した。切れ長な目が、じっと俺を見下ろしてくる。 「君はちゃんと食べていると言っていたが、少し不安だよ。……春先のヒロを見ているようだ」 「……塞ぎ込んでたんですよね」 「ああ。とても。それに、少しやつれていた。もっとも、口には出さなかったがな」  栗花落さんは少し寂しそうな目をしてそう付け加えた。あの人は、栗花落さんにもなにも相談しなかったんだろうか。俺にはあんなに電話を掛けてきたのに。 「出さないからいけないんですよ、あの人は」  いつの間にかお猪口に酒を酌んでいた夏生は、一口飲んでから怒ったように続けた。 「なんでもかんでも溜め込んで、一人で我慢してる。一人で納得して、一人で解決しようとする。……他人が困ってる時は、いくらでも手を貸す癖にね」  マスターのことを言っているはずなのに、夏生は俺を見ていた。円い目に、なにもかも見透かされてる気がしてくる。 「お前も、一緒だよ。大事なことなーんにも言わないで、一人で抱え込みやがって。見てるこっちはなんにもできねぇじゃん」 「……うん」 「なんかしたいの。俺は。……俺が凹んでた時に、お前が押しかけてくれたみたいにさ」  猫みたいな目が、少しだけ潤んでいた。あの日の……、失恋したと思い込んで大泣きしてた日の夏生が思い浮かぶ。あの時、俺はこいつになんて言ったんだっけ。確か……。 「……言う前から諦めるのは、どうかと思う、か」 「へ?」 「あの時、俺がお前に言ったこと。……覚えてるか?」  あの日の俺は、誰かを好きになれるこいつが羨ましかった。だから余計に……、恋を諦めてうじうじしてるこいつにムカついたんだ。諦めて欲しくなかった。相手が誰であっても。 「ああ、あれね。忘れらんねぇよ。ほんと、言ってみなきゃ分かんなかったから」  ちらりと栗花落さんを一瞥して、夏生はそっと笑った。 「お前はねぇの? 言ってみなきゃ分かんないこと。俺達にでも……マスターにでも」  俺は俯いて、ポケットに突っ込んだままの携帯電話に触れた。あれから、着信はない。それでも……、あの人のことを思い出すと、鳥肌が立った。恐い、けど……。心配してくれてる夏生や栗花落さんには、話した方がいい気もする。……いや、話さないと。  覚悟を決めて顔を上げると、夏生と栗花落さんはじっと俺が話すのを待っていた。知らない内に注がれていた自分の分の酒を一口飲んで、目を閉じる。  なんでか、一番最初に思い浮かんだのはマスターの顔だった。 *  これ……、何杯目だろう。分からない。頭がぼーっとする。今、何時だろう。分からない。気持ちいいのか気持ち悪いのかも分からない。 「は、はは……」  笑いたいのに、上手に笑えない。ひんやりしたカウンターにくっつけた頬を、涙が伝っていく感触だけ分かった。……ああなんか、ほんと、気持ち悪いのかな、気持ちいいのかな、これ。 「ヒロ、帰った方がエエんチャウ?」 「んー? あー……そーだね」  エリの顔が歪んでる。あーあ、男前が台無し。ん? あれ? 店も歪んでる。あ、床も。駄目だなぁ、修理しないと。 「タクシー呼ぶワ。ちゃんと座りヤ?」 「あー、んー」  タクシー? ああ、帰るのか。そうだよな。帰らなきゃな。ブロくん、怒るかな。怒るよな。  売り上げと、店の鍵と、携帯と、財布と。これだけあれば大丈夫。うん、大丈夫。なーんにも問題ない。  早く帰って、ブロくんに会いたい。ブロくん。ブロくん。  また涙が出た。体が熱い。頭も熱い。ブロくん。あの真っ直ぐな目を、見たい。全部全部、見通されてしまうんじゃないかと思うほど、真っ直ぐで綺麗な目。俺のせいで、最近ずっと伏せられてしまっている目。大好きなんだ。……大好きなのに。  大好きなのになんで、好きじゃ駄目なんだろう? 憎い。ブロくんのお兄さんも、自分自身も。嫌いだ。大嫌いだよ。どうにもならないのに、嫌で仕方ない。  どうしてお兄さんはブロくんをあんなに痛めつけた? どうして俺は、またブロくんを傷付けようとしてる? 