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隣国の王太子殿下
「ツィー! 待ちくたびれたぞ。途中でギルにいじめられなかったか?」
ツィロの姿が現れるのをずっと待ってくれていたのか、階上の踊り場から身を乗り出しつつ、第三王子が大きくツィロへと手を振って歓迎してくれる。
それから駆けおりてくると、挨拶をしようとしたツィロを制止してぎゅっと手を繋いできた。
「ツィー殿に城の中を早く案内したくて、待ちわびていらっしゃったのですよね。いつもはお寝坊さんなのに、今日はとっても早起きなされて……さあ、レイス様」
「べっ、別にツィーのためではないぞ!」
先ほど、踊り場から身を乗り出しかけた第三王子――レイスが落ちないようにとさりげなく押さえていた従者が、笑顔で言い添える。
メロウたちのところにレイスが来訪した際からレイス付きの従者である彼とも面識はあったが、レイスだけではなくみなが歓迎してくれているのが分かって、ツィロはくすぐったい気持ちになった。
「レイス様、最初に大事なお話をしませんと」
「うむ。実はだな、今日はちょっとした食事会があって、それにツィーを招きたいのだ! 僕の恩人だとツィーのことを話したら、父上たちも挨拶したいと言い出して。服などはこちらで用意するから、ぜひ参加してほしくて……」
「恩人とは恐れ多いですが、私でよければぜひ」
ツィロが返事をすると、レイスの顔には年相応の、少年らしい満面の笑顔が浮かんだ。
自分でも図々しいのではとは思ったが、周囲からどう思われてもツィロのことを招こうとしてくれている少年の思いやりに応えたかった。
これが良くないことであれば、すぐに止めてくれる周囲が彼にはいる。
それから客間へと元気よく案内するレイスと共に歩いているツィロの視界に、こちらへと向かって歩いてくる一行が映った。
「ツィー、どうした」
一歩後についていたギルベルトにそっと声をかけられても、すぐに返事をすることができない。
向こう側から歩いてくるのは――かつての自分なのだから。
「ああ。あちらは姉上の婚約者である隣国の王太子、ツィロ・リーシェ殿だ。彼の国で婚約式を挙げたあと、しばらくこちらに滞在されていた。姉上は常々、容姿の優れた男でなければ結婚しないと言っていたから、念願叶って何よりなのだが……ツィロ殿にとって幸せかは分からない。姉上は民たちには慈悲深い方ではあるが、身内にとっては顔の整ったゴリラ……いや、トラ……?」
「殿下!」
すぐに従者から窘められて、レイスが唇を尖らせる。
視線を逸らしていても、こちらに向けられている眼差しは、気のせいではないだろう。
「大丈夫か? 顔色が悪い」
大丈夫です。
そうギルベルトに返したいのに、喉がひりついて上手く答えることができない。
みなが一斉に隣国の王太子――『ツィロ・リーシェ』に挨拶をする中、ツィロも周囲にあわせて頭を下げたが、目の前にはかつての自分自身が冷笑を浮かべて立っていた。
「これはこれは。我が国から追放されたワルター・ヒディアじゃないか! 散々我が国で悪逆の限りを尽くしておいて、ノコノコとこんなところを歩いているとは。ああ、私の目が穢れてしまう。――どけ!」
優越感に満ち満ちた表情をした男に、強く肩を押される――それでも倒れなかったのは、レイスとギルベルトが支えてくれたからだ。
「ツィロ殿、危ないではないか!」
「ああ、これは失礼を」
咎めたレイスにだけ慇懃に礼をして、『ツィロ・リーシェ』が去っていく。
自分が『ワルター・ヒディア』であることはギルベルトもメロウも知っているのだから、そのうちレイスや神殿の子どもたちにも知れ渡っていくのだろうとは思っていた。
まさか、かつての己の身体から暴かれることになるとは。
それなのに、すぐに降ってかかってくると思っていた疑念の声や罵倒はない。
