星占いの結果

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   上風呂忍は全力疾走しながら、今朝同居人に聞いた星占いの内容を思い出そうとしていた。 「今日の、水瓶座の運勢は、確か……!」  荒い息を吐く忍の背後に、激しい足音が迫っている。よく知る学生の顔を借りたそれは、けたけたとたがが外れたように笑いながら忍を追い詰めようとしていた。 「最悪の運勢……! 一年に一度、いや、十年に一度の星の巡りの悪さで……、身近な人に裏切られてしまう、とか、言ってた、っけ……!」  傍目から見れば裏切られているように見えるかもしれないが、などと口にできない思考を巡らせながら、忍は見慣れた大学構内を駆け抜ける。夏の日が沈み始めるこの時間、構内に残っている者は少なく、誰かにすれ違うこともなかった。 「どうすりゃいい? くそ……!」  ここのところ本業の事務仕事が忙しかった忍は、既に息が切れ始めていた。脳に酸素が回らなければ、思考回路が先に袋小路へ辿り着く。  せめて大学の外へ、その一心で忍は懸命に走った。だが、徐々に距離は詰められていく。 「桂! しっかりしろ……!」  掠れた声で叫んでも効果は薄い。いっそう高い声で、赤森桂の体を借りたものは哄笑した。  まばゆいばかりの夕陽が、建物の隙間から差し込む。一瞬、目が眩んだ忍の肩に、とうとう桂の体を乗っ取ったものの手が掛かった。 「あはははははは!」 「ぐ……、う……!」 「ははははははは!」  少女のように小柄な桂の細腕からは想像もつかないすさまじい膂力で、忍の首は絞められていた。意識が遠のき、目の前が暗くなっていく。  駄目かもしれない。薄れゆく意識の中で、忍は諦めかけていた。 「マス、ター……!」  こんな時くらい、本名で呼べばよかった。そう思いながら自嘲して、忍は意識を手放そうとした。  その時だった。激しい殴打の音と共に、霞んだ視界の向こうで桂の体が横殴りに吹き飛ばされる。大きく咳き込んだ忍を庇うように、見慣れた同居人の背中が現れた。 「大丈夫? ブロくん」 「マスター……! あんた、なんで」 「桂くん、初めてバイトを無断欠勤したからさ。絶対おかしいと思ってね」 「……いえ、それも、気になるんですけど……なんで」  え、と振り返って首を傾げる喫茶『西風』のマスターこと重永寛弥の手にしっかり握られたものを指さし、忍は胡乱気に命の恩人を見上げる。 「なんでモップなんですか?」 「今日の牡牛座、つまり俺のラッキーアイテム」  ふらふらと立ち上がった桂にまだ正気は戻っておらず、油断なくモップを構えながら寛弥は言った。 「そして、今日の双子座、桂くんのラッキーアイテムは」  寛弥はエプロンのポケットから取り出したそれを、向かってくる桂の体を借りたものへ振りかぶった。 「塩だ!」  桂の額に直撃した容器は弾みで蓋が外れ、中の白い粉が全身に降りかかる。同時に、糸が切れたように桂は倒れ込んだ。 「やれやれ。俺の星占いも結構当たるもんだね」 「当たりすぎですよ、気味が悪い」  どうにか呼吸を整えて、忍は溜め息を吐いた。 「まぁ、どうにかなったみたいだし……ありがとうございました、マスター」  言いながら、忍は桂の体を抱き起こすと頬を叩く、 「いえいえ、どういたしまして……、って、あれ?」  寛弥は首を傾げてエプロンを探った。そこにはもう一つ、先ほど桂に投げたものとそっくりな容器があった。  そして蓋には、「SOLT」と書かれている。 「じゃあさっき投げたのって……」 「え」  瞼を開けた桂の目は、相変わらず曇っていた。口をぽっかりと開けて哄笑を始める桂から、忍は咄嗟に飛び退く。 