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「おっ、目、覚めた?」
気がつくと、ベッドの傍らの簡素な丸椅子にクラスメイトの片須君が腰掛けていた。
私への見舞いの品であるはずの鉄道の写真集をパラパラと捲っている。その様子はここ最近お見舞いに来てくれた人たちのなかで一番緊張感がない。
なんだよ、って思ったけど、不思議と強張っていた肩の力が抜ける。ちょっと拗ねたような気分になりつつ写真集に手を伸ばすと、あっさりと引き渡してくれた。別に写真集が見たかったわけじゃないから、何となく胸の辺りに抱えておく。
「学校帰り?」
片須君は窮屈そうな学ランに身を包んでいる。ついこの間までは同じクラスの隣の席で授業を受けていたはずなのに、随分前のことに感じる。最後に教室で見た片須君は半袖シャツだったけど、今では窓の外でははらはらと雪が舞っていた。
大人のことはよくわからないけど、高校二年生なんてキラキラと輝いている時期だと思っていたのに、私はここしばらく病室に閉じこもりっきりになっている。
「まあね。伊佐貫がいないと張り合いなくってさー」
「私以外にも友達作れし」
「友達はいるけどさ、鉄道のことあれこれ語れるのは伊佐貫くらいだから」
片須君は小さく口を尖らせながら私の胸元の写真集を指さす。片須君に友達がいるかはさておき、鉄道の話についてはお互いさまというか気持ちはよくわかる。
家族の中で突然変異の様に鉄道好きに生まれた私には、趣味について語れる相手はそういない。だからずっと一人で趣味を愛でてきたわけだけど、高校に入って初めて同族を見つけた。
「だからさ、早く帰ってきてよ」
「ふーん、私がいなくて寂しいんだ」
「そうだよ」
からかったつもりが躊躇いなく真っすぐと返されて息が詰まる。片須君はあくまで趣味の観点から話をしてるんだろうけど、あまりにも邪気がなさすぎる。
そんな片桐君相手だから、ずっと胸に抱えていた弱みをふと吐き出してしまいたくなった。代わりにぎゅっと写真集を抱きしめる。この写真集だって、入院してすぐ片須君がお見舞いに持ってきてくれたものだった。
行きたい場所があったら退院後に一緒に見に行こう――片須君の言葉は希望であり、呪いでもあった。その言葉を思い返すためにもっと頑張ろうって気持ちになって、いつもいつも苦しくなる。
「ねえ、片須君。もし全部ダメになっちゃったら……どうする?」
一瞬眉をひそめた片須君の視線が真っすぐ私を見据える。急に何聞いてるんだろ。やっぱり質問を取り消したくなったけど、その真っすぐすぎる瞳がそれをさせてくれない。片須君はしばらくじっと私を見てから、小さく息を吐き出した。
「そのときは、『きさらぎ駅』で落ち合おう」
――ダメだなんて言うなよ。
いつも前向きな片須君からはそんな言葉が返ってくると思っていた。だから、片須君の返事は予想外ですぐには理解することできなかった。
だいたい、ダメになったらと言ってるのに、落ち合うってどうするつもりなのだろう。それに、知ってる駅の数なら片須君にも負けないと思っていたのに「きさらぎ」なんて名前の駅、全く聞き覚えがなかった。
「その駅、どこにあるの?」
「どこだったかな。確か遠州鉄道の先の方とかだったと思う」
遠州鉄道、静岡の辺りだっけ。確かに一度行ってみたいなあ。
だけど、「落ち合おう」なんて言った割に漠然としている。そんな駅で待ち合わせをしようったって、二人して迷子になるのがオチだと思う。
そもそも、私がダメだった時の話をしてるんだから迷子とかそういう問題でもないんだけど、そういう問題は一瞬脇に置く。
「なんでそのきさらぎ駅ってところで集まるの?」
「そこが一番集まりやすそうだから」
「きさらぎ駅からはどこに行けるの?」
「どこだったかな。でも、二人でぷらぷら歩いていくのも楽しいと思う」
普通に受け答えしているようで、なんとなく片須君の答えは要領を得ない。なんというか、知ってる答えをあえて隠しているような感じ。少しもやりとした思いに戸惑っていると、片須君はふわりと表情を崩した。
「大丈夫。もしもの時はきさらぎ駅まで迎えに行くよ。だから、そこから先は一緒に行こう」
