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夜明けの異変
「ここは……?」
ひどい悪夢を見るのはいつものことだ。
今日もなんとか必死に頑張って、悪夢から目を覚ますことはできた。
原因は己の心にあると分かっていても、悪夢の中に取り残されるのは辛く、いつもなら夜明けと共に起床することが多い。
それなのに明るい陽光が、淡い色のカーテンの隙間から差し込んでいる。今日はいくぶん寝過ごしてしまったらしい。
祈りと身支度のために起き上がった青年は、自分が見慣れぬ部屋で横になっていたことに気づき、困惑した。
(昨日は、祝宴があって……しかし、終わった後は確かに自分の部屋に戻ったと思っていたが)
神殿で執り行われた彼自身の婚約式の後。
王宮へと場を移し、この国の贅を集めたと言っても過言ではない、豪華な祝宴が催された。
彼にとって宴への参加など仕事の一環でしかないのだが、彼の婚約者となった隣国の王女と、息子の地位に固執する己の母――この国の王妃にとっては宴こそ自分たちの戦場とばかりに、華やかさを競い合って見えた。
そして、その周囲には彼女たちに追従する貴族たちで溢れかえる。その光景をぴくりとも笑わずに見守る彼を、人々はまた誉めそやすのだ。
『いつ、いかなる時も聡明で冷静であられるツィロ王太子殿下』――と。
「ジャン。すまないが水を……」
王宮のすべてを把握しているわけではない。
何か事情があって、知らない部屋に運ばれたのだろうか。
いつもなら必ず近くに控えている己の侍従の名前を呼ぼうとして、ツィロはさらに困惑した。
自分が話したい言葉を、自分ではない若い男の声が紡ぐのだ。
気持ちの悪い違和感に悩みつつも侍従を探そうとして、鏡に映った別人の顔――柔らかな髪質のせいで寝癖がついた短い赤髪に、ヘイゼルの瞳。
甘めの顔立ちはしているが、背はそれほど高くなくて痩せている――を見て、ようやくツィロは自身を襲った問題を理解した。
***
「ワルター様、お待たせしまして申し訳ございません!」
状況を把握するために、部屋から廊下に出てすぐ。
この屋敷のメイドを見つけて声をかけた途端、彼女は額を廊下に打ち付けんばかりの勢いでツィロに頭を下げた。
(やはりこの顔は、ヒディア家のところの……末子ワルターのものか)
一度か二度、舞踏会で見かけたくらいだが、ツィロもワルター・ヒディアのことは知っている。
没落した貴族から爵位を買ったというヒディア当主は、更なる高みを目指して子どもらと共に社交界への顔出しに余念がなかった。
「何卒お許しくださいませ……!」
廊下のど真ん中で涙交じりの謝罪を繰り返し、小さくなっているメイド。
その指から肩から、全身を震わせていてひどく怯えているのが分かる。
「……大丈夫。立ち上がって」
もう良い。そのつもりで軽く肩に触れると、メイドは驚きのあまり腰を抜かしてしまった。
それから、大きな目をまん丸くしてツィロを――いや、ツィロの心が入り込んでしまった『ワルター』を見上げてくる。
「あの、あの……夫とは死別し、小さな子どもたちを養わなくてはならなくて……今、お屋敷を追い出されてしまうと一家で路頭に迷うことに」
「私は、貴女を罰するつもりはないと言えば分かってもらえるだろうか。顔を洗う水を探している。すまないが用意してくれ。それと……王太子たちは今どうなっているだろうか」
ツィロ自身が困惑しているのだから、目の前のメイドが混乱してもおかしくはない。
ツィロの侍従・ジャンは、ワルター・ヒディアと通っていた学院で同級だったことがあるという。
その彼から聞いた話は、ざっとこんなものである。
貴族の子息にはあるまじき、弱い立場の者に対しては横柄かつ横暴な態度。
使用人らに至っては人とも思わない。
他人の失敗には呆れるくらい敏感で、すぐに苛烈な罰を与える。
親であるヒディア子爵が大金を使い、火消しを都度行い、立場が上の者たちには媚びへつらうという。
ジャンが直接ワルターのことを知っていなければ、ツィロのところまでワルターの悪い話しが聞こえてくることはなかったかもしれない。
「あの、あの……王太子殿下は王宮にいらっしゃるかと……あ、お水……お水、急いでお持ちしますっ!」
這うようにして、『ワルター』からメイドが離れていった。『王太子』は王宮にいるという。では、自分の身体には――。
(ワルターが、私の身体のうちに在るということか?)
