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魚獲りと敬虔なる祈り
「そこで何をしている」
とある日の朝。
低く硬い声音での詰問に、白い息を吐きながらツィロは立ち上がった。
未明の空はまだ深い蒼の静寂に包まれていて、自分以外に起きているのはメロウだけかと思っていた。
しかもここは、神殿から続く林道の先にある湖のほとりだ。
「おはようございます、ギルベルト卿。お早いですね」
「常からこの時間には起床している」
メロウに挨拶していたのが聞こえていたのだろうか。
ギルベルト・アーシューから皮肉といった言葉以外をかけられたのは初めてで、ツィロは戸惑いつつも頷く。
「今は、魚捕りの仕掛けを準備していました」
「……仕掛け?」
訝しんだギルベルトが、松明を片手にツィロの手もとを覗き込んでくる。
漁師に教えてもらった、ツィロ手作りの不格好な魚捕り用の仕掛けを見て、騎士が小さく笑うのが分かった。
「個性的な造りだが、良い仕掛けだな。まさか――」
「自分で作ってみました。こういった道具は今まで見たこともなかったのですが、すごい仕組みですよね! 沈めておくだけで、魚が自分から入ってきてくれるなんて。できればメロウ様が喜ぶような美味しい魚が飛び込んできてくれたらいいなと思うのですが、待ち構えているのが分かってしまうのか、なかなか飛び込んではくれないのです」
ほんの僅かな、打ち解けた雰囲気。
暗くて相手の表情も分からないからこそ、ツィロはギルベルトの返事を期待することなく話を続けられた。
ほとりに膝をつき、再び作業を始める。
無言で手伝い始めたギルベルトに驚きながら礼を言うと、「早く終わらせろ」とだけ返ってくる。
静謐な場所に、道具を扱う音とたまに火がはぜる音だけが聞こえて――思っていたよりもずっと穏やかに時が過ぎていく。
一通り仕事を終えた頃には、空が白み始めていた。
夜明け近くは、ツィロにとって最も大切な祈りの時間だ。
ギルベルトに断りを入れるとその場に跪き、故国の大神殿と、この国の大神殿がある方角それぞれに祈りを捧げる。
ツィロの祈りを聞きつけた精霊たちが反応し、ツィロの周囲に六花に似た優しい光を舞わせていく。
精霊を祀るのはこの国でも、故国でも同じ。
生まれた時から自分を守護し続けてくれる精霊たちに感謝を唱えるのは、ツィロのごく当たり前の日常だ。
そしてこの国の人々も精霊に祈りを捧げるのは同じだが、ツィロたち故国の王族となると祈る時間が異なる。
その者が生まれた時間に祈りを行うので、夜明けが祈りの時間となるツィロは、今までメロウやジャン以外にその姿を見られることはなかった。
今日の祈りも無事捧げられたことに安堵して立ち上がったツィロの腕を、唐突にギルベルトが掴んできた。
もう片方の手に持っている松明の炎のせいか、彼の双眸がより鋭い光を放って見える。
しかし、今までと違って力はそれほど込められてはいない。
「……お前は誰だ? 俺の知っているワルター・ヒディアは、精霊像に唾を吐きかけるような男だった。たとえメロウ様の言う通り改心したのだとして、こんなにも精霊に愛される美しい祈りを捧げられるようになるとは到底思えん」
「メロウ様に、いろいろと教えていただいたのです」
「なるほど。だが、何故この夜明けの時間に祈りを? メロウ様の教えだというのなら、就寝前に行うはずだ」
入れ替わってしまったのだから、どんなにツィロが真実を訴えても、信じてもらえるわけはないと最初から諦めていた。
それなのに、まさか自分の正体を――この身体が『ワルター』のものだと知った上で、疑う者が現れるとは。
「……夜明けは、私にとって特別な時間なのです。それから、私が何者であるか真実を告げたとして、それはもう意味のないことでしょう。『彼』の話によれば、もう元に戻る術はないそうなので」
意味が分からない、とか。
そんな言葉が返ってくると思ったのに、少しの静寂の後ギルベルトが返したのは「本当に、方法はないのか?」というものだった。
「私の話を信じるつもりですか? 演技で他人を騙すことに微塵の罪悪感を覚えることのない悪辣な私が、心の中で嘲笑っているかもしれないのに?」
挑発的なツィロの言い方に、ギルベルトの形良い眉が顰められる。
しかし、彼の眼差しに蔑みとか嫌悪といったものは見受けられなくて、ツィロの方が困惑してしまう。
「すべてを信じるかどうかは、まだ決めかねている。だが、お前が殿下やメロウ様を危機から救ってくれたのは間違いなく真実だ。なかなか素直に言い出せず礼が遅くなってしまったが、感謝している。事情をしっかりと聞こうともせず、貶す発言ばかりしてすまなかった」
ギルベルトが、ツィロに謝意を伝えてくれた。
それだけで胸の中にいろんな感情が込みあげてきてしまい、ツィロは今、自分がとてつもなく変な顔をしているのではないかと心配になった。
「ああ、それと。一つだけ言っておく。お前は、嘘をつくのも演技も下手だ」
「え!?」
思わず驚きの声を上げたツィロの耳に届いたのは、堪えるのに失敗した騎士の笑い声だった。
***
「王都、ですか。メロウ様、どうぞお気をつけて」
「いやあ、行きたいのはやまやまなのですが。こんな年寄りを田舎から動かすなんて、悪の所業だと思いませんか? というわけでツィー、貴方に行っていただきたいのです」
出立の準備を先に終えたギルベルトが、感情を読ませない顔でこちらを見ている。
きっと、ギルベルトも嫌いな男の顔をしたツィロと行くより、メロウと一緒に行きたいはずだ。
「第三王子殿下も、メロウ様にお会いしたがっているのでは……」
「会いたければ、また遊びにきても良いですよとでも伝えておいてください。ささ、早く出立しないとあちらに着くのがどんどん遅くなりますよ」
ツィロがメロウに拾われる前は、メロウが大半のことを一人でやって来たと言うし、子どもたちもいるのだから心配はいらないだろう。
なんといっても、彼らにとって危険そうな不穏な気配はこの街にはない。
ツィロは困り果てて、ギルベルトへと視線を向けた。
「ギルベルト卿だって……」
「俺はどちらが一緒でも構わない。それから、お前にギルベルト卿と呼ばれるとゾッとする。呼び捨てで良い」
口調こそまだ素っ気なくはあるものの、初めて会った時よりもずっとツィロに対するギルベルトの態度も眼差しも、柔らかくなった気がする。
戸惑いながらも王都行きを了承すると、メロウは何故かギルベルトの背を力いっぱい叩いたのだった。
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