不自由な場所

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不自由な場所

「村よりもずっと、たくさんお店はあると思っていたのですが……想像よりもずっと素晴らしいです!」 「大げさだな。ここは華やかだが、商魂たくましい商人が多い。お前もいつもみたいにぽやぽやしていると、あっという間に金をむしり取られるから注意しろ。……お前の仕草は育ちの良い貴族子息にしか見えないから、狙われやすそうだ」  神殿のある小さな村を夜に出立して、次の日の夕方には王都に到着した。  精霊が初めて訪れた場所と言われる、聖地・タシキル。  王城に守られるように、その背後に建つのが大神殿だという。  本当なら、追放された『ワルター』が向かうはずだった場所でもある。  夕暮れ時は家路を急ぐ人々で大通りはごった返していて、ぼうっと立っていたら迷惑になりそうだ。  メロウに連れられて初めて村の市場を訪れた時も感動したし、とても楽しかった記憶があるのだが、王都の規模は村で開かれているものとは比べ物にならない。 「殿下へのお目通りは明日朝、申し入れをする。今日は俺の家に泊まりでも構わないか?」 「わっ、私がお邪魔しても良いのでしょうか?!」  ツィロがかつて王太子として王宮で暮らしていた頃は、一人で出かけることなど許されなかった。  ジャンのように学院で学んだ経験もないし、両親を筆頭とした血縁の者たちとは距離を取らなければならない。  この国に来てからも、メロウたちと暮らす神殿から離れると言ったら買い出しくらいなもので、それが彼の世界のすべてだった。  他の貴族たちなら当たり前なのだろう誰かの家に訪問するという行為の初体験に、自分でもはしたないとは思うのだが嬉しさが勝ってしまう。  楽しい目的を持って馬車に乗り込み、景色を楽しんだ上にギルベルトの家にお邪魔しても良いのだろうか。  思わず緊張しつつ問いかけると、ギルベルトは変なものを見る目つきになった。 「言っておくが、うちは使用人も少ないし、小さい上に古い家だから期待はするなよ。文句を一言でも口にしたら、すぐに外へ蹴り出すからな」 「文句なんて絶対に言いません! 神殿以外で、よそ様の家に寝泊まりするのは初めてなので、何か粗相をしてしまうかもしれませんが……その時は叱っていただけますか?」  必死にそう返したツィロの視界に、ギルベルトが小さく笑うのが見えた。  彼は同性から見ても羨ましく思えるほどに整った顔立ちをしているのだが、にこやかな笑みを浮かべることなどほとんどなく、冷たい印象すら受ける。  そんな彼が笑むと、一気に彼が隠し持っているのだろう優しさが見え隠れし始めて、ツィロは自分の心まで一緒に動かされるのを感じるのだ。 (彼が笑う瞬間を垣間見られるのは、とても貴重だな……この瞬間は、忘れずに覚えていたい)  そう思う気持ちは恋なのだと、昔ジャンが言っていたことがあるが、今ならなんとなく分かる気がする。  王太子として――将来の王としての責務を果たすために感情は捨てるよう言われ続けてきたツィロには、答えが合っているのかすら分からないが、大切にしたいと思う。  そんなことを密かに思いながら彼と共に夕市で村の子どもたちへの土産を買いこむと、ツィロたちはギルベルトの邸宅へと向かった。 *** 「すごい……! 歴史のあるおうちなのですね」 「無駄に長く続いているだけだ。あまりそこら中に触るなよ、壊れても直せるか分からないものが多いんだ」  なるほど、とツィロは興味深くエントランスまでの細い道のりをギルベルトと歩く。  確かに見た目は古めかしい屋敷だが、庭もエントランスもすべて綺麗に整えられていて、愛着を持って大事にされてきたのが分かる。  ギルベルトもメロウに世話になっていた時期があると聞こえてきたけれど、ちゃんと帰るべき家のある彼が、どうしてメロウのところにいたのだろう。  そう問いかけられるほど、ギルベルトとの距離はまだ近くない。  エントランスから客間へと通される。老齢の執事たちに温かく迎え入れられて、ツィロも安堵の息をつくことができた。 「長旅お疲れ様でした。早速食事をお運びしましょう」 「ああ、頼む。……ツィー、酒の類は何を好む?」  思ってもいなかった問いかけに、ツィロは少し悩んでから口を開いた。 「私は今まで酒の類をほとんど嗜んだことはなくて……いついかなる時も、理性を欠くような行動をしてはならないと言われ続けてきたものですから」  ギルベルトの指示ですぐに食事と共に鷲が描かれたボトルが運ばれてくる。  グラスに注がれるとふわりと良い香りがした。  口を付けると思ったよりもずっと口当たりが良く、酒に慣れていないツィロでも美味しく感じる。 「今まで一度もか? 『ワルター』は学生の頃から教授たちの影に隠れて散々嗜んでいたはずだが」  皮肉たっぷりな言い方に、『ワルター』への嫌悪がにじみ出ている。  ツィロは困り顔で笑うことしかできない。  一気に飲み干さないように気を付けながら、ギルベルトの問いかけにツィロは答えた。 