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『ワルター』を知る者
「あの方はこの国の第三王子殿下です。いやあ、すっかり大きくなられて……やんちゃばかりで従者たちを困らせている様子でしたので、たまには良い薬でしょう。それにしても、騎士たちも情けないことこの上ない。助けたツィーに向かって」
「メロウ様、私は気にしていませんから」
泣き叫ぶ幼い王子の側にいたツィロは、お前が何かしたのかと射殺さんばかりの目で騎士たちに睨まれたものの、すぐメロウが間に割って入ってくれて、誤解が解けたので助かった。
落ち着いてから聞かされた子どもの正体に、さすがのツィロも驚く。
「第三王子殿下、だったのですね。何か大切な用事があったのでしょうか」
「おそらく、勉学のためでしょうねえ。我が国では、子どもの頃から民の暮らしを学ばせるために王の子たちもあちこちの街を巡察しますから。厳しいお目付け役がいても、子どもらには楽しいピクニックみたいなものでしょうね」
苦笑いを浮かべたメロウが、騎士たちに囲まれている第三王子に挨拶をしに行くと言い、ツィロから離れていった。
先ほどの騒動も落ち着き、神殿に帰ることになった。
第三王子もその護衛騎士たちも、メロウのことを良く知っていると言う。
結局、彼らはメロウのところに一晩泊まることとしたらしく、滅多に使われることのない客間に彼らを招き入れた。
第三王子の護衛として随行した騎士は、馬を追いかけていた者たちの他にもいて、夕方になってから彼らは神殿で合流した。
この施設から巣立った者もおり、時折顔を出しているとかで、子どもたちとも顔なじみだという。
その場にいるみんなで和気あいあいと楽し気に笑い合う雰囲気にツィロはどうしても入れない。
遠くから楽し気な様子を眺めているだけで十分と離れて座っていたツィロの前に、一人の騎士が現れた。
ツィロの元の身体と同じ黒髪の持ち主で、子どもたちが一目見て憧れそうなくらい騎士としてめぐまれた体格と、気品も感じられるとても整った顔立ちをした青年だ。
「どうかしましたか、騎士殿」
「騎士殿? あの悪辣なヒディア家の子息殿が、随分とお上品になったことだな。俺の顔も忘れたか?」
硬い男の口調。
そして、彼の発した言葉に混じるのはこの体の、ワルターの家名だ。
挨拶のために下げた頭を勢いよく上げると、まるで鷲を思わせる黄玉色の鋭い眼差しが、ツィロを見下ろしていた。
「どうしてお前がここにいる? 国を追われたにしても、ここは罪もないのに帰るところを失った孤独な者たちが集う大事な家だ。お前のような卑しい心の持ち主が、汚い足で踏み入れて良い場所ではない!」
目の前の騎士は、間違いなくワルター・ヒディアを――この身体の持ち主の所業を、知っている。
だが、それもツィロには想定済みのことだった。
ヒディア家末子のワルターはヒディア子爵が酒屋の娘に手を出して生まれた子だと聞く。
成長するにつれ、父とは違う赤い髪が目立ち始めた彼は、国境を越えて貴族の子どもたちが集う学院へと親に押し込められた。
そこでも、彼は中々の悪童ぶりだったという。
同じ学院に在席していた者たちの人数も多かったというから、どの国にも、ワルターのことを知っている人間がいてもおかしくないのだ。
たとえば、ツィロの侍従であるジャンのように。
「何が狙いかは知らないが、さっさとここから消えることだ」
つい先ほどまであの穏やかで明るい輪の中に彼もいて、子どもたちに笑いかけているのをツィロは見ていた。
ツィロとしては初対面だが、彼もまた、時折ここに訪れてメロウの手伝いをしている騎士の一人なのだろう。
子どもたちが懐き、メロウに信頼され、第三王子の護衛の任まで与えられる騎士――そんな相手から嫌悪される、この身体。
何も言い返せず、一礼してこの場から離れようとしたツィロだったが、いつから聞いていたのか、メロウと第三王子が柱の影から現れた。
「メロウ神官長、何故ここに」
「『元』神官長ですよ。今は隠居した、ただの年寄りです。それよりギルベルトよ。何やらツィーにただならぬ想いがあるようだが、彼はこの神殿で正式に預かりとなった人間です。勝手に追い出されては困りますね。貴方は、ここでの彼の暮らしぶりなど何も知らないでしょうに」
いつになくメロウが厳しい口調で騎士に応じる。
ツィロの方が驚いていると、すっかり元気を取り戻した様子の第三王子が「そうだぞ!」とメロウに加勢した。
「ツィーは僕にとっての恩人だ。ツィーがいなかったら僕のせいでメロウや他の人たちにぶつかってしまったかもしれないし、痛かったところも、精霊の加護でパァッて消してくれたんだ。だからギルも、ツィーをいじめるのはダメだぞ!」
「この男はツィーではなく、ワルターという名前のはずですが。精霊の加護というのは? メロウ……元神官長のお力の間違いでしょう。彼は、精霊への信仰心などひとかけらも持たない人物です。ありえません」
違うぞ、と第三王子が怒り出したのを、メロウがなだめる。
「とにかく! ギルがツィーに謝るまで、ギルはメロウのところにいること!」
涙混じりに命令した幼い主に、彼の騎士は表情を消し「御意」とだけ答えるのだった。
***
「ツィー。ギルにいじめられているって、ほんと?」
第三王子たちが王都に戻った後も残り続ける騎士をちらりと見やって、子どもの一人が密やかに尋ねてきた。
同じ質問をしてきたのは、これで何人目か分からない。
最初は神殿の子どもたちがツィロに近づくのも警戒していた騎士――ギルベルトだったが、数日経つと子どもたちから怒られて、今は少し離れた場所でこちらの様子を見ている。
心配げに――好奇心の疼きも垣間見せながら――尋ねてきた少女に「いじめられてなんかいないよ」と笑って返事をする。
時間が経っても、ギルベルトはツィロ、すなわち『ワルター』への警戒を緩めていない。
かといって、挨拶をしたツィロをあからさまに無視することもしない。
不機嫌そうにしぶしぶといった感じではあるが。
しかし二人の間に流れる凍てついた空気に子どもたちは敏感で、とうとうメロウによって子どもたちの近くから離されてしまい、二人揃って台所へと追い出されてしまった。
粛々と夕食の準備を始めたツィロを驚いた顔で見ていたギルベルトだったが、自身もすぐに動き始める。
騎士はいざという時も生き残れるように何でも教え込まれるとは聞いていたが、彼もご多分に漏れずといったところらしい。
しかも、勝手に動き回るのではなく、何を作るのか、ツィロは何をするつもりなのかを確認してから行動している。
彼は、誠実な人間なのだ。
『ワルター』とは大いに違って。
「自分より身分が低い者たちの食事を床にぶちまけて嘲笑っていた人間が、食事を作る側になるとはどういう気分だ」
「そんなことも……」
していたのか。
ジャンは恐らく、ツィロの耳に入れるのを必要最低限にしていたのかもしれない。
王族だからこそ、口に入れるものは大切にせよと、ツィロは幼い頃から厳しく躾けられてきた。
自分の――『ワルター』の手のひらを見つめる。
男のものにしては綺麗だった指はあちこちにたこができて、すっかりと荒れているが、この手が多くの人々を傷つけてしまったのだ。
ツィロ自身がしていない行いに謝ることはできないが、かといって、このワルターの身体のままで、己はワルターではないと反論することも難しい。
諦観しながら食事を作り終えると、騎士は無言で台所から出ていった。
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