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第三章
八月四日 日曜日
朝日が眩しい……。頭がガンガンするし、暑い。うぅ……、気持ち悪い……。完璧、飲み過ぎた。汗で体ベタベタだし……。なんか目も痛いし……。
シャワー、浴びよう。とりあえずそれからだ。あー、ワックスも取ってない。頭皮が……。
「……あれ?」
なんか重いなぁ。て、え…………!?
「ぶ、ブロくん……?」
……待て。落ち着け。よーく思い出せ。俺は昨夜、どうやって家に帰ってきた? どうやってベッドに入った? どうして、ブロくんと一緒に……!
だ、駄目だ思い出せない。全部ばれちゃったからってエリに散々愚痴って、飲めもしないウィスキーを何回も飲んだことしか覚えてない。あ、ブランデーも飲んだ。それと、エリが最近ようやく飲めるようになったとか言って持ってきた、カップ酒もちょっと。それに、残ってたカシスリキュールも。確か、紅茶と割ったら美味しいとかエリが言い出して……。あー、駄目だ。飲んだ酒は覚えてるけど、後のことはなんにも思い出せない!
「も、もしもし、かみぶろさん……?」
恐る恐る声を掛けてみた。ブロくんは一瞬だけ眉を顰めてから、ゆっくり目を開ける。真っ黒な目に、光が差した。
「……おはようございます」
至近距離で、細い声が聞こえる。それだけで、情けないことに心臓がうるさい。
……ブロくんは、眩しそうに笑った。
こ、こんな笑顔、いつぶりだ……? いや、そんなことより、聞かなきゃいけない、よな?
「あ、あの……、あのさ。俺、昨夜のこと、覚えてないんだけど……」
どうしてそこで目を逸らすんですか、かみぶろさん……!
「ごめん、俺、なんかした? その、なんて言うか、状況が、掴めなくて……」
目を伏せるブロくんは、色気すら漂わせている。……気がする。えーっと、これはやっぱり、俺がうっかりしたことを……? いやいや、それならブロくんが……こんな顔するわけない。
なにを言うべきか分からない俺を置いて、ブロくんは起き上がった。軽く背中を伸ばしてから、ベッドを下りる。
「別に、なんにもしてませんよ。それより、シャワー浴びてきてください。その間に朝飯作っときますから」
「え、いやその」
「汗くさいですよ、マスター」
呆れたような声だった。いつも聞いていた、あの声だ。……まるで三ヶ月前に戻ったような錯覚が、俺の頭を支配する。どうなってるんだ、一体……?
「二日酔いしてますよね。粥とかの方がいいですか?」
「あ、はい……」
言いながら、ブロくんはシャツを脱ぎ捨てた。薄い傷跡の残る、白い背中が露わになる。ああもう、ほんと朝から心臓に悪い……。
とにかくシャワーを浴びてしまおう。そしたら、ちょっとくらい落ち着ける、はずだ。
「ああ、そういえば」
え、やっぱりなんかあるの? 昨夜のこと? 聞くの恐いです。勘弁してください。心の中で叫んでみたけど、新しいシャツに腕を通したブロくんは、俺のことなんかお構いなしに続ける。
「エリ、結婚するそうですよ」
「はぁ!?」
「お相手は京美人だそうです。このあいだプロポーズされて迷ってたけど、マスターに会って決心ついたって」
ちょっと待ってくれ、エリとブロくんが会ったってこと? っていうか結婚とか! しかも女の人? あいつ、バイだったの? あいつにとって俺ってなんだったの? え、ちょ、無理!落ち着けない! 全く落ち着けない!
「さっさと入らないと、一緒に入りますよ」
「は、え、あ、はいごめんなさい」
やれやれと言わんばかりに溜息を吐いてから、ブロくんは台所へ向かった。……って、さっき聞き捨てならないこと言わなかった? 聞き捨てちゃったけど!
でも、お粥の準備を始めたブロくんに話し掛ける勇気もなく、俺は結局シャワーを浴びることにした。……ほんとに、どうしちゃったんだろう……?
*
顔が勝手に赤くなる。目が覚めてから、自分が相当恥ずかしいことをしたような気がしてきた。マスターの顔がまともに見られなくて、ずっと背を向けっぱなしだった。
けど、これで良かったんだ。俺はあの人と一緒にいたい。どうしようもないところもあるけど、ひどく優しくてどこまでも俺のことを想ってくれるあの人と。
昨夜マスターに触れた指先を握り締め、目を閉じた。あの人の熱を、思い出そうとして。
……でも、俺の頭に浮かんだのはマスターじゃなかった。
熱が押し付けられた。口を大きな手が覆う。もがこうとしたら、鼻まで閉じられた。息ができない。熱い。頭がぼんやりする。パジャマ……俺、パジャマなんて着てたか? ああそうだ。あの頃、ずっとパジャマで寝てた。俺も、兄貴も。
そうだ、俺と兄貴の二人部屋だった。勉強机が並んでた。よく、分からないところを教えてもらってた。自分の受験もあったってのに、兄貴は俺の勉強を見てくれてた。あの人は勉強もできるし、ひょろひょろしてる俺と違って体格も良くて、運動神経も良くて。自慢の兄貴だった。
あの日、までは。
その日の夜は親父がいつも以上に酔ってた。仕事から帰ってきた母さんは、早々に俺と妹を部屋に押し込んで一人であの人の相手をしてたんだ。時々、酷い罵声が聞こえて、母さんの悲鳴も混じってた。恐くて、なんにもできない自分が情けなくて、俺はベッドの中で泣いてた。二段ベッドで、俺は下だったっけ。
兄貴が帰ってくれば、親父の乱暴も少し収まるのに。そう思ってた。親父は兄貴にだけは甘かったから。顔も体格も自分に似てて、優秀な、長男の兄貴にだけは。
そうこうしてる内に、親父が静かになった。ようやく寝たのかと思って、ホッとした。でも、また下から物音がして。まだ母さんは殴られてるんだろうかと思うと、罪悪感でいっぱいになった。でも、出て行けなかった。行けばひどく殴られる。それだけならまだいい。俺や妹が殴られた後は、必ず母さんがもっとひどく殴られる。お前の躾が悪いんだとか、お前の教育が下手なんだとか、勝手なことを言われて。俺は母さんを助けることもできない臆病者で、母さんを余計に追い詰めることしかできなかった。俺は、兄貴とは違う。親父に認めてもらえない、駄目なヤツだった。
しばらくして、兄貴が帰ってきた。……そうだ、あの日は兄貴の高校の卒業式で、部活の後輩に送別会をしてもらってたあの人は帰りが遅かったんだ。ホッとした。やっと、帰ってきてくれた。
けど、あの人は、部屋まで戻ってから……!
*
「ブロくん? ブロくん!」
浴室を出たら、台所でブロくんが立ち竦んでいた。体が震えていて、目の焦点は合ってない。頭の痛みも忘れて、俺は彼に駆け寄った。
「どうした!? ブロくん!」
駄目だ、聞こえてない。何回呼んでも、ブロくんは唇を震わせるだけだった。……仕方ない。
「……ごめんな」
平手で、頬を打った。高い音が響く。ブロくんの肩が、一際強く震えた。それから、ゆっくりと目の焦点が合う。怯えた目が、ようやく俺を見てくれた。
「マスター……」
「落ち着いた?」
頼りない目をして、ブロくんは頷いた。今にも涙がこぼれ落ちそうで、見ていられない。でも、ここで目を逸らしちゃいけない。
「もしかして、お兄さんのこと思い出してた?」
目を伏せて、ブロくんはまた頷いた。頬を一筋の涙が伝っていく。
本で読んだことがある。虐待の被害者は、ふとした瞬間に虐待を受けていた時の記憶がフラッシュバックすることがあるらしい。しかも、今まさに体験しているような臨場感で。似たような状況や場所に近付くと起こりやすいとか書いてあったけど……。
「休んでて。お粥は作っとくから」
「……でも」
「いいから」
少し悩んでから、ブロくんは頭を下げて部屋に戻った。……見ていられないほど、肩を落としてる。
……お兄さんのことを思い出してしまったのは、俺が原因なんじゃないだろうか。昨夜、なにがあったかは知らないけど、やっぱり俺は彼の傷を開いてしまうようなことを……?
