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また一から
「ツィロ様、お目覚めですか!?」
泣きそうな顔で覗き込んでいる己の侍従に気づいて、ツィロは笑顔で頷いてみせた。
驚くジャンの顔を見て、王太子である自分は笑ってはいけないのだったな、と思い起こす。
それにしても、ジャンに自分の名前で呼ばれたのが懐かしく思えるくらい、久しぶりに感じる。
ツィロの側にいるのはジャンだけではなかった。
眩暈がひどくて上体を起こせないままでいると、そっとした優しい手つきで髪をかき上げられた。
ゆっくりとその手もとへと視線を向けると――そこには、ギルベルトがいた。
彼も、安堵の表情をしてツィロを見ている。
「ツィー、目が覚めましたか。いやあ良かった良かった! この老いぼれ、失敗していたらそこにいる貴方の騎士に八つ裂きにされてしまうところでした」
「……メロウ様?」
いつも通りの笑顔。
村の神殿で子どもたちと待っているはずのメロウまで現れて、ツィロは混乱する。
そもそも、ここはどこだろうか。
ジャンがツィロの名を呼んでくれているということは、己の身体に戻れたのではと思うのだが。
「ここは城のすぐ近くにある大神殿の客間です。誰も来たりはしませんから、安心して寝ていて大丈夫ですよ。いやあ~君の中に入り込んでいた悪い子が、あちらの国に保管されていたのは複写だと気づかなくて良かったです。こちらにあるものまで焼かれていたらどうしようもなかった。まあ、髪の色とかいろいろ戻し切れなかったのは、仕方がないので許してくださいね? 大神殿に残っていた禁術の書は、入れ替わりの術のページだけ、ところどころ鼠さんが齧ってしまっていたので。完璧というのが非常に、ひじょ~~に難しくって。元の身体ともちょっと違う、まるで別人みたいになってしまいました。あれでは完全というのは、永遠に無理でしょうね……」
ショックを受けないでくださいね、と断りを入れてから渡された手鏡に映るのは、確かに元の己の顔に近い。
しかし赤い髪やはしばみ色の瞳はワルターの時と変わりがなく、ツィロでもワルターでもない別人に見える。
「私は……」
「どんな髪や目の色、顔をしていたって貴方はツィーですからね。いやあもう、このギルベルト君の人使いの荒さったらありませんでしたよ。大神殿からとりあえず来いって伝言だけぶっ飛ばしてきて。急いで来たら『入れ替わりをどうにかしろ』ってもう意味不明なことを言い出して怖い怖い。久しぶりに働いたので、レイス殿下のところで美味しいものでもいただきましょうか」
わざとらしく両肩を上下させて、メロウは部屋から去って行ってしまった。
ようやくツィロも、上体を起こせそうだ。
起き上がりたくてもがいていると、またギルベルトが手伝ってくれる。
眩暈で目をとじるしかなかったあの時――確かに、ギルベルトが口づけてきた。
それは、覚えている。
触れられるとあの時の体温を思い出してしまい、顔が熱くなる。
そんな折、弱々しい声でジャンが話しかけてきた。
「ツィロ様……本当に申し訳ありませんでした。私は……従者として、殿下を守ることができませんでした」
「いいや。自分自身ですら、最初はなかなか現実だと信じることができなかったから。侍従としてしっかりと役目を果たしてきたジャンが、自身を責めることはしてはならない。それより、ワルター・ヒディアの方はどうなっている? 状況がまったく分からない」
ツィロが横になっていた寝台の側。
そこに跪いた己の侍従の肩に、そっと手を置く。
ジャンは、「それが……」と悔し気に膝の上で両手をぐっと握りしめた。
「ワルターの身体を持ったツィロ様が中庭においでになった時、実は殿下の身体を持ったワルター・ヒディアと私もあの場におりました。中庭への呼び出しは王太子殿下の命令でしたから」
「俺が他の騎士よりも一足早く駆けつけられたのは、ジャンが俺のことも呼びに来てくれたからだ。入れ替わりをどうにかできるのは、王太子が自国に戻る前だと考えて、唯一何とかできる可能性があるメロウ様を呼び出した。そしてメロウ様が入れ替わりを戻す術を使ったのだが、あの男……ワルターは、髪の色などが変わっていないのを良いことに、仮面を着け、自分がツィロ・リーシェだと演技を続けて、貴方が寝ている間にあちらの国に戻ってしまった」
あの卑しい男め、とジャンが床を殴る。
そこまで話しを聞いても、王太子という地位に固執していない自分に気づかされるばかりだ。