全部全部、彼を苦しめるだけだ。いなくなってしまえばいいんだ。彼のお兄さんも、俺も。  「ヒロ? ヒロ、タクシー来たデ?」 「……っく」 「店の鍵、これヤンナ? 鍵掛けるデ。ほら、立ちナハレ」  ぐらぐらする。真っ直ぐ歩けない。エリの体が冷たくて気持ちいい。街灯が明るい。ああもう、なにがなんだか分からない。涙が落ちてることだけ分かる。ブロくん、ごめん。 「家、どこ? ヒロ?」 「……ブロくん……」 「ヒロ? ……アカン。ドライバーはん、ちょっと待ったって。スンマヘンなぁ」  ん……? 車のシートだ。気持ちいい。エリが俺の携帯を持って外に出た。ってあれ? いつの間に、車に乗ったんだ? まぁいいや。あー、なんだか眠くなってきた。気持ちいいなぁ。 *  話し終えた時、俺はまた泣いていた。二人の前で泣いたのは、初めてかもしれない。栗花落さんが持ってきてくれたタオルで顔を拭いてると、夏生はふーっと息を吐いた。 「なるほどね……。マスターが話したがらなかったわけだ」 「……え?」  お猪口を空にして、夏生はもう一杯注いだ。 「お前がいきなり東京に戻ってきた理由、あの人に訊いたんだよ。そしたら、自分からは話せないの一点張りだった。お前が話したくなるまで待ってやれってさ。ま、確かにあの人が話すことじゃないわな」 「……悪い」 「いーよ。話したくなかったんだろ。こっちこそ、無理に吐かせて悪かった」  頭を下げられて、どうしたらいいか分からなくなった。……俺がしたのは絶対に気分のいい話じゃないのに、なんで夏生が謝るんだよ。こいつは、妙なところで気が良すぎる。  タオルを顔に押し付けると、波立っていた気持ちが少し落ち着いた。 「ヒロは、全部知っていて……それでも君を好きだったんだな」  タオル越しに、少し低くて耳に心地いい栗花落さんの声が聞こえる。 「……はい。俺も、それを知ってたから」  知ってたから、あの人を頼った。あの人の優しさに、甘えたくて。全部受け入れてくれると勝手に思い込んで。なにもかも、俺の身勝手だ。ガキみたいな我が儘だ。あの人はもう、別の誰かを好きになってたのに。 「なぁ、ほんとにそれだけ?」  突然、夏生がそんなことを言い出した。思わずタオルを取ると、猫のような目がじっと俺を見ていた。 「……なにが」 「ほんとに、マスターが事情を全部知ってたからってだけで、あの人のところに行ったのか?」  俺は頷いた。……なんで夏生がそんなこと訊くのか、分からない。 「今、俺達はお前の事情を全部聞いた。あの人と一緒だろ。でもお前は、ウチには来ない」 「……それは」 「一ヶ月くらいなら、ウチに泊まってってもなんの問題もない。部屋だって布団だって二つあるから、寝る場所だって困らないし少しの間なら遠慮する必要なんてない。でもお前は来ない。だろ?」  俺はまた、頷いた。夏生は真っ直ぐに俺を見据える。 「あの人じゃなきゃ、駄目なんだろ? そんだけ辛い時に、他の誰でもなくあの人を頼るくらい、あの人がいいんだろ?」 「……けど、もう」 「ああそうだ。あの人は、エリとかいうイギリス人が好きだって言ってた」  どくり、と胸が音を立てた。二週間以上前には分かってたことなのに、今になって気持ち悪くなるほど実感させられる。 「でも、もし今でもあの人がお前のこと好きだったら? そしたら、お前はどうしたんだよ」 「どう、って」 「あの人の気持ちに応えたのか? 応えなかったのか? ……もし応える気がなかったんなら、今からでも遅くねぇ。さっさとあの家から出ちまえ。そんで、ウチに来いよ」  夏生の目は、本気だった。栗花落さんもなにも言わない。 「その方がマスターのためだ。俺はそう思う」  マスターの、ため。後ろに置きっぱなしになっている、賃貸業者から貰った封筒を思い出す。出て行った方がマスターのためだと思って、たくさん貰ってきた書類。ちょっと大学からは遠いけど、安い物件。