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1.プロローグ~討ち入り~
元禄15年(1702年)12月14日。
その日の深夜、播磨赤穂藩の第3代藩主であった浅野長矩に仕えていた元赤穂藩士たちが江戸本所にあった吉良邸に討ち入り、主君の仇である高家肝煎・吉良上野介の殺害するにあたった。
明けて、元禄15年(1702年)12月15日。
元国家老・大石内蔵助率いる赤穂浪人四十七名が主君の墓がある泉岳寺までの9キロの道のりを隠れることなく堂々と誇らしげに行進していったのであります。赤穂浪人たちは主君の墓前に吉良上野介の首を供えると、仇討ち成功を報告したという。
赤穂浪人たちの忠義溢れる姿を見た江戸の人々は、「これぞ武士のあるべき姿だ」と賞賛した。
主君の仇討ちを果たした彼らは、逃げ隠れすることなく、幕府の命令に粛々と従い、各自が大名屋敷でお預かりの身になった。
その潔い有り様を伝え聞いた江戸っ子たちは更に赤穂浪人たちを「忠義の士」と絶賛した。
この時、公儀も江戸の民衆も誰一人として気が付かなかった。仇討ちを果たした者の中で、唯一人、討ち入り後に姿を消した存在がいた事を。その者は、身分の低い足軽出身の男であった。その存在を公儀は最後まで突き止める事が出来なかった。血判状の中に名前が記されていなかった事も理由の1つであったが、赤穂浪人たちが決して口を割ることも無く、昔話に花を咲かす事はあっても彼の名前が出てくる事はなかった。それが生き残りの存在を「なかったことにした」最も大きな理由であった。
もっとも、その存在に気付いたとしても追手を差し向けようとはしなかっただろう。男の身分が低かった事もあるが、直臣という訳でもない。何時、いなくなったかも公儀にとってはどうでもよいものだ。討ち入り後に消えようと、討ち入り前に消えようと、幕府にとっては同じこと。どちらにしても、己の命欲しさに「逃げた」と判断されただろう。
だが、果たして本当にそうだろうか?
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