もう、聞くのが恐いとか言ってられないな。ちゃんと昨夜のことを聞いて、彼に謝らないと。記憶が飛ぶほど酔ってたなら、ろくなことしてないだろうし。
……うぅ、気持ち悪い。作ってる時は辛うじて大丈夫だったけど、やっぱ食べるのは無理だった……。吐きそう……。何年振りだろ、こんなに気持ち悪いの……?
「……マスター、大丈夫ですか?」
「はは、うん、平気」
ブロくんに心配されてどうするんだよ……。あー、もう、駄目だなぁ……。
「薬、買ってきましょうか?」
「ただの二日酔いだから、時間が経てば治るよ。……多分」
上手く笑えてる自信はない。けど、できるだけ心配を掛けないよう、平気な振りをしてみた。でも、彼には全く通用してない。
「せっかく休みなのに、一日中寝てる気ですか? ったく」
呆れ顔で、ブロくんは立ち上がった。
「いいってば! う……」
自分の声で頭痛くなるなんて……、ほんと、昨夜どれだけ飲んだんだよ俺は。情けない。自分の限界が分からない歳じゃないのに……。
「コンビニ行ってきます。マスターは寝ててください。お粥、ラップ掛けときますね」
「待って。付いていくよ……」
足元がふらふらするけど、仕方ない。今の彼を一人にする方が不安だ。
「……俺なら大丈夫です。さっきのは、たまたまですから」
「偶然でも、あんな風になるかもしれないなら一人にはしとけないから」
財布と鍵、あと携帯をジーンズのポケットに突っ込んで、俺は出かける意思表示をした。ブロくんは少し迷ってから、なにも言わずラップを取りに行く。
お粥にラップを掛けて冷蔵庫に入れてから、俺達は部屋を出た。
外に出て気付いたけど、もう昼に近かった。太陽が真上から思いっ切り照らしてくる。あー、気持ち悪い。少し陰ってくれないかなー。
せっかくシャワーを浴びたのに、俺の体はまた汗くさくなり始めている。その臭いですら気持ち悪い。コンビニまで耐えられるのかな、俺。
「……そういえば」
蝉の合唱の中で、ブロくんがぽつりと呟いた。
「初めてですね。二人で買い物行くの」
「あぁ……、そう言えばそうだっけ」
痛い頭をフル稼働して、記憶を掘り起こしてみる。確かに、二人でこんな風に買い物へ行くのは初めてかもしれない。誰かの家で飲み会をやっても、買い出しは基本的に半田くんと俺だったもんなぁ。酒を選びたがるのが俺達だったってだけだけど。荷物持ちは見た目の割に力のあるつーに頼むことが多かったし、ブロくんはいつも部屋に残って料理してたっけ。簡単なつまみの作り方も色々教えたなぁ。あー、懐かしいけど頭痛い。
「今度、飯の買い出しにも付いていっていいですか?」
「え? あ、ああ、いいよ」
……な、なんで今更そんなことを? 今までずっと任せきりだったのに。……これじゃまるで、本格的な同棲じゃないか。
「あと、給料入ったら生活費出します」
「はい!? ……ったぁ……」
また自分の声で頭痛くなった……。ってか、生活費って。
「そんな、いいよ。引越にお金掛かるだろう?」
ブロくんが、真っ直ぐな目で俺を見据えた。意志の強い、あの目で。
「引越、したくありません。……一緒に住ませてください」
立ち止まったブロくんは、深々と頭を下げた。おかげで、彼の表情が見えない。……ああもう、こんな予感ばっかり的中するよ……。
「……最初に言ったけど、うち単身者用のマンションだから。あんまり長い間二人で住むわけには……」
ぴくりと、ブロくんの肩が少しだけ揺れる。ゆっくりと、顔を上げた。
「迷惑になりそうなら、すぐ出ますから。……お願いします」
……なんでそんな悲しそうな顔で、この子はこんなことを言うんだろう? ……断らなきゃいけないのに、その術を失ってしまった俺は上手い言い訳を思い付けなかった。
「一人に、なるのが」
蝉の声に紛れて、消え入りそうな細い声が届いた。
「……恐いんです。だから」
「分かった、分かったよ」
断れるわけ、ない。……俺はいつだって、彼の目に弱いんだ。こんな目でお願いされて、無碍にできるはずない。
「好きなだけいればいい。けど、……もし」
思い浮かんでしまった仮の未来が、胸の奥で嫌な音を立てる。でも俺は、続けた。できるだけ声が震えないように。
「もしも、君が隣にいてくれる誰かを見つけたら、その時は必ず出て行くんだよ?」
君の傷を癒してくれる、優しい女の子と出会えたら。それはきっと、俺にも嬉しいことだから。……きっと、心の底から祝福できるから。だから、その時は迷わず、俺のところから出て行って欲しい。
俺の嘘がばれてしまった以上、そう言う他に彼の気持ちを逸らす手段が思い浮かばなかった。
「……分かりました」
すっと目を逸らして、ブロくんは抑揚の少ない声で言った。
「ありがとうございます」
ひどく、寂しげに微笑む。……どうしてなのか、俺には分からない。いや、分かりたくないんだろうな。
俺達はまた歩き出した。頭痛は少しだけ楽になったけど、気分は晴れない。……青空が、ひどく憎たらしかった。
*
隣にいてくれる誰かを見つけたら、か。……あんたに隣にいて欲しいって言ったところで、この人は素直に頷いてくれないんだろうな。それならそれでかまわない。俺は、この人が素直になるまで居座るだけだ。
昨夜のことが、俺に小さな自信をくれていた。そして、一抹の寂しさも。……この人の頑なさがなくなるのは、いつなんだろうか。今考えたところで、答えなんか出ない。分かっていても、考えずにはいられなかった。
二人して黙り込んだまま歩いている内に、コンビニに辿り着いちまった。入り口へ向かいながら、隣のマスターを窺う。
「薬の他に、なんかいります?」
「んー……、水かな……」
クソ暑いってのに、青い顔のマスターは呟いた。さっきから受け答えこそまともだが、顔色はずっと悪いままだ。こんなにひどい二日酔いをしたこの人は、初めて見た。
自動ドアが開くと、気持ち悪いくらい冷えた空気が流れてくる。流行りの曲が流れているのを聴きながら、俺は薬や健康ドリンクのコーナーへ向かった。更に冷たい空気に包まれたそこに着き、思わず身震いしてしまう。
「……どれがいいですか?」
「うーん……、飲みやすいやつ、なんてないよね……」
渋い顔をして、マスターは呟いた。甘党のこの人は、苦いものや辛いものが苦手だ。俺はあんまりこういうのの世話になったことはないが、周りの連中の話だと基本的にはどれもこれもある程度は苦いらしいし、この人にとっては全部飲みにくいかもしれない。
「粉薬はないのかな。あっちならまだ……」
ぼやきながら、マスターは辺りを見回す。すぐに粉薬や錠剤のコーナーを見つけて、ふらふらとそこへ向かっていった。
「先に水取ってきます」
「軟水お願いします……」
呻くように言ってくるマスターに手を振って、飲み物のところに行った。ついでに、俺もなんか買おう。ここまで歩いただけで喉が渇いた。……体力、落ちてんなぁ。
ミネラルウォーターとソーダを取ってマスターのところに戻ったら、あの人はまだ悩んでいた。顆粒と錠剤で迷っているらしい。しゃがみ込んで薬を見比べてる。
「錠剤の方がいいんじゃないですか?」
「え? うーん、でも顆粒の方が効きそうじゃない? なんとなくだけど」
「飲みやすいのは錠剤の方でしょ。」
「そうだねぇ……。じゃ、こっちにしようかな」
マスターが手にした薬を横から奪い、俺はレジへ向かった。
「ちょっと、いいよ別に」
慌てて立ち上がったマスターは、立ちくらみでふらふらしてる。
「ついでです。マスターは先に出といてください」
あの人がなにか言う前に、俺はレジに商品を出した。渋々外に出て行くのを横目に、さっさと会計を済ませる。
店を出ると、出口の傍にあるゴミ箱のところに突っ立っていたマスターが手を差し出した。
「レシート、ちょうだい」
「いつも、世話になってる分ですよ。気にしないでください」
「気にするよ……」
「見栄張らなくてもいいじゃないですか。それより、さっさと飲んでください」
釈然としない顔のまま、マスターは俺が押し付けたペットボトルと薬を受け取った。思い切り嫌そうな顔をしながら薬を口に入れて、水で一気に流し込んでる。……風邪薬を飲みたくない子どもみたいだな、と思って、俺はつい笑ってしまった。