……あの人の家の、近くにある物件。  俺は本当に、あの人から離れたかったのか? あの人の気持ちに応えたくなかったのか? 「……分からない」 「なにが?」 「分からないんだ。……これが」  この、もやもやして、はっきりしない気持ちが。 「……これが好きなのかどうか」  言葉にすると、ひどく虚ろだった。俺の中から失われたはずの感情は、声に出しても形にならない。 「恋なんてもう、できない。誰も好きになれないし、誰にも好かれなくていい。……母さんと妹がいてくれればそれで、って思ってた、から。……好きになれるはずないんだ。俺が、誰かを……、好きになるはず、ない」  言った後で、恐る恐る夏生の顔を覗いた。  俺よりもずっとはっきりした好きの形を持ってる夏生は、ひどく優しい苦笑を浮かべていた。 「……なぁ、忍。そんなの決めつけんなよ。もっと簡単に考えろ。いろんなこと取っ払ってみろ。エリのことも、……家族のことも。全部全部取っ払って、頭ん中空っぽにして、あの人と自分のことだけを考えてみろよ」  ぐっと、夏生が顔を近付けた。深い色をした黒目が、じっと俺を見上げる。その目の中に、泣きそうな俺がいた。 「恐がらずにちゃんと向き合ってみろよ、自分の気持ちと。じゃなきゃ、いつまで経ってもそのもやもやしたのがなんなのか、分かんないまんまだぞ?」    それから俺は、「とりあえず今夜は飲め」と言われて日本酒を何杯か空けた。夏生の言うとおり口当たりが良くて飲みやすい酒だったが、元々あまり飲めない俺は早々に音を上げてしまった。それでも、胸にずっとつかえていたものが取れた気がして、気分はすっきりしていた。 「俺も、お前に言ってなかったこと話そうかな」  突然、ぽつりと夏生は呟いた。栗花落さんが、気遣わしげな目で夏生を見る。 「言ってなかったこと?」 「ん。俺も、家族のこと」  俺の倍は飲んでいるのにほとんど顔色が変わらない夏生は、またお猪口を一口した。 「妹がいる、って話したよな」 「ああ、言ってたな」 「……母親がさ、違うんだよ。俺の母親は……俺が産まれてすぐに、いなくなったから」  見たことがないほど悲しげな目で、夏生は笑った。いなくなった、って……。 「離婚、か?」 「んー……。父親の話だと、あっちの親が許さなかったかららしいけど。デキ婚で、中絶が嫌だったからって駆け落ちっぽいことしたんだと。けど、俺が産まれてすぐに、母親は実家に戻ったってさ」 「すぐ?」 「そ。……ま、結局は母親が父親の方の家族とそりが合わなかったってのもあったらしくて。そんで、俺を置いて出てったんだと。親父はそれからしばらくして、別の人と結婚した。それが、今の母さん。妹の母親」 「……普通、母親ってのは産んだ子どもに執着するもんじゃねぇのか。夏生も一緒に連れていくならまだしも……」  そっと、夏生は目を伏せた。お猪口を空にして、ことりとテーブルに置く。 「ま、色々あったんじゃね? 俺も、詳しくは聞けてない。……それにもう」 「そう、だな」  夏生は、栗花落さんとのことを家族に話した時に、勘当されてるんだった。聞こうと思っても、聞けない。 「ま、聞いたからって俺が変わるわけじゃねぇし?」 「そうだな。……お前は、そう簡単に変わらなそうだし」 「だろ?」  ふと栗花落さんを見ると、ひどく優しい顔で夏生を見つめていた。……見守ってる、って言った方がいい気もする。夏生にどんなことがあったって、この人はきっと、こんな風に優しく見守り続けるんだろう。少し、夏生が羨ましい。 「……ん? おい忍」 「なんだよ」 「携帯、光ってね?」 「……あ」  言われて初めて気付いた。マナーモードにしてポケットに突っ込んでいた携帯が、ぎらぎらと光ってる。この長さは、メールじゃない。……もしかして、また。 「忍? 出ねぇの?」 「上風呂くん……大丈夫か?」  栗花落さんに言われて、俺はようやく自分の手が震えていることに気付いた。全身に鳥肌が立ち、指先すら動かせなくなる。 