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本当の名前
いよいよ王女が隣国に嫁ぐことになるのを祝して行われた祝宴は見事で、王たちへの挨拶も無事終わり、その後から行われた舞踏会の華やかさを横目にツィロは中庭へと向かった。
舞踏会まですべてが終わったら、彼らはツィロの故国へと戻り結婚の儀式を執り行うことになる。
こんな祝いの場に参加できるはずなどなかったのに、第三王子・レイスがいろいろと用意してくれていた。
そんなレイスは、ギルベルトたち騎士を従わせて立派に来賓たちの相手を務めている。
本来なら自分も自国ではその立場であったし、務めを果たせなくなった己に罪悪感を覚えるが、こうして離れてみるとツィロという個人が必要とされていなかったように思えてならない。
(現に、私が『ワルター』となり国から離れている今も、問題なく国は国として成り立っている。むしろレイス殿下すらご存知の市井の暮らしといったものも、殿下よりもずっと年が上だというのに私は何も知らないままだった。母にとって、子は己の血脈を繋げるための器で……その中身など、関係がなかったのかもしれない。私には、政治の道具になることすら許されていなかったんだ)
だから、現在の王太子の中身がワルターであっても国の行方には影響していない。
王太子・ツィロには――もしかしたら王である父にも、何かを動かす力は与えられていなかったのだろう。
こうして元の場所から離れることがなければ、外の世界を知らなければ、愚かにもそんな簡単なことにすら気づけなかったかもしれない。
だが、気づいてしまった以上、自ら考えて動くこともできなかっただろう己が王太子の座にあり続けることこそ、最も危険なのではないかとすら思えてくる。
(私は……奇跡が起こって元の私に戻れたとして、また同じ日々を繰り返すのだろうか?)
変わろうとすることを決して許されなかったあの場所で。
「久しぶりだなあ、ワルター」
考え事をしていたツィロは、声をかけられてようやく自分が数人の男に囲まれていることに気づいた。
中庭には他に人影はなく、ジャンや『ツィロ』たちの姿はない。
「相変わらず顔だけは男のくせに可愛いな。とうとう国を追い出されたんだって?」
男たちは故国の特徴のある服を纏った従者の格好をしている。
誰が連れてきたのかなんて、一目瞭然だった。
下卑た笑みを浮かべ舌なめずりをする下品さに、ツィロは眉根を寄せた。
「おいおい、睨むなよ。俺たちを散々利用して自分だけがお貴族様になった途端、音沙汰なしだなんて寂しいじゃないか。お前の頼みで俺たちがどれだけ悪事に加担してやったことか!」
「それにしても、国から追放された割にはお綺麗な服を着ているなあ。早速男でも見つけたのか? だが、残念だったな。お前のことが邪魔で仕方ないお方がいらっしゃるんだ。大金チラつかされたらさ、情に厚い俺たちでもどうしようもないんだ。分かってくれるよな?」
ニヤニヤとした髭面の男が、ツィロの襟元を掴んできた。
肥えた体格をしているのに、動きは素早い男たちに腕を取られ、動けないでいるうちに髭面の顔が近づいてきて、口元に男の唇を押し当てられた。
「無礼な!」と一喝しても、男たちは「な~にが無礼だ!」とケラケラと腹を抱えて笑っている。
「殺せと言われたんだがなあ……お前、記憶でも失ったのか随分可愛い反応するようになったじゃないか。本当の貴族のお坊ちゃんを痛めつけているみたいで、気分がいいや。愉しませてもらってから、お前の大好きな殺し方で殺してやろうな」
叫ぶ前に口を塞がれては、精霊を呼ぶための詠唱も使えない。
しかし、これもこの身体――ワルター自身が招いたことだというのか。
(この手は、どれだけ多くの人々を傷つけたのだろう)
ワルターには彼を正してくれる友人も家族もいなかった。
そしてあらゆる悪事を、あの笑顔を浮かべながらこの身体で、幾つも幾つも行ってきて――その報いを今、受けようとしているのか。