「……笑わなくても、いいじゃないか」
「すいません。……落ち着いたら、帰りましょうか」
渋い顔をしたマスターは、小さく頷いた。どこか子どもっぽいこの人の表情に、俺は笑いが止まらない。
とうとう声を出して笑い始めた俺を見て、マスターは最初こそ拗ねていたが、結局は一緒に笑ってくれた。
……なんだか無性に泣きたい気分になりながら、俺はそれを誤魔化すよう余計に笑った。
*
部屋に戻る頃には、気分がだいぶ良くなっていた。薬のおかげもあるけど、久し振りに彼の屈託のない笑顔を見たからっていうのもある。
冷えたお粥を温め直して食べ終わると、ブロくんは皿を片付けて洗い物を始めた。水音と一緒に、鼻歌が聞こえてくる。うーん、なんだかすっかり上機嫌だなぁ。
「手伝えること、ある?」
「いえ、ありがとうございます」
カーテンの向こうに顔だけだして訊いたら、ブロくんは首を振ってそう言った。すぐに視線を皿に落とした彼の横顔を、じっと見つめる。
「どうしたんですか?」
視線を下に向けたまま、ブロくんは訊ねてきた。その柔らかな表情を崩してしまうかもしれないと思いながら、俺は恐る恐る口を開いた。
「……あの、さ。昨夜、なにがあったか教えてくれる?」
「なにって……。エリさんから電話があって、酔ってるあんたを俺が迎えに行ったんですよ。あの人、家がどこにあるか分からなかったから」
平然と言ってるけど、大事なところに触れてませんよね、かみぶろさん……。言いたくないのかなぁ、やっぱり。……でも、訊かないと。
「それと、その……、なんで、一緒に……寝てたの?」
ブロくんは蛇口を捻って水を止めた。横顔が、冷たくなった気がする。
「俺が、隣で寝たかったからです」
こちらに向けられた真っ直ぐな目が、俺を貫いた。怒っているのでも、責めているのでもない、ただ強い意志を秘めた目だった。
次の言葉が出てこない俺を、ブロくんは黙って見つめていた。目を逸らすことも、閉じることもできない。その目に、囚われる。
どうして、と訊けない自分が嫌だった。彼の気持ちなんてとっくの昔に分かってる癖に、それを言葉にされるのが恐い。決定的な答えを出されたら、俺はもう……、彼を傷付ける道しか選べなくなる気がした。
「……給料入ったら、布団や枕、買いに行きます。それまで、一緒に寝ていいですか? やっぱり、座椅子だときつくて」
ブロくんは表情を和らげて、不意にとんでもない提案を出してきた。いや、ほんと、勘弁してください……。
「それなら、俺が座椅子に……」
「駄目です。あんただって毎日あんなところに寝てたら体が保たないでしょ? 俺よりも働いてるんですから、体はちゃんと気遣ってください」
「はい……」
ぐうの音も出ない……。ほんと、前の調子をすっかり取り戻してるなぁ。
「マスターの隣は」
ブロくんは柔らかく笑った。
「落ち着きます。……昨夜だって、薬なしで眠れた。だから、隣で寝させてください」
「う、うん……」
こんな、無防備な顔をする子だったっけ? いつだって気を張って、きつい目で周りを見回して、しっかりした言動をしていたのに。……ああもう、心臓がうるさい。
こんな調子で、俺はまともに一晩越えられるんだろうか?
八月十日 土曜日
ブロくんが俺の隣で寝始めて、そろそろ一週間が経つ。俺は元々寝付きがいい方だから、最初こそ変に緊張したけど、眠ろうと思えば案外眠れた。
ブロくんはと言えば、やっぱり眠りにくいことには変わりがないようで、相変わらず睡眠薬のお世話になっている。けど、精神的にはかなり落ち着いている、らしい。この間のようにフラッシュバックが起きることもなく、穏やかな日々を送っていた。
予想していたよりずっと、平穏な日々。このまま、彼との生活を続けたくなっている自分に、俺は必死で目を逸らした。ブロくんはそんな俺を見て、時々ひどく寂しそうな顔をする。俺は結局のところ、どっちに転んでも彼を傷付けることしかできないらしい。でもそれなら、できるだけ傷付けない方を選びたい。
店で毎日顔を合わせる半田くんは、ブロくんと連絡を取っているのかいないのか、俺にはなんにも訊いてこなくなった。ただ、なんだか彼も上機嫌な気がする。ここのところ、俺達のことで怒ったり嘆いたりしてたのが嘘みたいだ。今日も、いつものようにせっせと接客に励んでいた。でも、それもティータイムまでのこと。
「……暇っすねぇ」
夕方五時。お茶の時間も終わり、お客さんはすっかり引いている。半田くんのぼやきが、店内に響き渡った。
「学生さんと先生方は夏休みに入ったし、お盆も近いからねぇ。大学の事務室も昨日からお盆休みに入ったって言ってたし。君達も明日から姫津だろ?」
「はい。霖さんに目一杯お小言喰らってきます」
口ではそう言いながらも、半田くんはどこか嬉しそうだった。なんだかんだ言って、霖さんのことも気に入ってるよなぁ。実家と縁が切れた以上、彼にとっては姫津が故郷みたいなものになってるのかも。じゃあ、霖さんはお父さん代わりってことか? うーん、歳取った気がしてきた……。俺、あの人と二つしか違わないからなぁ。
「マスターは、今年もお盆は店閉めてダラダラするんですか?」
「そのつもり。あ、一番上の姉さんには、たまには顔見せろって言われたけど」
「あー、立川に住んでる人でしたっけ」
「そ。両親に会いに行くのが嫌なら、せめて自分のところに来いってさ」
でも、ここのところ落ち着いてるとはいえブロくん一人にするのは不安だから、行くつもりはないけど。それを姉さんに言うわけにもなぁ……。
すっかりオバサン……もとい奥様が板に付いた姉さんの怒り顔を思い出しながら、溜息を吐いた時だった。
ドアベルが、控えめに鳴る。俺と半田くんは緩んでいた顔を営業用に切り替え、姿勢を正す。ゆっくりゆっくりと、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませー」
俺達の声に、俯きながら入ってきた小柄なお客さんはびくりと肩を震わせる。少し癖のある、黒くて長い髪の女の子だった。シンプルな服装と飾り気のないゴムが、全体的に地味な印象を与えている。
「あ、あの……」
彼女はドアの前に立ったまま、恐る恐る顔を上げた。おどおどした、ウサギみたいな目だった。でも、顔立ちはどこか……、似てる。
もしかして、と俺が口を開く前に、彼女は声を震わせながら言った。
「上風呂忍が、ここに来ませんでしたか?」
とりあえずカウンターに座って貰い、お水を出したところで、彼女はようやく一息吐いたようだった。コップの縁を指先でなぞりながら、「すみません」と呟いた。
「なんの説明もせず、いきなり……」
「いいんだよ。……忍くんの妹さん?」
「……はい。忍の妹の、上風呂幸です」
幸さんは、か細い声で答えた。予想通りだ。おどおどした目はあまり似てないけど、顔立ちや雰囲気がなんとなく似てる。
「兄が……忍兄さんが、先月の半ばから家に戻って来なくて……。連絡も取れなくて、困っているんです。母ももう一人の兄も仕事が忙しくて、忍兄さんを捜せるのは私だけなんです。でも私には兄の行く宛が、以前働いていたこのお店くらいしか思い付かなくて……。あの、なにかご存じありませんか?」
……どうする。半田くんと相談してる暇はない。時間が経てば経つほど、俺がブロくんの居場所を知ってることに気付かれやすくなってしまう。……しらばっくれた方がいいか?
「ちょっと待って。もう一人のお兄さんって? あいつとは付き合い長いけど、聞いたことない」
突然、半田くんがそんなことを言い出した。どこか挑発的な彼の目を見て、幸さんはびくりと震える。ブロくん、まだ話してないのか……? てっきり、この間飲みに行った時にでも話したのかと思ってたけど。
「……晃兄さんとは、いろいろと事情があって長い間別々に暮らしていたので……。この間、忍兄さんがいなくなってから、一緒に暮らし始めたんです」
「ふーん……。あいつ、妹と母親の話はよくしてたけど、兄貴の話なんて一度もしてなかったよ。仲、悪かったのか?」
幸さんは不機嫌そうな半田くんに、ますますびくついている。いくら女の子が嫌いだからって、ちょっとやりすぎじゃない?