「忍、ほんとに大丈夫か? おい!」 「昼、……兄貴から、電話、あって、だから」  言葉が、ぶつ切りになる。唇も震える。携帯はまだ、光っている。……くそ、止まれ! 「ちょっと我慢しろよ」 「……え」  言うが早いか、夏生は俺のジーンズのポケットに手を突っ込んだ。途端、不快感が背筋を走っていく。 「やめ……!」 「わっ!」  堪らず振ってしまった俺の手を避けて、夏生はなんとか俺の携帯を取り出した。 「わ、悪い」 「いーって。それより、これマスターからだぞ」 「え?」 「ヒロから?」  頷いた夏生は、携帯を俺に突き出してきた。着信は、まだ続いている。 「俺達のことはいいから、出てこいよ」 「……けど」 「いいから! ちゃんとあの人に話してみろ。自分の気持ち」  話してみろって言われても……、今は、駄目だ。あの人、は。 「あの人、今……エリさんと飲んでる」 「知ってる」  今……なんて、言った? 「なんで!」 「後で話す! ほら、早く出ろ!」  夏生は俺の返事も聞かず、携帯を開いてボタンを押ず。押し付けられるままに受け取ってしまった携帯を、俺は恐る恐る耳に当てた。ごくり、と唾を飲み込む。 『もしもし?』  響いたのは、聞いたことのない声だった。……マスターの携帯なのに、なんで? 『……あんたハンが、ブロくん?』 「そう、ですけど……。どちら様、ですか?」  関西弁にしても、奇妙な発音だった。もしかして……この人が。 『エリック言います。ヒロのツレですネン』 「……エリ、さん?」 『おー、知ってハッタ? 話早いワ。今、どこオンの?』  エリック。……エリ。この人が、マスターの好きな人……! 『もしもし?』 「あ、はい」  いつまで経っても返事ができない俺に、エリさんは痺れを切らしたようだった。 『ウチら、ヒロの店の前ヤネン。ブロくんどこオンの?』 「え……、夏生の、あー……、そっから十分くらいの距離にある、知り合いの家です」 『夏生? 夏生もオンの?』  なんで、夏生の名前知ってんだ? 夏生もエリさんのこと知ってるし……。いや、今はそれより。 「あの、どうかしたんですか……?」 『ヒロ、潰れてモーテ。迎え来タッテくれヘン?』  潰れた? 確かに酒にはそんな強くないけど、自分のペースが分かってる人だから、今まで潰れたことなんて一度もなかったのに。 『ずーっと、あんたハン呼んで泣いてンデ。はよ来タッテ』 「え、あ……はい」  俺を呼んで泣いてる? マスターが? どうして。 『ホナ頼ンますワ!』 「あ、ちょ……! 切れた」  高い音を立てる携帯を耳から離し、俺はとりあえず立ち上がった。突然立った俺を見上げる二人に、頭を下げる。 「すいません、今夜は帰ります」 「ああ、聞こえたよ。ヒロのところへ行ってやってくれ」 「また来いよ。詳しいことはそん時だ」  俺が頷くと、二人も立ち上がって玄関まで送ってくれた。また頭を下げて家を出ると、逸る気持ちを抑えながらエレベーターに飛び乗る。  マスターが潰れるほど飲むなんて、なにがあったんだ? ……振られた、とか? その割には、俺の名前を呼んでるって……、どうなってんだよ、一体。  それに、あの人が泣いてるなんて。そんなマスター、見たことない。飲んでたって、特別泣き上戸になるような人じゃないはずだ。ほんと、どうしたんだ?  分からないことだらけのまま、俺はエレベーターを下りた。マンションを出て、蒸し暑い夜の街に飛び出す。  とにかく今は〈西風〉に……マスターのところに向かうしかない。 *  俺は、夢を見てた。三年前、ブロくんと出会った頃の夢だ。  暦の上では春になっていたとはいえ外はまだまだ寒くて、もったいないなと思いながら暖房を付けてた。約一週間後に控えていた開店の準備は順調に進んでたけど、張り紙を貼ったにも関わらずアルバイト希望の電話は一つも掛かって来てなかったなぁ。  最悪一人で回すしかないか、って覚悟し始めてたところ、店に来たのがブロくんだ。