レイスは隣国の王太子が歩き去っていった方向を憮然とした面持ちで見やってから、もう一度ツィロの手をしっかりと握ってきた。
「……ツィーが隣国にいられなくなって、我が国に来たという話はもう聞いて知っているのだ。でも、僕にとってのツィーは、大切な恩人でそれは真実。ツィーは、この国では『ワルター』とやらではなくツィーなのだろう? 僕は、自分が見たことを信じたい。だから、変に考えて我が国から離れなくていいし、ツィーが飽きるまでずっとここにいてくれればいい。今のツィーが本当に今も悪者なのなら、見破れなかった僕が未熟だったというだけのことだから」
鼻息荒くそう言い切ったレイスが、また歩き始める。
己を思いやってくれた力強い言葉に、立ち止まっていたツィロも一緒に歩き出した。
しかし、先ほどまでツィロの後ろを歩いていたギルベルトの姿は、そこにはなかった。
一通りレイスから王宮の中を案内してもらい、休憩のために一人通された客間に訪れてきた人物を見て、ツィロは驚いて椅子から立ち上がった。
かつて自身の侍従だった、ジャンが現れたのだ。
故国から離れる間際に見た時よりもずっと顔色は悪く、もともと痩せている方ではあったが健康的で笑顔の似合う青年だったのに、今はやつれて見える。
彼はツィロの周囲に誰もいないことを確認してから部屋に入って来たものの、ツィロと目を合わせようとはしない。
それもそうかとツィロは肩を落とした。
ワルター・ヒディアは自分よりも立場が下と看做したものは、ことごとく酷い扱いをして来たと聞く。
ジャンにもきっと、この身体はそういった酷いことをしていたのだろう。
「……我が主より、今宵の舞踏会の際にお話があるとの言付けを賜った。主の挨拶が終わったら、中庭へと向かうように。誰かを連れてきたら、我が主への害意があるとみなす」
「承知した。ところで、ジャン……殿は、体調が悪いのではないか? 顔色が良くないように見える」
ようやくジャンがツィロを見てきた。
それから、「どうして」と泣きそうな声で呟く。
「ワルター・ヒディア。どうしてお前が、ツィロ様の生まれ名を口にできた? あれは、王族が自分の忠臣として認めた者にしか……誓約を受け入れた時にしか明かさないもので、盗み聞きしたとしてもその音を口にすることもできないはず。それに、どうしてお前がギルベルト卿と一緒にいる? 学院時代、ギルベルト卿に嫌がらせをしようとしてはあっさりとやり返されて恨んでいたのに。お前は……貴方様は、いったい」
ツィロの生まれ名は『夜明けの狼』という。
王族が誕生する際に精霊から贈られるといわれており、ジャンの言う通り誓約した者と本人にしか、その名は明かされないし発音もできないとされている。
だが、当人以外の者が生まれ名を尋ねることは厳しく禁じられているので、今の『ツィロ・リーシェ』に対して尋ねることは誰にもできない。
ジャンに何も言えないでいると、諦めたのか嘆息を一つつき、ツィロのかつての侍従は部屋から去っていってしまった。
***
「久しぶりだな、ジャン」
「これはギルベルト・アーシュー卿。ご無沙汰しておりました」
わざとらしい言い方に、旧友が何かを警戒していることを悟りギルベルトはそっと周囲を窺う。
少し離れた場所にはジャンの主である隣国の王太子が、己の婚約者と並び立っている。
容姿だけなら一幅の絵になりそうな美しい二人だが、先ほど『ワルター・ヒディア』を見てきた彼の王太子の眼差しがずっと気になっていた。
(あれは……そうだ。かつての、ワルターそのものだった)
隣国の王太子と面識があったわけではないが、ジャンからは彼の王太子が次代の王に相応しい優れた人物であることを散々自慢されてきたものだ。
その自慢の主のすぐ傍だというのに、ジャンの顔色は優れない。
そのジャンも、先ほどまでどこかに行っていたようだが、戻ってからは顔色が悪いままだ。
「警備のことで確認がある。少し時間をもらえるか」