どうしてこうなったのかは分からない以上、ワルターに会わなければならない。
その能力の違いは千差万別と言っても、この国で貴族を名乗る者には魔力が備わっていることが多い。
そんな中、爵位を買い取って貴族に収まったというヒディア一族には、魔力を持つ者はいないと聞いているので、ワルター自身が起こした事象とは考えにくい。
犯人の真の狙いはツィロのみだったのに、ワルターも何かしらの事件に巻き込まれようとしているのなら、何とかして体を本来あるべき通りに戻さなければならない。
自分のことであるのに、そこまで淡々と考えたところで、顔面蒼白のメイドが戻ってきたのだった。
***
「はははっ、本当に成功するとは思わなかったな」
ツィロの目の前で哂うのは、この国の『王太子』――すなわち、ツィロの身体だ。
少し前。
身支度を終え、王太子への謁見を求める遣いをヒディア家の人間に頼もうとしていたところに、あちらから呼び出しがかかった。
今まで接点などほとんどなかった『王太子』からの呼び出し――今度こそ罰せられるのでは、と噂する声が馬車に向かうツィロの耳にも入って来た。
そうして王宮の、人払いされた一室に招かれたツィロの目の前に現れたのは――楽し気に笑う『王太子』だった。
いつでも優しく誠実にツィロに仕えてくれたジャンも、『王太子』の側に侍っている。
(当たり前だ。彼は本当に、私に……『王太子』に、よく尽くしてくれていたのだから)
今もきっと、ワルターの心を持つ『王太子』が自分の主だと疑いもしていないはずだ。
何より、『ワルター』として訪れた己を見てきたジャンの、初めて見る冷たい眼差しに、ツィロは心が痛くなった。
自分の主である『王太子』に、『ワルター』が何か悪さをしないか警戒しているのだ。
廊下に出るよう命じられてもジャンはしばらく渋っていたが、今までツィロ自身はほとんど使ったことのない命令口調を使われれば、侍従でしかない彼は出て行くしかない。
この部屋からは『王太子』と『ワルター』以外に人がいなくなった。
「いやー悪いな、『ワルター』。どうしても、この至高の立場から世界を見下ろしたくなってね。何と言っても、この大陸で一番美しいと言われる隣国の女と婚約するなんて聞いたら、羨ましすぎてさ! うちの親父殿がどんなに頑張ってもどうせ王族には手が届かないし。まあ、毎度つまらなそうに行事に参加しているあんたよりは、よっぽど面白おかしく生きてやるよ」
「……貴公は、今まで魔力を行使したことはないと聞いていたが」
無駄話を更に続けそうだった『王太子』の言葉を遮り、ツィロが問いかける。
すると、目の前の青年はゾッとするくらい、酷薄そうな笑みを浮かべた。
幼い頃から母に非常に厳しく躾けられてきたツィロは、元の身体で社交の場以外では笑顔を作ったことなどない。
あまりにも冷たく笑う己の顔から、目を背けたくなる。
「良い質問だな、『ワルター』。少し前に、神殿で悪魔祓いを受けるよう言われて何日間か閉じ込められたんだが、そこで見つけたのさ。がっちり鍵がかけられていたからお宝でもあるのかと思ったら本の山で、全部燃やしてやろうかと思ったが……禁術ばかりが綴られた本を見つけてしまってね」
「神殿の禁室から? あの場所は神兵も守りにつき、厳重に管理されているはずだが」
「そんなの簡単さ。やさしーくお願いして、神官殿に開けてもらった。連中も所詮、神なんかじゃない低俗な人間だ。反省したふりしてあっちが油断した隙に媚薬でも盛れば、男にも乗っかって盛るんだから。正気に戻った時のあいつらの顔、本当に見物だったぜ」
『王太子』が楽し気に話したことは、優秀と周囲から言われ続けてきたツィロでも、理解することができなかった。
「んで、奴隷の中にいた魔力自慢のヤツに『国に帰してやる』って唆したら、あらびっくり、入れ替わりの完成だ。あ、言っておくけど元には戻れないからな? 術者となったヤツも禁書も、きっちり始末しておいて差し上げたからさ」
「……殺したのか……? 罪のない者を?」
『王太子』の顔が、とてつもなく醜悪な笑みに歪んだ。
他にも、『王太子』はツィロですら耳を覆いたくなる、己の所業を楽し気に話し続ける。
「――止めよ!」
静かに、ツィロの心の中に波立ち始めたこの感情は、怒りだ。
笑い続けている己へと厳しい眼差しを向け、近づいたその時。
「うわぁあああ!!」と大声を出し、『王太子』は傍にあった花瓶などを薙ぎ払いながら、自ら派手に転倒した。
「殿下! 何事ですか?!」
即座に扉が開かれ、ジャンや護衛官たちが駆け込んでくる。
彼らの目に映るのは床に体を打ち付け、横たわる『王太子』と、立ち尽くす『悪逆の子爵令息』だ。
「わ、『ワルター』は悪くない。俺が彼を怒らせたのかも……うう」
「とにかく、その者を部屋から連れ出せ!」
護衛官たちの動きは素晴らしかった。
すぐにツィロの心を宿した『ワルター』の体を組み伏せ、ぬかりなく拘束する。
ジャンに助け起こされながら、床に組み伏せられたツィロを見て『王太子』は、ツィロに向かってにんまりと笑んで見せた。
反対に、ツィロは力づくで両脇を抱えられ、部屋から引きずり出されてしまう。
己の侍従だったジャンのすぐ横を通り過ぎた時、ツィロは必死にその袖をつかんだ。
「――『夜明けの狼』が壊れたら、躊躇なく陛下に奏上してくれ」
そう伝えるのが精一杯で、ジャンの表情を見ることすら、今のツィロにはできなかった。
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