綺麗な目をした子。それが第一印象だった。取り立てて目が大きいわけでも、睫が長いわけでもないけど、意思の強そうな……それでいてどこか安心できる、真っ直ぐな目だ。  俺はその目に、一目惚れをした。三十路手前にして、初めての体験だった。 「表の張り紙、見たんですけど」  それが第一声だった。思ったよりも声は高めだったけど、少し掠れてた。多分、緊張してたんだろう。 「アルバイト希望?」  と言って一応確かめると、素直に頷いてくれた。即採用と言いたいところをぐっと堪えて、いくつか当たり障りのない質問を続けると、ブロくんはゆっくりだけど丁寧に答えてくれた。  そういえばその時、つーと同じ大学に通ってることと、住んでるのが店の上にある学生アパートだってことを教えてくれたんだっけ。  数日後、ブロくんに採用の連絡をしたのが、彼に掛けた初めての電話だった。 「よろしくね、ブロくん」 『ぶ、ブロくん?』 「上風呂だから、ブロくん。駄目かな?」 『……まぁ、いいですけど』  この時聞いたちょっと呆れたような声は、それから何度も耳にすることになる。  それからしばらくして、桜が咲き始めた頃。つーと半田くんが初めて店に来た。十三年前から胸の奥にずーっと仕舞いっぱなしにしていたつーへの想いは、あいつに片想いをしてた半田くんにその時預けた。もっとも、彼はそんなこと気付きもしなかったけどね。  それからずっと、俺はブロくんのことだけが好きだ。……ずっと、変わらない。想いはどんどん強くなって、自分でも抱えきれなくなってきた。  どうしたらいいんだろう? 俺は……どうしたら。 *  二週間ぶりにやってきた〈西風〉の前には、タクシーが停まっていた。その傍らには、ガタイのいい外国人の男が立っている。街灯の下で、金色の髪がきらきらと光っていた。最近、どっかで見たような。……思い出せない。  その人は、俺の足音に気付いてこっちに振り返る。あれが、エリ、さん? 「おー、アンタがブロくん?」  少し遠くから、ちょっと高めの声が響く。……発音、変だけど。 「……はい。あの……エリ、さん?」 「エリでエェよー」  人なつっこい笑みを浮かべたエリのところへ、俺は小走りに近寄った。身長は見上げたくなるくらい高い。百八十越えてる栗花落さんより、もっと大きそうだった。 「マスター……、ヒロ、さんは?」  どんな顔をしていいか分からなくて、俺はすぐに本題へ入った。 「中で寝てハルよ」  そう言って、エリは開きっぱなしになっているドアを指さす。中を見ると、目を腫らして鼻を真っ赤にしたマスターが寝転がっていた。……どんだけ泣いたんだよ、この人。 「エライ顔ヤロ? ブロくん、ブロくんって泣きっ放しヤッテン」 「……はい」 「アドレス帳、ブロくんで登録されてて助かったワ。ウチ漢字苦手ヤサカイ、夏生見つけられヘンかっテン」  マスターの携帯をタクシーの中に置いて、エリは頭を掻いた。ああ、それで俺に電話掛けてきたのか。 「ブロくん、ヒロの家知ってハル?」 「え……、あ、はい」  一緒に住んでること、知らないのか。……でも、エリがマスターの片想いの相手なら、知らせないのは当然か。 「ホナ、連れて帰っタッテ」  苦笑しながら、エリは優しい目でマスターを見下ろしていた。胸が、じくりと痛む。 「……エリ、は?」 「ウチ? 別のタクシー呼んで、ホテル帰るワ」 「あの、もし方向が一緒なら、途中まで一緒に」  寂しげに、エリは首を振った。なんでエリの方が、振られたみたいな顔してるんだろう……? 「ウチはアカン。ブロくんヤないと」 「けど、マスターはあんたが……!」 「全部、ヒロに聞いた」 「……は?」  聞いたって、なにを? マスターが、自分のこと好きだってことか? それとも、あの人と俺が一緒に住んでること? あの人が、しばらく俺のことを好きだったってこと?   