もしもの時には駅になんて行けないよ。
私の中の常識はそう考えているのに、片須君の言葉がストンと胸の奥の方に浸み込んでくる。頑張れとか、生きろみたいなことはよく言われたけど、そうじゃないときを肯定してくれたのは片須君が初めてだった。
ダメだった時はダメだった時で何とかなるかもしれない。そう思うと強張っていた心がなんだか楽になっていく。ふっと吐き出した息から私の中で凝り固まっていたものがボロボロと溢れだしていく気配を感じた。
小指を立てた右手を片須君に向かって伸ばす。
「じゃあ、約束。そのときは片須君が探しに来てね」
片須君はこくりと頷いて、私たちはそっと小指を絡めて指切りをした。
*
――高校生の頃、生死の淵に立ったことがある。
病気になって、手術を受けなければいけなくなった。
珍しい病気で、手術の成功率は決して高くはなかった。
手術に失敗すれば、20歳まで生きられるかどうかといわれていた。
それでもどうにかこうにか生き延びて、私はこたつの中で蜜柑を向きながらパソコンの画面と向き合っている。
パソコン画面には駅のルートを調べるサイトが表示されている。あれから、旅行の計画をたてるのはいつも私の役目だった。
窓の外を見ると、街灯に照らされた夜道を舞台にパラパラとした雪が舞っている。
12月になってようやく漂ってきた冬の気配に、ふと昔のことを思い出した。それで、気まぐれに到着地を「きさらぎ駅」に変更してルートを検索してみる。
表示されたのは「そんな駅存在しねーよ」という旨のエラー画面。
あの日、病室で片須君と待ち合わせをした「きさらぎ駅」は当時から今まで一度たりとも存在したことの無い駅だった。
――そのときは、『きさらぎ駅』で落ち合おう。
なんで片須君がそんな約束をしたのか、あれから10年以上たった今もその理由を聞くことはできていなかった。
蜜柑を口の中に放り込んで、甘酸っぱい味わいを噛みしめながらパソコンを脇にずらす。そこに広がっていたのは、あの頃には考えもしなかった幸せの形だった。
小学生になった息子が夫の腕を枕にしながらスヤスヤと眠っている。ついさっきまで年末の旅行の話で盛り上がっていたせいで、ちょっとはしゃぎ疲れてしまったのかも。夫は夫で息子を抱きしめながら幸せそうな顔で夢の世界に旅立っていた。
一つ息をつく。温もりに包まれたその光景をずっと見ていたかったけど、ここは心を鬼にしなければいけない。
「ほら、こたつで寝ると風邪ひくよ」
声をかけると夫の方がむずむずと目を覚ます。まだぼーっとした様子だったけど、枕になっていた腕をそっと引き抜き、代わりにクッションを添えるとむくりと体を起こす。
だけど、まだ寝起きのようで右に左に微睡む様にふらふらと揺れていた。出会った頃に比べると丸くなったなと思う。ちょっと頭も薄くなってきたかも。ママ友の集まりなんかでは「伊佐貫さんならもっと選びたい放題だったんじゃない?」なんて冗談交じりに言われたこともあるけど、余計なお世話だった。
「疲れてるんなら、ちゃんと寝た方がいいんじゃない?」
「んー……うん」
頷きながらもまだ揺れている。寝起きは抜群にいい夫には珍しい仕草。
もしかしたら、今なら大丈夫かもしれない。小さく唇をかみしめてから、夫に少し顔を寄せる。
「そうだ、寝る前に。年末の旅行の行程なんだけど、到着地は『きさらぎ駅』でよかった?」
殆ど閉じられていた目がぼんやりと開かれる。あの日の病室と同じように邪気の無い瞳がじっと私を見つめる。
夫――片須君――は微睡むような表情のまま、ぽつぽつと口を開いた。
「蓮美ときさらぎ駅で落ち合うのは……あと40年とか、50年とか、もっともっと先でいいかな……」
ああ、やっぱり。
きさらぎ駅は“そこ”だったんだ。
高校生の頃、手術が終わった後、私はすぐにきさらぎ駅について調べた。もしもの時がすぐには訪れないだろうってなって、約束の行き先は有耶無耶になってしまったけど、片須君が私をどこに連れていくつもりだったのか気になっていた。
だけど、実在の駅は出てこなくて、代わりに出てきたのはインターネット上に広がる都市伝説だった。
――気のせいかも知れませんがよろしいですか?
