ひと粒の涙

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ひと粒の涙

願わくば。 あなたが私の手を握り締めてくれますように。 58歳と48歳で結婚した。 籍を抜いていた時期もあった。 私たちの時間は出会ったその時から止まっている。 食卓でこの7年を語り合い、微笑み合い、見つめ合う。 「こんな幸せな65歳はいないよ。」 今夜も2人はベッドで毛布に包まる。 それはまるで冬眠するリス、いや、体型的にはヒグマかも知れない。 私は無口で必要な言葉以外は口にしない。 感情の起伏もそれ程無い。 機嫌を損ねても貝のように黙ってしまうだけだ。 夫はよく喋る。 感情の起伏が激しい、瞬間湯沸かし器。 支離滅裂な報道番組にはテレビの画面に向かって喚いている。 「沙奈さん。こんな穏やかな奥さんがいて、俺は幸せだ。」 今夜も2人はソファーで寄り添い合う。 風雪にさらされるコウテイペンギン。 けれど私たちには温める卵は無い。 ここ数年、夫は漬物に凝っている。 すっかり体格が良くなったヒグマがボタンの留まらないエプロンを首に掛け、意気揚々とまな板を準備する。 包丁でザクザクと白菜を切り、シュッシュッとピーラーで人参の皮を剥く。 「楽しそう。」 「楽しいよ。」 そんな横顔を眺め、私は目を細める。 しんしんと静かに雪が舞う夜。 今夜もまたヒグマは抱きしめ合って眠りに着く。 夜の暗闇。 ふと目が覚める。 人はいつのだろう。 絡め合った指先に感じる脈、血潮はいつ止まるのだろう。 願わくば。 あなたが私の手を握りしめてくれますように。 あなたのいない世界は辛すぎるから。 ひと粒の涙で別れを告げてくれますように。
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