「だから塩と砂糖の容器を変えろって言ってたじゃないですか!」 「ごめーん!」  慌てて今度こそテーブルソルトを桂に投げつけた寛弥だったが、飛び退った桂には当たらない。 「塩! 塩取りに行かなきゃ!」 「ちょ、気絶させた方が早い……逃げるなぁああ!」 「荒事は苦手なんだよぉ!」  猛然と走り出した寛弥を追い掛けて忍が、そして二人を追う桂が後に続く。 「俊君はなにしてるんだ!」 「夏生と一緒に將軍塚までツーリングです!」 「なんでこんな時に!」 「追試終わったから気晴らしでしょ!」 「それにしたって場所選びなよ! ワーカホリック過ぎ!」  叫びながらも二人は足を緩めず、構内を駆け抜けていく。寛弥は忍と違い、真っ直ぐに研究室の集まる棟の横にある通用門へ向かっていた。 「マスター、このまま外に出るのは……!」 「そう言ったって……、塩を取りに行かなきゃ!」 「ははははははは!」  桂に乗り移った何かの哄笑が木霊する。 「しまった!」  通用門は既に施錠されていた。夕闇が辺りを支配する中、ゆっくりと異形を宿した桂が二人へ歩み寄る。寛弥はモップを構えながら、忍を庇うように前へ出た。じりじりと距離を詰められる中、二人は研究室棟の裏手へと後退していく。 「ブロくん、なにか見えない?」 「……なにかって」  〈見る〉ことのみに特化した力を持つ忍は、ここで初めてじっくりと桂の中にいるものを〈見た〉。  それは一つではなかった。様々な思念の集合体は、もやもやと捉えどころのない形をしている。人であったり、動物であったり、そのどちらとも判別がつかなかったりするそれらには、唯一共通しているものがあった。 「憎悪……生きている全てのものを恨んでます……。一つじゃない」 「……桂くんの意識は?」 「見えません……。……いや」  漆黒の闇と共に迫る桂を睨みながら、忍は首を振った。 「奥にいる、と思います。うっすら〈見える〉から」  寛弥は頷いて、目前に迫った桂の鼻先にモップを突きつける。細い指先が、しっかりとモップを捕らえた。 「……今日の双子座の運勢は、低迷気味。自分を見失うこともあるかもしれないけれど、周りをよく見て!」  モップを捕らえられたまま、寛弥は桂へ体当たりした。だが、桂の細身はびくともしない。 「助けてくれる人は、必ずいる。俺や、ブロくんみたいにね」  優しい寛弥の声が桂に響く。忍の〈見えて〉いるものが、一瞬ぶれた。 「桂……!」  忍が思わず声を上げた、その瞬間。 「あ」 「え?」  間の抜けた声と共に、桂の頭上へぱらぱらと落ちていくものがあった。それが降りかかった途端、桂の体から力が抜けて勢いよく倒れる。 「ごめーん、下にいると思わなくって!」 「ほ、細野先生?」  桂と一緒にそれを被った寛弥は、頭に掛かる塩気の利いた粉を払いながら上を見上げた。 「掛かっちゃった? あれ? 赤森くん?」  自分の教え子が倒れているのを見て、目を丸くしながら細野涼は首を傾げる。 「ごめんな、俊くんが食べ残したポテトチップスがすっかりしなびてて、虫でも湧きそうだったからついつい外に捨てちゃったんだけど……」  どうかした? とのんびり尋ねる細野を見上げ、寛弥と忍は同時に尻餅をついた。 「……確かに、塩ですね」 「うん。塩だ。……あ、そういえば」 「……俺も今、思い出しました」  二人は顔を見合わせ、ぷ、と吹き出す。 「すっかり忘れてた。水瓶座のラッキーアイテム」 「……芋料理、でしたっけ」 「間違いない!」  揃って笑い声を上げる二人を見下ろし、更に細野は首を傾げるのだった。        
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