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悪逆令息、追放される
思慮深く優しい『王太子』は最後まで『悪逆の子爵令息・ワルター』への厳罰を求める声を諫め、極刑を免れた『ワルター』は隣国にある神殿の預かりとなることが決まった。
作物も育たない僻地に追いやられるのが通常である国外追放処分から見れば、十分易しい処分であると言える。
国外の神殿をあえて選んだのは、周囲の溜飲を下げるためと、ツィロ本人が近くにいるのは、この入れ替わりの露見を避けるためだろうか。
(自分の体を殺すのはさすがに惜しいということか?)
それとも、王宮育ちのツィロを護衛する者すらいない状態で国外に追い出せば、そのうち勝手に死ぬだろうと考えているのかもしれない。
それが狙いだというのなら、まさしく狙い通りだ。
王と正妃との間に生まれた唯一の子で、生まれながら王太子となることを渇望されたツィロは、王宮の外に出たことなどほとんどない。
勉学も王宮の自室で行われ、両親と共にどこかへ行くなどということは決して許されなかった。
だから、身一つで放り出された今、どうやって生きていけばよいのかすら分からない。
(こんな終わり方も……意外と、悪くないかもしれない)
ツィロがいくら自分はツィロであると叫んでも、誰にもこの体に宿る心がツィロであることを信じてはもらえないだろう。
もし奇跡が起こって信じてもらえたとして、ワルターの話が真実であれば元に戻ることすらもうできない。
王太子でなくなった己には、もう何も残っていない。
それは『ワルター』としての過去の経緯などもあり、ツィロが引き継ぐことができるものが何もなかったからでもあるが。
しかし、二十歳近くなるまで王宮という監視下におかれ、己の生死を含めて一切の自由など許されなかったツィロにとって、これが初めて得た自由だったことに気づく。
隣国の国境から王都に向かったものの、道に迷っているうちに力が尽き、整えられてもいない道の脇に座り込んだ。
最初に持たされた食糧もすでに尽きているのに、補充するための店も見つけられない。
大きな木に背を預けて座り込み、見上げた空は驚くくらい広くて、頬を撫でていく風もなにもかも素晴らしく感じる。
(私は王太子として真実、不適格だったのだろうな)
こんな風になっても、己の地位を失ったことを少しも悔しく思うこともなく、自由を得たことに喜びを感じてしまったのだから。
疲れた。
ほんの少しだけ、休憩を。
そう思い目をとじて――次に目を覚ました時、またもツィロは見知らぬ部屋で寝かされていた。
「ああ、良かった。目が覚めたのですね。ぐっすり眠れましたか? 衰弱しているようだったので心配しました。自分はこの村の神殿に勤めております、メロウと申します」
柔らかで落ち着いた男性の声。
ワルターの身体と入れ替わってしまってから、優しく声をかけられたのは初めてだ。
驚いて硬直していると、声の主である年老いた神官は手に持っていたトレイを寝台のすぐそばに置いた。
装飾の一切ない部屋の特徴からして、ツィロは辿りついた村にある神殿の中に入れてもらったらしい。
(……こんなにも、人の声とはあたたかく聴こえるものなのか)
かいがいしく世話をしてくれる神官に礼を告げると、笑顔が返ってくる。
そして、その神官が入って来た扉が勢いよく開いたかと思うと、子どもたちがわらわらと逃げていくのが見えた。
「あの子たちは……」
「覗き見はいけませんと申しているのですが……騒がせて申し訳ありません。ここでは、親を亡くした子たちも一緒に暮らしているのです。貴方も行くあてがないのなら、気の向くままここで暮らしたら良い」
年老いた彼からしたら、ワルターの見た目も子どもに見えるのかもしれない。
しかし、縁もゆかりもない、祖国では罪人扱いの己が居座っては迷惑になるだろう。
断ろうと口を開きかけたツィロに向かって、神官は穏やかに微笑み、「せめて体調がすっかり戻るまではここにいなさい」と告げるのだった。
***
「ツィー! これ、なんて書いてあるの」
「先生、外で遊ぼうよ」
ツィロが動くたびに、子どもたちもついてまわる。
行き倒れていたのを年老いた神官・メロウに拾われてからというもの、彼の提案で子どもたちにちょっとした勉強を教えることになった。