「一緒に暮らしてた頃は……、仲が、良かったと思います、けど……。ごめんなさい、七年も前のことで、私、小さかったから……よく覚えてなくて。ごめんなさい……」
涙目になっちゃってる。半田くんは難しい顔をして、なんにも言わない。
「なにか飲む? メニューどうぞ」
「あ……、はい」
助け船のつもりでメニューを書いたメモパッドを渡すと、幸さんは恐る恐る受け取った。なんか、ちょっと傷付くなぁ。別に、取って食うわけじゃなし……。
しばらく、幸さんはメニューを眺めていた。ゆっくりと一枚ずつページをめくり、なぞるように目を通していく。その内に、どうにか落ち着きを取り戻したらしい。
「……レモネード……」
ぽつりと、幸さんは小さな小さな声で呟いた。
「メニューには、ないんですね」
「基本的には、ね。うち、レモンティーやってないから。日替わりケーキの材料にレモンを仕入れた時だけ、注文があったら出すくらいかな。でも、なんで?」
「兄が……、時々、作ってくれたんです。バイト先で教えてもらった、って言って。だから、てっきりメニューに入っていたのかと」
懐かしさと寂しさの混じった目が、求めるものが書かれていないメモパッドを見つめていた。胸が、締め付けられる。それは、よく知っている目だった。……痛いほど、彼女の気持ちが分かってしまう。
ブロくんは、知ってるんだろうか? 彼女がこんな顔をするほど、兄に会いたがってることを。……分かっては、いるだろうな。他になにも要らないって思えるほど、大切な家族だったんだから。
座っている彼女に目線を合わせて、俺はできる限りの優しい笑顔を作った。
「……お作りしましょうか? お客さん」
「え?」
「レモンなら、ちょっと走れば十分で買って来られるから。半田くん、留守番お願い。お客さんに失礼ないように!」
「……はーい。寄り道せずに帰ってきてくださいよ」
エプロンを外し始めた俺と、カウンターに肘をついた半田くんを見比べて、幸さんは困惑していた。
「あ、あの、私そんな」
「大丈夫。どうせ、今日は暇だから。ゆっくりしてってくださいね、お客さん」
「でも……」
俯いてしまった彼女にもう一度「大丈夫」と声を掛けてから、俺は小銭と携帯をポケットに入れて外に出た。
夕方とはいえ、まだまだ暑い。自転車置き場にできた小さな影の下で、携帯電話を取り出した。彼女の目を思い出しながら、彼の番号を呼び出す。
……あの目は、よく知ってる。少し前の、俺の目と一緒だった。彼のいない毎日に慣れようとしても、ふとした時に彼を思い出してしまう。ブロくんがいた頃を、……もう戻らない過去を、懐かしんでいる目だ。
でも、決定的に違うところがあった。……俺は、戻らないと思っていたのに戻ってきてしまったけれど、彼女は戻ってくると思っているのに戻ってこないこと。……なら、せめて今日くらい、会わせてあげたい。
十コール目近くで、ブロくんは電話を取った。
*
その時、俺はちょうど昼寝から目が覚めたところだった。あまり自覚はなかったけど、久し振りにまともに働いた疲れはやっぱり溜まっていたらしい。昼飯の後、なんとなく眠たくなって、そのまま夕方まで寝ちまった。
夕飯の支度しなきゃな、と思って冷蔵庫を開いたら、カーテンの向こうで携帯が鳴り始めた。肩が震えて、体が少し強張る。
……先週、あの人から電話が来て以来、いつもこうだ。携帯が鳴ると、すぐに体が反応してしまう。……恐い。
けど、もし別の誰かだったら? 着信音は鳴り続ける。カーテンをそっと開けた。テーブルの上に置きっぱなしにしてあった携帯は、ぎらぎらとライトを点滅させている。恐る恐る、携帯に手を伸ばした。着信は……。
「マスター?」
すぐに通話ボタンを押した。少し低い、穏やかな声が俺の名前を呼ぶ。体の緊張が、一気に解れていった。
「……どうしたんですか? 仕事中でしょ」
安心感からか、少しぶっきらぼうな言い方になってしまった。
『うん。ちょっとね。レモン買いに行かなきゃいけなくなって』
「レモン?」
『初見のお客さんに、レモネード頼まれたんだ』
「今は裏メニューじゃないんですか?」
『ううん。今も、メニューには書いてないよ。……前、うちの店でバイトしてたお兄さんに、作ってもらったことがあるんだって』
「……え?」
遠回しな言い方をしたマスターは、それからなんにも言わない。俺の言葉を待っていた。でも俺は……、上手い言葉が見つからない。
幸が、〈西風〉に来てる。多分、俺を捜しに。
「……幸」
口に出せたのは、あいつの名前だけだった。最後に会ったのはいつだった? あの日の朝、だったか。母さんはもう仕事に出てて、あいつと二人で朝飯食って。遅刻しそうだったから、ろくな挨拶もせずに出てったんだっけ……。
「……一人、ですか?」
『うん。随分恐がりな子なんだね』
「はい」
末っ子のあいつは、父さんが優しかった頃をほとんど知らない。だから、小さい頃からあの人の暴力に怯えて、びくびくしながら生きてきた。それは、今でも変わらない。とにかく他人からの悪意に怯えて、相手の顔色を窺ってしまう。……それでも、三人で暮らし始めてからは、前よりかなりマシにはなったけど。
それに、あいつは……。
『俺はレモンを買いに行くけど……、君はどうする?』
「……行きます」
あまり、悩まなかった。それよりも、一人でこんなところまで来た幸が心配だった。……あいつにまで、無理をさせてる。今更だけど、ひどい罪悪感が俺を襲っていた。
「幸に、すぐ行くって言っておいてください」
『うん。タクシー使っていいよ。俺、払うから』
じゃあ、と言ってマスターは電話を切った。
財布と携帯、家の鍵をジーンズのポケットに突っ込んで、ふと時計を見た。五時半。暗くなる前に、あいつを帰さないと。泊まるのが知り合いのところかホテルかは知らないけど、夜道を一人で歩かせるのは不安だ。
マスターの言葉に甘えるわけじゃないが、俺はタクシーを呼んだ。ほどなく、アパートの前にタクシーがやってくる。夏の日は、まだ高かった。
*
のんびりレモンを買って帰ると、店の前にタクシーが停まっていた。中から、少し癖のある黒髪が覗いている。
「ブロくん!」
ドアを開けた彼に声を掛けると、ブロくんは弾かれたように顔を上げた。お金は払った後だったようで、財布をポケットに入れてる。
「ごめん、今帰ったとこだから、彼女にはまだなにも伝えてないんだ」
「……はい。俺こそ、すいません。家のことに巻き込んで」
「いいよ。それより、早く顔を見せてあげたら?」
小さく頷いて、不安そうな顔でブロくんは店のドアに手を掛けた。少しだけ息を吸って、勢いよくドアを開ける。
がらがらと、ドアベルが鳴った。ひんやりした空気が、俺達を迎える。
「忍兄さん?」
店内に入ったブロくんの姿を見て、幸さんは立ち上がった。隣にいる俺からは、ブロくんの表情は分からない。
「良かった……!」
泣きそうな顔で、幸さんはブロくんに駆け寄った。躊躇いなく彼の手を取り、強く握り締める。ブロくんも、その手を振り払うことなく握り返していた。胸に生まれた小さな羨望と諦めに似た感情から、俺は目を逸らす。
兄妹の再会に水を差すのも悪いから、俺はカウンターの中へ入った。さて、レモネード作らないと。二人分、ね。
「結局、連絡したんですね」
半田くんがレモン絞りを取り出しながら、そっと俺に囁いた。
「……彼女は、少し前の俺と同じだったから」
レモンを二つに切る。きつい香りが鼻を突いた。思わず目を細めてしまう。
「それに、会うか会わないかを決めたのは彼だよ」
「……で、帰るか帰らないかを決めるのもあいつ、ですか」
頷いた俺を、半田くんはじっと見つめた。まるで、なにかに挑むような鋭い視線だ。でもそれでいて、どこか悲しげだった。
「あんたは、それでいいんですか?」
「もちろん、だよ」
「……そう、ですか」
珍しく歯切れが悪い半田くんは、そう呟いて難しい顔をした。ちらりとブロくんの方を見てから、お湯の準備を始める。
きっと、幸さんの願いは叶わない。でも、もし叶えることができたなら、それはブロくんにとっても……長い目で見れば、幸せなことかもしれない。
*
「今までどうしてたの? 体、大丈夫? ご飯ちゃんと食べてる? ちゃんと眠れてる? 仕事は?」
幸は母さんによく似た顔と口調で、俺に問いつめた。一ヶ月も離れていなかったのに、その声がひどく懐かしい。触れられても嫌悪感のない手を握り返して、俺はできるだけ落ち着いて言った。