――先程から某私鉄に乗車しているのですが、様子がおかしいのです。
とある女性が新浜松駅で乗車した遠州鉄道の電車がなかなか停車せず、ようやくたどり着いた駅が「きさらぎ駅」に辿り着いたという話。
結局、その女性がきさらぎ駅から帰ってこれたかは謎のまま終わっている。きさらぎ駅の話の解釈などを調べていくと、現実には存在しない「きさらぎ駅」は異界とか冥界とか鬼界とか、とにかくこの世とは別の場所として説明されていた。
私が死の気配を感じていた時、片須君は――今は目の前でうとうとしているこの人は、もしもの時はきさらぎ駅で落ち合おうと言っていた。
「ねえ、あなた」
夫は当時の話をするといつも「昔のことはもう忘れた」とはぐらかしてしまうから、これまでずっと聞くことができないでいた。だけど、意識が半覚醒状態の今ならあの時の片須君の心の内を聞き出せるかもしれない。
「もし、あの時私が死んでいたら。あなたは後を追うつもりだったの?」
手術が上手くいかなかったときは、きさらぎ駅で落ち合おう。
この世ではない場所での待ち合わせ。つまり、それが意味していたのは。
緊張しながら夫の顔を見つめると、夫はきょとんとして首を傾げた。
「まさか。そんなこと考えてなかったよ」
ずっと胸の中で考えていたことをさらりと否定され、思わずガクリとうなだれてしまう。
いつもそうだ。この人はいつもあどけない顔をしながらそうやって私の意表をついてくる。
「じゃあ、なんできさらぎ駅で落ち合おうなんて言ったの?」
拗ねたような気分になりながらちょっと問い詰めてみると、夫がゆっくりと頬を緩める。
「だって、まだ知らない駅があるって知ったら、蓮美は死んでも死にきれないだろうから」
やられた。
その言葉の通り手術の直前まできさらぎ駅がどんな場所か考えていて、手術が終わってからすぐに調べた。まんまとその言葉に踊らされていた。
なにより。
この人は私が死ぬなんてこと、一ミリたりとも考えてはいなかったんだ。
「一目惚れだったんだ。だから、絶対にどこかに行っちゃわないように、この世に未練が残りそうな話をしようと思って」
昔と変わらず無邪気にそんなことを言い放つ。未だにそういう言葉を言われると恥ずかしくて、顔を伏せてしまいたくなるのを堪えてじっと向き合う。
「そんなこと言って、本当に未練を残して死んでたらどうするつもりだったの」
「その時は枕元にでも立ってくれたら、腹くくって約束通りきさらぎ駅に連れて行ったさ」
夫はこともなげに笑ってから私がさっきまでいじっていたパソコンの画面を覗き込む。そこには家から目的地まで最適な鉄道ルートの旅行の計画をまとめている。ざっと眺めて満足そうにうなずいた。
「やっぱり蓮美は頼りになるなあ。僕は蓮美ほど鉄道のこと詳しくないから」
そう。高校の時にお互いに鉄道が趣味で知り合ったつもりだったけど、夫の鉄道好きは後天的なものだった。つまるところ、一目惚れした相手と話すために猛勉強したらしい。当時の私はそんなこと気づかなくて、違和感ないくらい勉強するってどれだけ私のこと好きだったんだよって思う。
そんなこと、今では人のこと言えなくなってしまったけど。
手術が終わってからリハビリや生活をずっと傍で支えてくれて。こんなに温かくてフワフワした春の陽気みたいな人がいたから、死神だってあと一歩近づいてこれなかったんだと思う。
「今度は寝坊して電車に乗り遅れない様に」
「まあまあ、トラブルも旅の醍醐味だよ」
去年の反省を告げても夫は楽しそうににへらと笑う。この人は乗る予定だった電車が目の前で行ってしまってもあまり気にしない。
ヤキモキすることもあるけど、よく考えれば電車に乗り遅れるのは昔からだったんだ。
高校時代、きさらぎ駅行きの特急に二人して乗り遅れてからずっと。きっと今は後から来た鈍行列車に乗っている途中。
「そうだ。よく考えたら、僕は待つのも追いかけるのも苦手だから」
未だにどこか夢見心地な気配の夫がぼんやりと呟く。
「きさらぎ駅で待ち合わせじゃなくて、そこまで同じ電車に乗っていけたらいいなあ」
ああ、もう。ああもう。ああもうっ!
寝ぼけてても意識がはっきりしてても、この人は未だに私を不意打ちの様にドキドキさせる。なんなら自制心が抜け落ちてる分、寝ぼけているときの方がたちが悪い。
だけど、同じことを考えていたなんてことをこのまぬけ顔に伝えるのはちょっぴり悔しい。
「それなら、しばらく脂っこいものは控えないとね」
ちょっと丸くなったことを人からどう言われようと構わないけど、私だって追いかけるのは苦手だ。
一緒に向かうというのなら、それだけ長生きしてもらわないと困る。うん。すごい困る。
「むう、頑張る……」
頷きながら、夫はこてんとこたつの天板に頭を乗せる。このまま寝入ってしまいそうで、さっそく体に悪そうなことをしてる。息子は相変わらず夢の中で幸せな光景だけど、改めて心を鬼にして息を吸う。
――こんな日々が少しでも長く続きますように。
「ほら、こたつで寝ちゃダメだって! 二人とも歯磨いて寝ちゃいなさい!」
ルート検索の到着駅欄に残っていた「きさらぎ駅」の文字は、いつの間にか消えていた。
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