訳が分かってない俺から視線をそらし、エリはまた優しい目をして、寝言を言っているマスターを見つめた。 「好きな子に、ウチが好きって嘘吐いた。けど、嘘はホントにならヘンかった。そういうこと」 「嘘、って……、でも、そんな」  嘘。……エリが好きだってことは、嘘? ヨリが戻りそうだってのも?   よく分からない感情が、また俺の頭を支配した。自分が喜んでるのか悲しんでるのか、興奮してるのか腹が立ってるのか分からない。……なんなんだ、なんで、俺は。 「……ブロくん……」 「マスター……?」  車の中のマスターは、不意に泣きそうな顔で俺を呼んだ。切なげに、苦しげに。 「はよ連れて帰ったリ? 運チャンもずっと待ってハンデ」 「でも、……俺、なにがどうなってんだか」 「……目ェ覚めたら、ヒロに聞いてみ?」  言いながら、エリはドアを閉めに掛かる。挟まれそうになった俺は、結局タクシーに乗り込んだ。でもすぐに、エリは窓を叩く。 「ブロくん」  パワーウィンドウを開けると、窓の向こうのエリは人差し指を立てて俺の顔を覗き込んだ。 「ちょっとだけ、ヒロにメッセージ頼むワ」 「……はい」  吸い込まれそうなくらい綺麗な青い目が、一瞬だけ泣きそうに歪んだ。……なんで? 「ウチ、結婚する。……ヒロに会って、決意できた。オーキニって」  は……? この人、今なんて言った? 結婚? 「……結婚、って……! あんたバイなんですか?」 「ふふ。別嬪の京女ヤデ。えーヤロ?」  一転して、エリは満面の笑みを浮かべた。でもその青い目は、暗闇でも分かるくらい潤んでいる。 「こないだ、プロポーズされテン。セヤケド決心付かヘンくて。ホンマはもっとはよヒロに相談しよ思てテンけど、切り出せヘンくてなぁ」  流れるようにそう言ったエリは、ひどく切ない目でマスターをちらりと見て、また笑った。 「なぁ、ブロくん。ヒロは、ウチのブラザーや。ホンデ、ベストフレンド。ヒロは、ブロくんのなんヤ?」 「なに……って」  前のバイト先の店長、居候させてもらってる年上の友人、頼りにできる人、いろんな言葉が浮かんで、消える。どれもこれも、しっくりこない。なにも言えない俺を、エリはひどく優しい目で見つめていた。 「……また会ウた時、教えてな!」  笑顔でバイ、と言って手を振り、エリは去って行った。……最後のはなんなんだ、一体。それに、また会った時って……。 「よろしいですか?」  馬鹿に丁寧な声が聞こえて、俺は我に返った。そういや、待たせっぱなしだったな……。  マンションの場所を告げると、ようやくタクシーは動き始めた。その間もマスターは後部座席のほとんどを占領し、ぐったりと寝そべっている。時々ぶつぶつと寝言を言っては、ぐすぐす泣いていた。……どんな夢、見てるんだろう?  寝汗で濡れた前髪に、恐る恐る触ってみる。触られる時と違って、逃げ出したくなるような不快感はなかった。代わりに、言いようのない想いがどこからともなく溢れ出してくる。 「……嘘吐き」  エリが好きなのも、ヨリを戻そうとしているのも、嘘だった。腹が立っているはずなのに、俺はマスターを怒る気にはなれない。……どうしてだ?  そっと、睫を触ってみた。思ってたより濃い。頬を指先で辿ってみる。少し痩けてた。髭は少ない上に、丁寧に剃られてる。毎朝剃ってるわけじゃないみたいだけど……。  触れれば触れるほど、言葉にならない想いが強くなった。……どうしていいか、分からない。こんな気持ち、知らない。忘れたはずだ。こんな風に誰かに触れたい、なんて。あの悪夢のような日々から今まで、一度だって思ったことなかったのに。  脈が速くなる。クーラーが効いてるのに、暑い。無性に恥ずかしくなって、俺は手を離した。マスターは相変わらず、泣きながら寝言を言っている。  マンションまで、もうすぐだった。  マンションについても、マスターは起きる気配がない。仕方なく、料金を払ってからマスターを担いでタクシーを降りた。