「マスターのとこで世話になってる。ちゃんと食ってるし、仕事もしてる。お前こそ、こんなところまでよく来れたな」
「……恐かったけど、でも、兄さんのことも心配だったんだもん。薬、置いてったでしょ? 通帳も印鑑も、服だって……」
道中のことを思い出したのか、黒い瞳が揺れる。何時頃に東京に着いたんだろう。満員電車に捕まってなかったらいいが……。電車だけじゃない。東京の人混みの中を一人で歩けたってだけで、こいつにとっては奇跡みたいなものなんだ。
過去のことが関係あるかどうかは分からないが、幸は俺と同じようにいくつかの心の病気を抱えていた。パニック障害、男性恐怖症、それに俺と同じで、不眠症もある。俺ほどじゃないけど他人との接触を恐がるし、あの頃の記憶もやっぱり曖昧だった。
「……発作、起きなかったのか?」
「……なんとか。周り、あんまり見ないようにした。兄さんこそ、きちんと眠れてたの?」
「こっちの病院行って、薬貰った。保険証は持ってたから」
ようやく安心したのか、幸はそっと息を吐いた。握ったままだった手は、少し力が緩んでる。
幸は改めて、俺を見つめた。母さんにそっくりな目が、予想していた言葉を口にする。
「母さんも晃兄さんも心配してるよ。ねぇ、帰ろう?」
肩が、震えた。その名前を聞いただけで、背筋に寒気が走って目の前が暗くなる。
「……忍兄さん?」
なにも知らない幸は、また不安そうな顔をして俺を覗き込んだ。
「晃兄さんが、忍兄さんは自分と暮らしたくないんじゃないかって……。そんなこと、ないよね?」
幸は仲が良かった頃の兄貴と俺しか覚えてない。俺達が出て行く直前、兄貴と俺がぎこちなかったことも、こいつは覚えてなかった。
あまりに辛い出来事が起こると、人によっては無意識の内に記憶を消してしまうことがあるらしい。母さんは、その方が幸せだって言ってた。俺も、そう思ってた。
でも、俺はせっかく忘れていた記憶を、思い出そうとしてる。……マスターの傍にいることで。
……それで、いいんだ。俺はそれでも、この人の傍にいたいんだ。
「忍兄さん……?」
「俺は、帰れない」
幸は、また手を強く握った。
「どうして? ほんとに、晃兄さんと暮らしたくないの?」
「……ああ」
本当のことは、言えない。けど、嘘も吐けない。だから俺は、最低限のことだけ伝えた。
「ほんと、に?」
幸の声が震えてる。
「母さん、前みたいにみんなで暮らしたいって言ってるよ? せっかく晃兄さんが帰ってきたのに、今度は忍兄さんがいなくなって……、ずっと、心配してたんだよ?」
「母さんには悪いと思ってる。お前にも。……けど、一緒には」
暮らせない、と続けようとした俺の言葉を遮ったのは、
「すぐに、答えを出さなくてもいいんじゃない?」
というマスターの声だった。ドアの前に立ったままだった俺達のところまでやってきて、冷えたレモネードを差し出す。ひどく優しい目をしたマスターに、俺は胸騒ぎを感じた。触れたグラスの冷たさに、背筋が震える。
「幸さんの話も聞いてみて、一晩ゆっくり考えてみたら? ……差し出がましいこと言うけど、さ」
「俺は、忍の思う通りにすればいいと思いますけど。もうガキじゃないんだし」
カウンターの向こうで、夏生は洗い物をしながら独り言のように言った。……俺の、思う通りに。けど、きっとマスターは、それを望んでいない。
……いいや、この人は、望んでないと言うだけだ。本心は、あの夜に聞いた。だから俺は、ここにいるって決めたんだ。
「幸さんは、どこに泊まるの?」
「え、あ、ホテルです。あの、少し先の駅にある」
「そっか。じゃあ寝るところの心配はいらないね」
勝手に話を進めたマスターは、幸をカウンターに誘導した。仕方なく、俺もその隣に座る。
「ブロくんはどうする?」
「どうって……」
「一緒に泊まってあげたら?」
心なしか嬉しそうに、マスターはそんなことを言い出した。……そんなに、俺を追い出したいんだろうか? 本心じゃないと分かってても、こんな顔をされたら虚しくなる。
「一人で大丈夫だろ?」
「うん……」
マスターには答えず、幸に確認する。幸はちらりと時計を見てから、不安そうに俺の目を覗き込んだ。……ああそうか。そろそろ、帰宅ラッシュか……。
「ホテルまでは送る。それでいいか?」
「うん。ありがとう」
こいつも俺も、不便な体だと思う。他人には当たり前のことができない。けどその辛さを、他人にはあまり分かってもらえない。面倒だと思われることだって、不審がられることだって山ほどある。それを隠して生きていれば、尚更だ。分かってくれる誰かに縋らなきゃ、生きるのが辛すぎる。
……全部、親父や兄貴のせいにできたら、俺はもっと楽に生きてたのかもしれない。幸だって、もっと。……駄目だ。こんなこと考えたからって、なにが変わるわけでもない。
「ブロくん? どうする?」
「え?」
「夕飯。少し早いけど、食べていきなよ」
マスターの声で、ようやく我に返った。
「あ……、はい。お前は?」
「いただきます……」
硬い表情を崩さず、幸は頭を下げる。マスターは幸に視線を合わせて、いつもよりも柔らかな笑顔を浮かべた。奇妙な苛立ちが、頭の隅を過ぎる。
「なにか嫌いなもの、ある?」
「え、いえ……」
「じゃあ、あり合わせのものでパスタにしちゃうけど、いい? 味付けは?」
「えぇと……」
「ちょっと濃いめの方がいいかな? ブロくんもだろ?」
「……はい」
ついでみたいに言われるのが、妙に癇に障った。俺の不機嫌に気付いたのか、幸は気遣わしげに俺をちらりと見る。それすらもなぜか苛ついて、俺はなにも言えなくなった。
店を出る頃には、西の空が赤くなっていた。駅に向かって歩き始めてすぐ、幸が二十センチセンチ下から俺を見上げる。
「兄さん……、怒ってる?」
「……いいや」
二人になった途端、苛立ちが消えたのが不思議だった。妹に気を遣わせている自分が、ひどく嫌なヤツに思えてくる。
「ごめんな。一人でこんなところまで来させて」
「いいの。私こそ、ごめんなさい」
幸は目を伏せた。こいつがこんな顔をすると、泣くんじゃないかと思ってしまう。小さい頃からの、条件反射みたいなものだった。
「兄さんのお友達の、言う通りかもしれない。もう、家族で暮らさなきゃいけない歳じゃないよね。……普通は」
「普通、か」
悲しげに、幸はそっと頷いた。普通の家族なんて、俺達にはよくわからない。温かい家庭?優しい父親? 支え合う家族? そういうのが、普通なんだろうか。子どもが歳を取って稼ぐようになれば、親を養ったり新しい家族を作ったり、……家を出たりするもんなんだろうか。
「兄さんのしたいようにやって、って言えたら、いいんだろうけど……」
「うん」
幸の指先が、俺の手を取った。昔から、何度も引っ張ってきた手だ。家を出る時も、俺はこいつの手を握っていた。
「私は……、私も、一緒に暮らしたい。母さんや、晃兄さんと、……忍兄さんと、四人で暮らしたい。あの時からの、夢だったの」
こいつは知らない。それが、俺にとっては悪夢だってことを。母さんだって、知らない。知ってるのは、俺と兄貴だけだ。
「……でも、兄さんは……嫌なんだよね」
「……悪い」
一回り小さな手を握り返して、俺は俯いた。薄暗い道路には、あまり人通りがない。それが、朝早くに三人で家を出たあの日を思い出させて、ひどく気分が沈んだ。
「晃兄さんがね」
独り言のように、幸は言った。
「忍兄さんに、謝りたいって言ってたの。でも、自分がなにを言ってもきっと聞いてくれないから、もしも私が忍兄さんを見つけられたら、そう伝えてくれって」
「……謝る?」
今更、なんで。謝られたって許せるはずないことくらい、分からない人じゃないはずだろ。
「……ねぇ、なにがあったの?」
幸は、諦めたように言った。俺は首を横に振る。溜息を吐いた幸は、それ以上は訊いてこなかった。きっと、兄貴にも同じことを訊いて、同じような答えをもらったんだろう。
兄貴は、俺に許して貰おうとしてる。……俺は、許せそうにない。
……どうすればいい? 向き合うべきなのか、背を向けるべきなのか、分からなくなってきた。向き合えば、もしかしたら全てのわだかまりがなくなるかもしれない。けど、その前に俺の心が耐えられなくなったら? それに、もし兄貴の言葉が嘘だったら? あの人が、また豹変したら? ……今度こそ、俺の心が完全に壊れるかもしれない。他人に近付くのも嫌になって、誰も信じられなくなって。
マスターの、ことも?