「そうですね……たとえば何かの式典や祝宴の際は形式上、口をつけることはありました」 「へえ。飲み方すら決められてしまうなんて、随分不自由な場所にいたのだな」  自分ですら最初は信じがたかったのに。  彼は、この身体に宿る魂が別人のものだと本当に信じてくれるというのだろうか。  まだぎこちないが、ギルベルトもメロウたちと同じくツィーと呼ぶようになってくれた。  そんな彼に、しみじみと『不自由な場所』だと以前の自分がいたところを指摘されて、ツィロは目を瞬かせた。 「不自由な場所、ですか?」 「お前を見ていると、こちらまで緊張しそうになるくらい自律しているのが分かる。そこら辺にいる騎士や神官ですら、もっと気楽に生きているだろう」  褒めている、というよりは呆れたと言いたげな、いつものギルベルトの口調。  しかし、不思議と嫌だとは感じない。  温かい食事や酒のせいか、いつもは冷え切った空気の中にいるのだとしたら、今は部屋の中で暖炉の前に座っているのにも似た、ゆったりとした温かな気持ちになっている。  ギルベルトの言ってくれた自律とやらが、緩んでいく。 「それでも、私は……自分を常に律しなければならない立場でした。それなのに、ワルター・ヒディアになってからというもの、自分の明日を自分で決められることがとても嬉しく感じてしまって」 「そんな当たり前のことにまで喜びを感じているなんて、どんな環境で育てばそうなるんだ?! そんなもの、恨んだっておかしくないくらいだ」  もっと飲め、とギルベルトが酒杯を更に勧めてくる。  自分でも笑えてしまうくらい、彼の返してくる言葉が嬉しくて仕方がなくなる。  口許がにこにこと緩んでしまうのを、止められそうにない。 「こんな風に、自分の意思で好きなものを手に取って……自分が交わりたい人々と、交われるなんて。こんな瞬間を経験できたことは私の幸せです。たとえ元の身体に戻っても……」  あまりにも気持ちよくて、眠気が増してくる。 「ツィー?」 「元の私に戻っても、こんな風にまた、貴方と酒杯を酌み交わせたら嬉しいのに」  そんなことを口走って、心地よい眠りに落ちたツィロが目を覚ましたのは、夜明け近く、寝台の上だった。  驚いて上体を起こすと、すぐ近くから「起きたのか」と声がかかる。  隣りには、心なしか面白そうにツィロを見やるギルベルトが寝そべっていた。  普段は騎士らしく着崩す姿など見たことがなかったので、寛いでいる様子にドキリとする。 「ギルベルト卿?! すみません、すっかり眠り込んでしまったみたいで。ご迷惑をおかけしてしまいました」 「いや。寝ぼけているのに寝る準備は自分でほとんどやってくれたから、迷惑はかかっていない」 「なにか、失礼な言動などは……していなかったでしょうか? このように酒で自我を失うのは、初めてで……」  いつもは厳粛といった言葉が似合いそうなギルベルトの雰囲気が、ふっと笑んだことでまた柔らかくなる。  彼の、この笑顔が好きなのだとツィロはふと自覚した。 「暑いとかなんとか言って、裸になりかけたりはしていたな」 「そっ、そんなことは絶対にしていないと思います! 人前で肌を晒すなどと」 「お前の本当の顔も身分も知らないが、あの悪辣野郎(ワルター)が入れ替わりたいくらいの貴族なら誰かと羽目を外した経験くらいはあるだろう?」 「……絶対に笑うでしょうから、言いたくありません」  困り顔になったツィロを見て、ますますギルベルトが笑う。  彼にからかわれたことが分かり、ほんの少しだけ――いたずらをしてみた。風の精霊をそっと呼び、窓から吹き込む風に花びらを添わせる。 「……見事だな」 「この身体の持ち主は悪辣だと仰っていたので、私も意地が悪くなってしまったのです。次に目を覚ましたら、一緒に掃除をしてください」  ツィロが思いついた精一杯の嫌がらせに、しかし、何故かギルベルトは最初の頃のような嫌そうな顔はしていない。  むしろ感嘆した様子で、部屋に吹きこんできた花びらをその手に乗せた。 「先ほどの話しだが、勝手に答えを告げておく。お前の姿が戻ろうと今のままだろうと、また一緒に酒を飲もう。今度はとっておきの酒を用意する。……俺が最も嫌いな顔と体のはずなのにな。お前の心は、美しいと思える」 「えっ、……ええと、もしかしてギルベルト卿もかなり酔っていらっしゃいますか?」 「お前の顔は赤くなったり青くなったり、せわしないな」  灯りもそれほどない部屋の中で、ツィロの顔色の変化まで分かるはずがないのに。  一瞬、ツィロの頬に触れてきたギルベルトの指は温かくて、思わず彼の精悍な顔立ちをまじまじと見つめてしまう。  そんなツィロの反応をおかしく思われてしまったのか、苦笑いしたギルベルトから今度は髪をくしゃくしゃにされてしまった。  そのやり取りすらもなんだか愛おしく思えて、このまま時が止まればいいとすらツィロは思った。
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