「かしこまりました」
ギルベルトの提案に頷き、ジャンが己の主へと離席を告げに行く。
ちらりとこちらを見てきた王太子は、ギルベルトに気づくと一瞬嫌悪の眼差しを向けてきた。が、すぐに顔を背けて、婚約者たちとの談笑に戻る。
彼らの笑い声が聞こえないくらい離れたところで、かつての旧友は深い嘆息をついた。
「あれがお前の自慢の主人なのか?」
再会を喜ぶこともなくそう問いかけると、ジャンは隣国の王太子たちがいる方を一瞥してから「もちろん。かつては自慢の主人でした」と返してきた。
「それより、こちらこそ己の目を疑ってしまいましたよ。ギルが、あのワルター・ヒディアと一緒に歩いているのを見るなんて」
「俺だって、最初はなぜここにあいつが、とは思った。どうせ悪どいことばかりして、国から追われたのだろうとは想像できた。よりにもよって我が国に放つとは……と。そして、俺のかつての恩人を騙して神殿に住み込んでいるのだと警戒してきた。しかし、今のあれがワルター・ヒディアだと言うのなら、ヤツの身体だけそのままで生まれ変わったとしか言えないくらい、中身がまったくの別人になっている。あれが国から追い出された時、何かおかしなことはなかったか?」
ギルベルトは、どうしてもそのことを聞いておきたかった。
ジャンは俯きながらギルベルトの話を聞いていたが、問われてもゆっくりと首を左右に振るだけだ。
「……異変があったとして、自分が主人を疑うわけにはいかないんだ」
「たとえばの話だから、聞き流してほしいのだが。禁術で、ワルター・ヒディアがお前の主人と入れ替わることができたとしたら? 先ほどの王太子殿下の眼差し。彼は本来、他人をあのように侮蔑の眼差しで見る人物だったのか? 相手があのワルターだったとしてもだ。お前からの手紙に、主人は高潔な人物と書かれていたと記憶しているが」
「ツィロ様は、そもそもワルターとの面識は皆無に近かった。俺がたまに、話題にしたことがあるくらいで。……それでも、彼がそうなった背景を思慮するようなお方だったよ。俺の、かつての主人は……」
力なく、答えにならないジャンの答え。
(だから、『ツィー』と名乗っていたのか……最初から、彼は)
ワルターの中に入っている魂が、隣国の王太子、ツィロ・リーシェのものだとしたら。
すべてが納得でき、つじつまが合う気がする。
隣国の王太子という高貴で雲上の人物の性格や人となりなどは、面識のないギルベルトには知らないところだが、ジャンが常々己の自慢だと熱心に語っていた主人像にツィーは結び付く。
「ジャン。お前の主人は、精霊の加護を失ったのではないか? それから、夜明けの祈りも行わなくなったのでは?」
「なぜ、ギルがそれを知っている!?」
ひどく驚いた顔でこちらを見上げてきたジャンの表情が、ギルベルトの欲しかった答えをくれた。
この入れ替わりを証明するには、元になった禁術のことや、術を行った者を暴く必要があるはずだが、ツィー……いや、ツィロ・リーシェ自身が『元に戻る術がない』と言っていた。
彼と言葉を交わしたことは、共に過ごした時間は、それほど多くはない。
メロウ元神官長や神殿の孤児たちみたいに、寝食を共にしてきたわけでもない。
それでも、心の美しいツィロのことを考えると、心中穏やかでいられなくなる。
ギルベルト自身もこの国の王族の系譜に連なっているとは言っても、隣国の王太子とは本来、親しく言葉を交わすことなど到底できない。
「先ほどの仮定の続きだ。ツィロ王太子殿下がもし元の体に戻れるとして、彼は幸せになれるのだろうか」
こんな問いかけを、王太子の誠実な侍従であるジャンにしたところで、答えは決まっているはずなのに。
しかし。
旧友から戻ってきた短い返事は、ギルベルトの決意を固めるのに十分だった。
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