「兄さん? 大丈夫?」
嫌な想像をしている内に、顔色が悪くなっていたらしい。幸は心配そうに俺を見上げていた。
「ああ」
「ほんとに? 真っ青だよ」
「大丈夫だ」
きっぱりと言い切っても、幸は心配顔のままだった。握った手に力を込めると、不安そうに頷く。
「なにかあったら、言ってね。私だって、兄さんの役に立ちたいから」
「……お前は、自分のこと考えろよ」
「いいの。私、ずっと兄さんに心配掛けてばかりだったもの。こんな時くらい、兄さんの心配をさせてよ。頼りにならない妹だけど、さ」
幸はそう言って、寂しそうに笑った。
なんでか分からないけど、俺は……ひどく、泣きたくなった。
*
「ああ、全部聞きましたよ。あいつから」
閉店作業の最中に、半田くんはけろっとした顔であっさりと言った。
「あいつの兄貴のことも知ってます」
「じゃ、なんで幸さんにあんなこと言ったの?」
「ああ、あれね。ちょっと悪いなと思いましたけど……」
テーブルを拭き終えてから、半田くんは振り向いた。
「他の人から見た、あいつの兄貴の印象が知りたかったんです。あいつの話聞いてる限りでは相当酷いヤツですけど、なんか引っ掛かって」
「引っ掛かるって、なにが?」
「……なんとなく。なにがって言われるとよく分かんないんですけど、うーん……」
唸りながら、半田くんは台ふきを流しに持っていく。俺は売り上げの勘定をしながら、次の言葉を待った。
「あいつが、兄貴のことあんまり悪く言わなかったから、かな」
「……言われてみれば、そうだね。恐がってるようだったけど、憎んではなさそうだった」
あれだけのことをされたのに、ブロくんはお兄さんを罵倒したり、悪く言ったりはしなかった。俺は話を聞いただけで、とてつもなく憎くなったのに。
「兄弟を好きになることって、あるんですかね」
突然、半田くんはそんなことを呟いた。
「……さぁ? 作り話の中でなら、聞いたことあるけど。あの子の場合は、そういう好きじゃないと思うよ。兄として尊敬してたかもしれないけどね」
「そうですよねぇ。俺の考え過ぎかな」
かりかりと、後ろ頭を掻く半田くんに、「そうそう」と言っておいたが、俺の内心はあまり穏やかじゃなかった。まさか、と思う。けど、ありえるかもしれない。
ブロくんはお兄さんをそういう目で見ていなくても、お兄さんの方が彼を好きだったとしたら? なにかの切っ掛けでそれが発露してしまったのが、彼を深く傷付けたあの出来事の真実だったら? お兄さんが、あんなに傷付けたブロくんと一緒に暮らしたいという理由も、一応は納得がいく。
……背筋が、凍る。さっきほんの少しでも、幸さんと一緒に帰ってお兄さんと向き合った方がいいんじゃないかと思ってしまった自分を怒鳴りつけたくなった。……可能性の一つにしかすぎないけど、それがゼロでない限り、彼をそんな人のところに帰したくなんかない。
「ま、俺の考えなんて大抵当たらないですよ。霖さんのことだって、会うまでゲイかと思ってたし」
「あー、それは確かに考えすぎだねぇ」
極力、平静を保って返事をしたけど、頭の中はざわめいていた。幸さんと話している内に、ブロくんが帰りたくなっていたらどうしよう。もし、ほんとにお兄さんと和解したいと言ったら? 俺は、笑って彼を送り出せるんだろうか。いいや、送り出さなきゃいけない。分かってる、分かってるんだけど……。
「マスター? いつまでお札数えてるんですか」
「え、あ、ああ」
そう言われて、初めて手が止まってることに気付いた。
「ったく、しっかりしてくださいよ。その年であいつに介護させる気ですか」
「心配しなくても、介護が必要になる頃にはブロくんとも一緒に住んでないよ」
……そうだ。いずれ遠くない未来に、彼を送り出さなきゃいけないんだ。彼は、俺と一緒にいるべきじゃないんだから。
「言うのは勝手ですよね」
「どういう意味?」
「忍は、あんたの介護したがるかもしれないってことですよ」
半田くんは言うだけ言って、奥の部屋へ入っていった。気付けば、閉店作業はほとんど終わってる。どれだけぼーっとしてたんだ、俺は……。
売り上げを数え終わる頃には、半田くんはすっかり帰り支度を済ませていた。彼に急かされるまま、俺も荷物を纏める。程なく、俺達は店の外に出た。
「ねぇ、マスター。好きになったら、しょうがないと思いません?」
「……うん」
鍵を掛ける音が、今日はひどく耳に付いた。
「俺は、あの人が男で、ノンケで、俺のこと、ただの後輩だとしか思ってなくても、諦められなかった。あんたもそうじゃないんですか?」
「ああ。たぶんそうだよ」
「じゃあ、なんであいつもそうだと思わないんですか? ほんとは、とっくに気付いてたんでしょ? あいつの気持ち。あんた、あいつの機嫌にはいっつも敏感でしたもんね」
責めるような目で、半田くんはじっと俺を見上げている。その真っ直ぐな目が、少し羨ましい。
「言ったはずだよ。彼は、きっと勘違いしてるだけだって。だってそうだろう? 三年間一緒にいても全く脈なしだったのに、今更になって好きになるはずない。それくらい……」
「これが好きか分からない」
……え?
「恋なんてもうできないと思ってた。もう誰も好きにならないし、なれない。母さんと妹がいればそれでいいと思ってた。だから、俺が誰かを好きになるはずない」
半田くんは目を閉じて、つらつらと言葉を重ねる。別の、誰かの言葉を。けど、目を開けたらもう、いつもの彼に戻っていた。猫のような目が、俺を覗き込んでいる。
「思い込みなんて、ぶっ壊してやればいいんです。あいつのも、自分のも。あの夜、つーさんの思い込みをぶっ壊してくれたみたいにね」
そう言って、半田くんは笑った。拳を作って俺の胸を軽く押し、くるりと踵を返す。
「それじゃ。いい報告待ってます」
俺の返事も待たずに、半田くんは帰っていった。その背中を見送りながら、彼が連ねた誰かの言葉をゆっくりと反芻する。
好きになるはずない。俺も、彼も、そう思い込んでた。けど、その思い込みは壊れつつある。このまま、壊していいのかな? そっとしておいた方が、いいのかな。
半田くんは、俺の背中を押そうとしてくれた。けど……、俺はやっぱり悩んでいた。ブロくんのことも、自分のことも、選ぶべき答えが見つからない。半田くんに言わせてみれば、それも思い込みが邪魔してるんだろうけど……。
思い込み、か。それがただの思い込みかどうか、確かめてからでも……、答えを選ぶのは、遅くないよな?