随分と久し振りに感じるシャツ一枚隔てただけの他人の熱は、燃えるように熱い。そのくせ、俺の背中は誰かに触れられた時のように冷えていた。できるだけ余計なことを考えないように、ぐったりした体を支えることに集中する。  俺よりだいぶウェイトがあるこの人は、ちょっと痩せたとはいえ肩で担ぐにはかなり重い。やっとの思いで部屋に入った時には、少しの距離なのに息が上がっていた。  玄関で一休みしてから、ベッドまでまた担いでいく。酒の匂いとマスターの匂いが、急に気になった。……余計に、息が上がる。  どうにかマスターをベッドに横たえてから、俺は水を取りに行った。震えてたり吐きそうだったりしてるわけじゃないから大丈夫だとは思うが、急性アルコール中毒に備えて水を飲ませておいた方がいい。大学生活ですっかり染みついてしまった酔っ払いの世話を焼く癖は、まだまだ抜けそうになかった。 「……マスター」  駄目元で、声を掛けてみる。うぅん、と唸って、マスターは俺に背を向けた。……ひどく、虚しくなる。 「マスター、起きてください。水、飲んだ方がいいです」  声を掛けるだけじゃ、駄目か……。全く反応しない背中を見つめ、俺は再びマスターに触れた。さっきまで担いでいた肩は、少し荒い呼吸と共に上下していた。それを、やや乱暴に揺する。 「起きてください、マスター!」  大声を出したら、ようやくマスターは反応した。ゆっくりとこっちに寝返りを打ち、焦点の定まらない目で俺を見上げる。見たことないほど、無防備な顔だった。  そしてマスターは、ふやけるように笑った。 「あぁ……、夢、か。……なんて、都合のいい……」 *  とても、都合のいい夢を見ていた。ブロくんが俺に寄り添ってくれて、ベッドまで連れて行ってくれた。心配そうな顔で、俺を見つめてくれる。何度も、俺のことを呼んでくれる。ひどく、優しい声で。……なんて、都合のいい夢なんだ。  俺は、君のことを思い切り傷付けているのに。これ以上傷付けないためだなんて思いながら、君を偽り続けてるのに。夢の中の君は、それでも優しい。ありがとう、って、言わないと。それに、……謝らないと。  ……ごめんな。好きになって。ごめんな。勘違いさせて。好きになっちゃいけなかったんだよ、お互いに。だから、こんな気持ちは、捨てなきゃいけないんだよ。俺も、君もね。  ……不思議そうな顔、するんだな。でも、そうだろう? 君は、お兄さんに心も体も傷付けられた。薬がなきゃ眠れないほど、……誰かに触られるのが耐えられなくなるほど、深い傷だ。そんな傷を付けた相手と同じ男を好きになったって、君の傷が深くなるだけだろう? そんなこと、君が一番よく分かってるはずだ。  だから君が俺を……、男を好きになるなんて有り得ない。辛い時に俺が優しくしたから、勘違いしてるだけだ。感謝と好意を履き違えてるんだよ、君は。  君のこと好きかって? 当然だ。……好きだよ。大好きだよ。どうしようもないくらい。ごめん、諦められなくて。君を傷付けることしかできないことくらい分かってるのに、君が好きなままで。どうしたらこの想いを捨てられるか、分からないんだ。  君が東京に戻ってきた日からずっと、……いや、三年前、君が俺の気持ちに応えられないって言った日から、ずっとずっと捨てようと思ってた。でも駄目なんだ。忘れようと思っても、君の目を見たらまた好きになってた。その繰り返しだ。三年間、ずっと。  地獄みたいだった。でも、幸せだった。馬鹿みたいだよな? 苦しいのに、嬉しいなんてね。駄目だって分かってるのに、好きになるなんてさ。ほんと、馬鹿みたいだ。君のためを思うなら、こんな気持ちさっさと捨てなきゃいけないのに。  いい加減、ほんとに捨てなきゃいけなかったんだ。だから、嘘を吐いた。……君にも、自分にも。たまたまエリが電話をくれたからってだけで、あいつを巻き込んだ。エリまで、傷付けた。どうしようもないよ、俺は。  ……なんで、そんなこと知ってるんだ? ああ、夢だからか……。