最初は正体不明の異国人を好奇心で遠くから見ていた子どもたちだったが、寝食を共にしているうちに自然と距離は近づいていった。
人は、こんなにも感情表現が豊かな生き物だったのか――そんなことを、ツィロは毎日思う。
ツィーという呼び名は、メロウと決めた。
預かり先の神殿に提出するつもりだった身上書を出した上で、メロウは「新しい名前を決めましょう」と申し出てくれたのだ。
ワルターと名乗ったら自分がそのままワルターそのものになってしまいそうで、せめてもの抵抗でもあった。
「こらこら、そんなに引っ張ったらツィーの服が伸びてしまうでしょう」
「メロウ様、大丈夫です。裁縫も少し、できるようになりましたから」
書斎から顔をだしたメロウに窘められたのに、子どもたちはメロウへと近寄っていく。
子どもたちの授業が終わったことを報告すると、メロウは微笑みながら子どもたちの頭を順番に撫でていく。
それから、自分と大して背丈の変わらないツィロの頭も、軽く撫でていった。
前なら、不敬だと周囲が騒ぎ立てたかもしれない行為。
けれど、母からも優しく触れてもらった記憶など一切ないツィロにとって、他の子どもらに向けられるのと同じメロウの慈しみを受けているうちに、過去の己がどれほどつまらない人間だったのかを思い知るようになった。
そんな話しすらも、メロウは真剣に聴いてくれる。
「では、ツィー。街への買い出しに付き合ってくださいますか」
「もちろんです!」
今まで、メロウは食糧の買い出しなどを一人で行っていたのだという。
王都から巡回にくる騎士たちが手伝ってくれることもあるというが、ここに来てから間もない頃、一人で買い出しに行ったメロウが息つきながら大量の荷物を運んで来たのを見た時の衝撃は忘れられない。
それでもメロウは笑っていたが、次の日は立ち上がるのも少し辛そうだったのをツィロは見ていた。
ツィロの今の身体――ワルターが追放された身であることを、メロウは知っている。
財布や帳簿に近づくことにもなる買い出しを手伝うと言っても、良い顔はしないかも――そう思いながらも手伝いを申し出たツィロを、メロウは快く街へと連れ出してくれた。
「メロウさん、良い魚が入りましたよ」
「猪肉が手に入りましたぜ! この辺りを荒らしていた、とびっきり威勢のいい猪さ!」
メロウが市場を歩くと人々がこぞって声をかける。
なるほどとすぐ見に行ってしまう老神官を諫めつつ、目的どおりの食糧を買い込むことがツィロの役割になりつつある。
「メロウ様。私が魚を釣ってきますから。子どもたちから、焼き菓子をねだられていたでしょう?」
そうでしたねとメロウが穏やかに微笑んだ。
一通り目当てのものを買い込み、最後に子どもたちの土産にする焼き菓子を買い終えたのと、「危ない!」と人々が悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。
子どもをその背に乗せた大きな馬が、制御の効かない様子でまっすぐにこちらへと向かって来たのだ。
咄嗟にメロウを自分の後ろに庇いながらも、ツィロは急いで周囲を見回す。
自分も一緒に逃げるのは簡単だが、己の後ろにも人はたくさんいるのだ。
「風の精霊! 私にまだ協力してくれるのであれば、あの馬を風の壁で囲め!」
ワルター・ヒディアに魔力がないことは聞いている。
魔力があるとしても、精霊たちにそっぽを向かれてしまったら力を発動することはできない。
それを承知で、必死に声を張り上げたツィロの要請に、確かに風の精霊たちは答えてくれた。
馬は唐突に現れた見えない壁に驚き、棒立ちになって背中の主を振り落とす。
それから誰もいない方へと向かってそのまま走り去っていった。
「大丈夫?」
馬から振り落とされ、地面に投げ落とされた子どもにすぐ駆け寄る。
風の力でできる限り衝撃からは守ったので酷い怪我は見えないが、痛みを感じてすぐに泣き出さないのは危険だ。
そう判断すると、今度は治癒が得意な水の精霊を呼び出す呪文を唱える。
ぽかんとした様子でツィロを見ていた子どもだったが、やがて何度か瞬きした後に泣き出した。
「殿下! ご無事ですか?!」
そうして、少し後に駆けつけてきた騎士たちにツィロは子どもごと、取り囲まれることになるのだった。
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