*
部屋に帰り着いた時、ふと違和感を覚えた。灯が付いてる。マスターが先に帰ってるはずだから当たり前なんだが……。あの人の帰りを待つ生活に慣れたせいか、逆の立場はなんだか不思議な感じだった。
「……ただいま」
カーテンの向こうにいるマスターに、声を掛けてみる。あの人が、帰るたびにそうしてくれるように。
「お帰り。お茶飲む?」
わざわざ出迎えてくれたマスターは、冷蔵庫を指さした。
「自分で入れます」
「いいよ。駅からここまで、暑かっただろ? 座ってて」
それ以上反論できず、言われるままにローテーブルの前に座った。書きかけの帳簿と、使い込んだシャーペンが転がってる。
この人は、自分で自分のことを「いい加減な性格だ」とか言うけど、本当はけっこうまめできっちりしてると思う。他に誰が見るわけでもないのに帳簿は綺麗に付けられてるし、文字も丁寧だ。物持ちもいいし、部屋の片付けだって割とまめにやってる。
それに、本当にいい加減なヤツなら、俺みたいな面倒な人間を好きでいるはずない。さっさと見切りを付けて、もっと楽に付き合える誰かを見つけようとすると思う。……そういうヤツの考えはよく分からないけど。
「……それで、どうするか決めた?」
麦茶の入ったマグカップを差し出して、マスターは俺の向かいに座った。それを受け取りながら、マスターを盗み見る。なんでそんな心配そうな顔するんだよ。店では追い出せる口実が見つかって嬉しそうだったのに。
「決めるもなにも、俺は最初から帰るつもりなんてありません」
「そっか……」
安心したように、マスターはささやかな笑みを浮かべた。けど、すぐに顔を引き締める。
「向き合うつもりはないんだね? お兄さんと」
「……少なくとも、今は」
「恐い?」
俺が頷くと、マスターはひどく寂しげな顔をした。「そうだよね」と、小さく呟く。
「……俺のことは恐くないの?」
「なんで、ですか?」
いきなり、なに言い出すんだこの人。……ああそうか。あの人と同じ男を好きになるはずない、か。この人は、自分と兄貴が俺の中で同じようなものだと思い込んでるんだっけ。
「君に、なにするか分からないよ。……君のお兄さんみたいに」
「したきゃ、とっくにしてるでしょう。機会なんていくらでもあった。けど、あんたはなんにもしない」
「でも、突然変わるかもしれない。……我慢できなくなるかもしれない。その時、君は……」
「なにが言いたいんですか?」
マスターは口を閉じた。一瞬、泣きそうな顔をする。そして、聞きたくない言葉を口にした。
「……名古屋に戻れとは、言わないけど……。やっぱり、ここから出て行った方がいいと思う。俺が君を傷付ける前に」
なんでかは、分からない。けど、その言葉を聞いた時、俺は頭に血が上った。訳の分からない苛立ちが、体中を駆け巡る。それはあの晩、マスターの本心を聞いた時に感じたものによく似ていた。
「傷付ける予定、あるんですか?」
自分でも、声が固くなったのが分かる。マスターは俯いて、グラスの中身を見ていた。
「……ない、けど」
「けど?」
「……傷付けない、はずがないよ」
マスターは自嘲した。ひどく、苛々する。そんな顔で笑うマスターにも、この人にそんなことを言わせてしまう自分にも。気付いたら、俺は拳を握り締めていた。
「ここにいたって、辛いことが増えるだけだよ。きっと」
「辛いことって、なんですか」
ここにいて辛かったことなんて、この人の嘘くらいだ。けど、もうそれも辛いと思わない。この人の本心を、俺は知ってる。優しさとエゴの塊でできた嘘が、誰よりこの人を傷付けてることも。
マスターは顔を上げて、恐る恐る俺を覗いた。ひどく、情けない顔だった。
「言わせないでくれ……」
泣き出しそうな声で、その言葉を絞り出す。素面のこの人は、確かなものなんてくれない。分かってるつもりなのに……、俺だって傷付けたくないはずなのに、我慢できなかった。
「……逃げるなよ」
「ブロくん?」
自分でも驚くほど、低い声が出た。マスターはあの夜のように、ぽかんとしたまま俺を見上げている。
「逃げるなよ、俺から。あんたほんとは分かってるんだろ? 分かってる癖に、なんではっきり言わねぇんだよ!」
怒りにまかせて拳を落としたテーブルの上で、グラスとマグカップが耳障りな音を立てる。
「ブロくん、落ち着いて」
「怒らせてんのは誰だよ!」
一喝すると、マスターは口をへの字に曲げた。ほんとに泣きそうだけど、構ってられない。こっちだって、泣きたいくらいだ。
「傷付けたくないって、なんだよ? そう言ってれば俺を守れるとでも思ってんのか! 辛いことが増えるだけ? それが分かるのは俺だけだろ! なんであんたが決めつけるんだよ!」
「俺にだって分かるよ。……三年間、ずっと君を見てきたんだから」
沈みきった声で、マスターは甘い言葉を吐いた。けど、今はそれにひどく苛立つ。
「三年間見てきて……、三年間俺を好きでいてくれた癖に……! どうして、今になって俺を突き放すんだよ! なんで傍に置いてくれねぇんだよ!」
「ブロ、くん……」
マスターの声が震えた。なにか言おうとして、止める。そして、また俯いてしまった。
「……なんで、俺があんたを頼ったか分かりますか?」
できるだけ怒りを抑えて、俺はゆっくりと訊ねた。
「事情を知ってて、頼れるのが俺しか思い浮かばなかったから……って」
マスターは、あの日俺が言った言葉をそのまま口にする。
「……あんたなら、受け入れてくれると思ってたんです。あんたは、俺のことをずっと好きでいてくれたから。今も、そうだと思ってたから。あんたの気持ちに応えられないって信じ込んでた癖に、あんたの優しさに甘えてたんだ、俺は」
「でもそれは……、仕方、ない。他に頼れる人がいなかったんだから」
「違うんです。夏生に言われて、気付いた。……俺は、あんたじゃなきゃ駄目だったんです。あんた以外の誰も、頼りたくなかった」
拳を開いて、手を伸ばした。目の前にいるのに、ずっと遠いこの人に。でも、ちらりと俺を見たマスターは、力なく首を横に振った。……俺を、拒もうとしていた。
「言わないでくれ……」
「あんたの優しさが欲しかった」
「お願いだから……」
「いつもみたいに笑って欲しかった」
「ブロくん……」
「別の誰かが好きだって言われて、なんにも考えられなくなった」
俯いてるマスターの顔を、無理矢理に上げさせた。
「止めてくれ……」
目に溜まった涙が、一粒だけ零れていく。……綺麗だと、思った。
「まだ好きだって言ってもらえて、泣きたくなるほど嬉しかった。……その時になって、ようやく分かったんです」
「止めてくれ!」
マスターが、俺の手を払った。初めてぶつけられた衝撃が、俺の言葉を全て奪っていく。手が、痛い。熱くて、ひりひりする。目の前がぼやけて、なんにも見えなくなる。マスターの顔も、見えない。
「これ以上、俺を追い詰めないで……。君を傷付ける道を、選ばせないでくれよ……」
俺を傷付ける道? これ以上、どうやって俺を傷付けるって言うんだよ、あんたは。
……三年前のあの夜、この人の手を振り払った。あの時この人はどうしたっけ。振り払われた手の向かった先は、もう覚えてない。あの時、あんたもこんな気分だったんだろうか。全ての想いを、否定された気がしてたんだろうか。
俺は払われた手に力を込めた。ぼやけた視界の中で、必死に手を伸ばす。言葉なんて、思い浮かばない。ただ、触れたかった。俺の手の向かう先は、この人だけだ。
泣きながら伸ばした俺の手を、マスターの大きな手が掴む。
「……ほら。俺に触られたら、君は苦しそうな顔をする。体が、拒否しようとする。駄目なんだよ、俺を選んじゃ。苦しむだけなんだよ。辛いだけなんだよ。君の傷は癒せない。余計に、ひどくなる。これは、俺の思い込みなんかじゃない。……現実、なんだよ。
勘違いしてるだけなんだ。君は。辛くてどうしようもない時に、優しくされて。よくあることだ。時間が経てば、それに気付く」
先週の夜と同じことを、マスターは震える声で語った。掴んだ手の力は、ゆっくりと抜けていく。
「好きになっちゃ、いけなかったんだ。俺も……君も。こんな気持ち、さっさと捨てなきゃいけなか……っ」