はは、そうだよ。俺、エリを好きになれなかった。ううん、嫌いな訳じゃない。あいつのことも、ちゃんと好きだった。けど……、あいつに抱き締められた時、嘘でもあいつに好きって言えなかった。振り返って抱き返そうとしたのに、できなかった。君の顔が思い浮かんだんだ。そしたら無理だった。俺が好きなのは、やっぱり君だったから。  ごめんな。……泣かせたい訳じゃ、ないんだ。でも……、ごめん。  手を伸ばして、涙を拭ってあげたいのに、俺の体は言うことを聞いてくれなかった。夢の癖に、なんで俺の思うとおりになってくれないんだろ。……ああ、でも、それも夢らしくて、いい、か……。 *  この人はどうしようもない馬鹿だ。どうしようもないマゾで、どうしようもないお人好しで、どうしようもないエゴイストだ。  見て見ぬふりなんかできない癖に自分の想いを無視して、俺のためだと言いながら自分を追い詰める嘘を吐いて、結局自分で巻いた鎖に雁字搦めにされてる。 「……馬鹿ですよ、あんた」  声が震える。寝ぼけながら「泣かせたい訳じゃない」なんてほざきやがった男は、また謝ってきた。息が少し荒い。酒の匂いが口から漏れてる。 「大馬鹿だ。どうして、俺になんにも言わないんですか」 「……言っても、苦しいだけ、だろう?」  寝言みたいな不安定な声が、とぎれとぎれに漏れた。 「今まで、どれだけ俺が苦しかったか知ってますか? 知ってるんでしょ? あんたはいつだって、俺の機嫌には敏感でしたからね」  もう震えてもかまうか。……苛々、してきた。 「あんたの帰りが遅い夜、俺がどんな気分で夕飯食ってたか分かりますよね? 酒の匂いさせたまま帰ってくるたびに、俺はあんたとあんたの好きな誰かが一緒にいたんだと思って、泣きたくなるほど嫌だった。そんなことだって、お見通しでしょう?」  ぽかんとしたまま、マスターは俺を見上げていた。 「あんたのせいで精神安定剤何錠飲んだか知ってますか? あんたに隠れて、何回泣いたか知ってますか? 知ってますよねそんなこと!」  叫んだ拍子に、涙が飛んだ。マスターの頬に落ちて、この人の涙と一緒になる。 「あんたは……、どうしてそうなんだ。どうして、俺のことばっかり考えてんだ。俺の気持ちを無視する癖に!」  握り締めたベッドのシーツが、ひどい皺を刻んでいた。 「……俺が、男のあんたを好きになったら苦しいだけ? 辛い時に優しくしたから、勘違いしてるだけ? ふざけんな! 勘違いでこんなになってたまるかよ!」  別の誰かと一緒にいるのを想像しただけで、辛い。愛されてたのが昔のことだって思っただけで、泣きたくなる。作った飯を見て喜んでくれただけで、ずっと作りたくなる。出て行こうとしても、離れる気になれない。  知ってる。俺は、この感情を知ってる。ずっと忘れてた。……いいや、ずっと気付かないふりをしてた。忘れたふりをしてた。そう思い込んでいれば、辛い思いをしなくて済むと勘違いして。  でも駄目だ。どっちにしろ、苦しいんだ。……それなら俺は、自分の気持ちを優先する。夏生の言うとおり、自分の気持ちと向き合う。  俺は、この人が。 「あんたが、好きだ」  指先を、伸ばす。濡れた頬に触れる。指先は頬を滑って、首に回る。顔を近付ける。熱い。酒の匂いがする。マスターの匂いもする。ぐったりしている体とベッドの間に、腕を差し入れる。中肉中背の体が少しだけ持ち上がる。両腕を背中に回す。自分の頬を、ゆっくり上下するマスターの胸にくっつける。熱い。……心地いい。  誰かを抱き締めたのは、いつ以来だろう? 「……ほんと、都合のいい、夢。……二回目だ」  耳元で、譫言が聞こえる。それきり、マスターはまた寝息を立て始めた。汗と酒の匂いがひどいのに、俺もなぜか眠くなってきた。  ……安心、する。マスターの近くは。……マスター……。
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