ふと、ギルベルトと語り合った昨晩を思い出す。
『ワルター』が欺いているかもしれないのに、また酒を飲もうと約束してくれた。
ここで『ワルター』として終わってしまったら、何故か彼を裏切ることになりそうな、そんな気がする。
「おい、どうしたよ」
ツィロを後ろから押さえつけている一人が揶揄の声を上げる。
先ほど無理やり口を近づけてきた虎髭の男を自分にできる限り精一杯睨みつけると、男は一瞬怯んだ様子を見せた。
「……そのまま動くな。どこから潜り込んだ?」
静かな、しかし確かな怒りを孕んだ低い声。
第三王子の側に付き従っていたはずのギルベルトが現れたので、男たちだけではなくツィロも驚いた。
騎士の正装に身を包んでいるのに、無駄のない動きで男たちを制圧していく。
ツィロを捕らえていた男がツィロを盾にしようとしたが、それはツィロが短い詠唱で精霊を呼ぶことで防ぐ。
突然自分を襲った炎に悲鳴を上げて男は勝手に離れていった。
すぐにギルベルト以外の騎士も駆けつけてきて、場は一気に騒然となる。
ギルベルトに手を掴まれて連れ出されたツィロだったが、あの場で死ぬとばかり思っていたので、しばらくは声を出すこともできなかった。
「怪我はないか」
「はい、大丈夫です。助けてくださって、ありがとうございます」
中庭の奥へと進み、東屋へと行きついたところでようやくギルベルトから声をかけられた。
彼はとても不機嫌そうだ。
それもそうだろう、ツィロの――『ワルター』のせいで本来の職務ではないことに巻き込まれたのだから。
「あの連中とは知り合いなのか?」
「いえ……ええと、『ワルター』の知り合いではあったみたいです」
「悪いが、私情が入って止められなかった。文句があるなら聞く」
ギルベルトからの問いの意味が分かりかねてツィロが目を丸くしていると、「すまない」とギルベルトの方が先に口を開いた。
「遠くからだが、男に口づけられているのが見えた。その身体はワルターのものだろうが、ツィーが他の男に触れられているのを見たら、冷静ではいられなくなったんだ」
「私も、突然唇を押し当てられるとは思っていなかったので驚きました。挨拶ではないでしょうし……それに口を塞がれると精霊の力を使うことができなくなるのは私のうっかりでした。彼らはこの身体、『ワルター』を殺すつもりだったみたいです。ギルベルトが駆けつけてくれて本当に助かりました」
そう言葉を返したツィロの顔のそばで、ギルベルトが水の力を使う。
よごれた部分を清める際に使うものだが、それがギルベルトの気遣いであることに少ししてツィロは気づいた。
「この身体は誰からも恨まれていて、殺されても仕方はないのだろうとは思ったのですが」
「それは……否定しきれないが」
まだ、不機嫌そうにギルベルトが相槌を打つ。
でも――ゆっくりと、ツィロは続けた。
「貴方と、もう一度お酒を飲みたかったと思ったら、死ぬのが惜しくなってしまいました。貴方は、私の魂を救ってくれたから」
もういい。
今度は、温かみのある声で。
耳元で囁かれたことに驚いたツィロは、しっかりとギルベルトの逞しい腕に抱き寄せられていた。
「ギルベルト卿……ギルベルト?」
困りながら彼の名を呼ぶ。
「俺に、ツィーに口づける許可をもらえるだろうか」
「私に? どうぞ……?」
すぐに啄むような口づけを受けて、ツィロは固まった。
あの虎髭の男にされたものとは正反対の、甘ささえ覚える優しい感触に心が震える。
「……貴方の本当の名前は、ツィロ・リーシェ王太子殿下だ。違うか?」
「! どうして分かったのですか?」
肯定よりも先に問いかけたツィロだったが、急激に膨れ上がった精霊の力に驚き、強い眠気と眩暈を覚える。
これは、ワルターと入れ替わってしまったあの朝に感じたものと同じだ。
意識を失うまでツィロにできたのは、ギルベルトの服の袖に触れることくらいだった。
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