伸ばした俺の手は、聞きたくないことばかり言うマスターの口を塞いだ。テーブルから身を乗り出して、真っ赤になった目が見えるところまで近付く。
「勘違いで、こんな気持ちになってたまるかよ!」
性懲りもなく「止めてくれ」と動こうとする口が、ひどく憎たらしい。マスターが、また俺の手を掴んだ。また、俺を拒否しようとした。
マスターの口から俺の手が離れる。
「ブロく……っ!」
もうなんにも、聞きたくなかった。拒むばかりの言葉なんか、いらねぇ。
ただ、この人の本心が、欲しかった。
*
ああ、もう駄目だ。そう、思った。俺はもう、この傷だらけなのに繊細で脆い子を、余計に傷付ける道しか選べない。気持ちを偽ることも、突き放すことも、もうできない。
触れるだけの口付けが、彼の気持ちを真っ直ぐに伝えていた。俺が言ったたくさんの言葉より、ずっと説得力がある。他の道を選ばせない、力強さも。そしてそれは、俺が自分に言い聞かせてきたいろんな言葉を壊してしまった。もう、戻せない。むき出しになった本心が、悲鳴を上げた気がした。
俺は、彼の手を離した。けど、彼は離れない。柔らかな唇を俺に押しつけたまま、ぎゅっと目を閉じている。頬には何本も涙の跡ができて、新しい滴が止めどなく流れていく。
どれもこれも、俺のせい。君を傷付けたくないなんて言いながら、嘘ばかり吐いて苦しめた。君の気持ちに目を背けて、こんなことまでさせた。フラッシュバックが起こらないとも限らないのに。
……そうだ。いつまでもこんなことしてたら、ほんとに。
細い肩を掴んで、ゆっくりと引き離す。なぜかは分からないけど、いつもと違って触れても肩が震えなかった。
「大、丈夫?」
「……平気、です」
掠れた声で、ブロくんは答えた。潤んだ目が、俺をじっと見つめる。それはまるで、情事を終えた後のような色気すら感じて、場違いにもどきりとした。
「あいつは……、しなかったから」
「……そ、か」
ブロくんは、ゆっくりとテーブルの向こうへ戻っていく。俺を見つめたまま。
「……駄目、ですか?」
また、目が揺れる。俺の大好きな、綺麗な黒い目が、ゆらゆらと揺れる。ああ、もう。
「あんたを選んじゃ、駄目ですか?」
なんにも言えない俺を、ブロくんは不安そうに見つめる。
「苦しいだけじゃ、ない。辛いだけじゃ、ないんです。あんたの隣にいれば、俺は……」
「……うん」
ようやく絞り出せたのは、それだけだった。でも、ブロくんの顔は一気に明るくなる。
「俺……、いても、いいんですか?」
「……うん」
「ずっといて、いいんですか?」
答えに困る俺を見て、ブロくんは唇を噛み締める。
「いちゃ、駄目なんですか? なんか……、なんか言ってください」
泣いてばっかいないで。ブロくんは消え入りそうな声でそう続けた。けど、俺は嗚咽を堪えるのに必死で、言葉が出てこない。
さっきまで饒舌だったのが嘘みたいに、俺はなんにも言えなくなった。ぼろぼろと零れていく涙は、中々止まってくれない。悲しいのか嬉しいのか、もう分からなかった。一週間前に、酔った勢いで大泣きした時もこんな感じだった。けど、傍にいるのはエリじゃない。
なんで、こんなに……泣いてるんだろう。分からない、分からないけど、頭の中はどんどんすっきりしていった。涙と一緒に、壊された言葉の残骸が流れていくみたいだった。ずっと、それはブロくんを守るためのものだと思っていたけど……、もしかしたら、ほんとは俺を守るためのものだったのかもしれない。
「ブロくん……」
ようやく声を出せたのは、どれくらい経ってからだろうか。ブロくんはやっぱり、不安そうな目をしていた。
「俺、は……、ほんと、言うと」
こくりと、ゆっくり頷いてくれる。息を吸い込んでから、続けた。
「……ずっと、傍にいて、欲しい。どこにも、行って欲しく、ない。それに……」
「……はい」
「誰にも……、渡したく、ない」
俺が初めて吐き出した独占欲を、ブロくんは黙って受け入れた。
「君の家族にも、……いつか、君が大切に思うかもしれない誰かにも、……渡したくない」
大人ぶって、いい人ぶって、隠し続けていた本心が次々溢れ出す。ブロくんは口を挟まず、それを聞いてくれた。
「俺のことだけ考えて欲しい。ずっと俺を見てて欲しい。ずっと君を見てたい。思い切り甘やかして、なんでもしてあげたい」
ぐちゃぐちゃに言葉が出てくる。整理することもできず、俺はただ声に出した。
「たくさん触れたい。抱き締めたい。……抱いて、滅茶苦茶にしたい、けど」
そっと手を伸ばして、彼の前髪に触れた。その手を更に後ろへ伸ばそうとして、硬い顔をした彼に振り払われる。……あの夜のように。
「そうやって俺を拒んでしまってから、悲しむ君を見たくないんだ」
振り払った俺の手と俺を見比べてから、ブロくんは首を振った。
「あんたは、なんにも悪くない。俺に触ったからって、俺を傷付けたことにはならないでしょう?」
「なるよ。……今だって、あの時だって、君はひどく傷付いた顔をしてた。そんな顔をさせたのは俺だ」
「違う、違うんです。あの時も、今も……俺は、あんたに触られるのが嫌なんじゃない。あんたを拒む自分が嫌なんです」
「俺が触らなきゃ、君が自分を嫌になることもなかっただろ? ……俺のせいだよ」
ああ、そうか。俺は結局、あの夜から先に進めていないだけなんだ。君を傷付けてしまったあの夜から、俺はなんにも変わってない。君を傷付けたくないと思ったのも、君を幸せにしたいと思ったのも、君を好きなのも。……変わらない。
「……どう言ったら、あんたは納得してくれるんですか。俺はあんたのこと、拒みたくないんです。あんたが苦しんでるの、見たくない」
「……傷付けたく、ない?」
言葉を探していたブロくんは、ゆっくりと頷いた。
「俺も、あんたを傷付けたくない。……俺のせいであんたが傷付くのは、嫌だ」
ずっと自分で自分を追い詰め続けていたその言葉も、彼が言うと温かくて優しい。壊れていった言葉の残骸は、彼の中で生まれ変わっていた。
「……俺、頑張って病気治します」
「頑張って、治るものじゃないよ……」
「治します。あんたに触られても、平気になれるようになるから。あんたを、傷付けないようにするから。だから……」
ブロくんは、さっき自分で振り払った俺の手を取った。手のひらに、頬を擦り寄せる。涙が乾いたせいでかさかさだったけど、温かい頬だった。
「一緒にいさせてください」
そう言って、ブロくんは強い意志を秘めた目をそっと閉じた。俺の中にはもう、拒む言葉はない。でも、やっぱり臆病で弱虫な俺には、受け入れる言葉も思い浮かばなかった。
とくりとくりと、心臓が少し速いペースで鳴っている。音を立てないように、俺は彼に近付いた。手が、震える。新しい一歩に喜んでいるのか、恐がっているのか、自分でもよく分からない。分からない、けど。
言葉なんかよりずっと素直なものを、彼に伝えたかった。彼が、そうしてくれたように。
終章
八月十一日 日曜日
ブロくんは、携帯電話の画面を見つめて小さく頷いた。
「……今日は、あの人休みみたいです」
画面には、幸さんからの返事が届いていた。ブロくんは思いきり息を吸い込む。
「無理しなくていいんだよ。……急がなくたって」
「思い立ったが吉日、ですよ。それに……先延ばしにしたって、余計に辛いだけです」
そう言って、着信履歴を開く。登録されていない番号を呼び出し、そこで手を止めた。
「……マスター」
頼りない目が、隣に座る俺を見上げていた。
「手、……握っていいですか?」
「もちろん」
俺は躊躇いなく手を差し出した。ブロくんは、それを左手で強く握り締める。震える右手は、発信ボタンを押していた。
呼び出し音が鳴る。ブロくんは目を閉じていた。俺は、そっと手を握り返す。びくりと肩を震わせてから、彼は目を開けた。
「大丈夫……ここにいるよ」
はい、と細い声が返事をくれる。
着信音が止まった。一拍おいて、ブロくんによく似た声が響く。
「……兄、貴?」
ブロくんは唇を震わせながら、過去の傷と向かい合った。俺と共に歩く、未来のために。
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