「ジャン、すまない。私はやはり、王太子として不適だった。王太子位に戻れたとして、私はみなが望む王にはなれないと、あの場所から離れた今、はっきりと思う。私ができたことは母に言われるがまま、あの王宮に閉じこもることだけだったんだ」
「いいえ! ツィロ様は、しっかりとご自分の務めを果たそうと、いつでも一生懸命でした。しかし、だからこそ自分もあの場所に、ツィロ様を戻すことに反対です。あそこにいたら、遅かれ早かれ殿下は壊されてしまう……そんな気がするのです。私は今まで、殿下が心から楽しそうに笑うのを見たことはありませんでした。ツィロ様はお強いですが、このままツィロ様が自分を殺して生きて行かなくてはいけないというのなら、いっそ……。私はツィロ様に笑っていてほしいのです。これからは、あの男が王太子としての役目をしっかりと果たすことになるでしょう。王妃殿下と王太子妃殿下によって、無理やりにでも」
ではまた、とジャンも部屋から出てしまった。
もう少し話したいこともあった気がするが、前と同じように彼と会話できただけで満足ではある。
「無理せず横になっていた方がいい。かなりの負荷が、魂にかかったのではないかとメロウ様が言っていた。よく、頑張ったな。本当は、こんな風に気軽に触ってはならないのだろうが……今だけ、許してくれ」
重いだろうに、上体をしっかりと支えられたかと思うと枕の位置が変わり、寝かしつけられてしまった。
頬に触れてきた節ばった長い指。
なんとか己の手を動かして、両手でつかむと、ギルベルトが真っすぐにツィロを見てくる。
「今だけ、なのですか? もう、ギルベルトから触れてはもらえないのですか。……もしそうなら、私から触りにいけば良いのでしょうか?」
ツィロとしては真剣に考えているのに、ギルベルトは目を見開くと顔を背け――噴き出した。
その反応は酷い、とツィロが文句を言うと、また触れるだけの柔らかな口づけが額に降ってくる。
「入れ替わりを戻すために手を尽くしてくださったのに、がっかりさせてしまいましたね。何が何でも戻るという気概がなかったから、こうなってしまったのかもしれません」
この優しさに流されるまま甘えてはならないと、気を引き締める。
ツィロがそう口にすると、ピタリとギルベルトが動きを止めた。
「落胆などするわけがない。それに完全に戻れなかったのは術が完全ではなかったからとメロウ様も言っていた」
「でも、本来の私に戻ることを望まれていたのでは……」
「ワルター・ヒディアのままでは、貴方の身が危険であり続ける。現に襲撃を受けていたし、あれが最後の契機だったのだろうと今も思う。そもそも、何の罪も犯していない貴方がワルターの咎を負う必要なんてあるはずがない。本来の姿に貴方が戻れたら、ツィーらしく生きられるように貴方に選択してもらいたかった。貴方が自国に戻りたいのなら俺も貴方の国に乗り込むつもりだったし、これからも必要があれば共に行こう。アーシュー家は歴史の古さと無駄に血筋が良いせいで、どの国の神殿にも融通が利くんだ。それなりの後ろ盾にも、剣にもなれると自負している」
確かに、ワルターの顔と体のままでは遅かれ早かれ、彼を恨む者たちやワルター自身が仕向ける刺客らによって殺される運命だっただろう。
「しかし、それではギルベルトの時間を奪ってしまうことになってしまうのでは……」
「完全に元通りには戻せなかったが、俺は貴方に一生を捧げても構わないと思っている。出会い始めの頃の俺の態度は最悪だったから、虫のいい話をしているとは思うが」
それは、ワルター・ヒディアとの因縁があったからだと理解しているし、そんなにも嫌悪している相手だったはずなのに、ツィロのことを信じてくれたのはギルベルトだった。
悲しくはないのに泣きたい気持ちになるという己に内心戸惑いつつ、ツィロは笑顔を返した。
「とても力強いです。一から始めていくことになると思いますが……付き合っていただけますか? いつか、故国に乗り込むかもしれませんが」
「もちろん。だが、王女殿下にツィーを譲る気は一切ないからな。あの方は入れ替わりが最初から分かっていた節がある。清廉潔白なツィーより、ワルターの方が楽しめると踏んだのだろう……そういう嗜好をお持ちだからな」
「嗜好……」
ツィロが知る王女は明るく社交的で、王太子の婚約者として理想的な女性だったのだが……。
「それと、メロウ様とも話し合ったが、本来の顔に近くなった以上今まで通り村で暮らすのは難しいかもしれない。衰弱している身体で、自由に動くのも難しいと思う。それで、ツィーが嫌じゃなければ、見てもらった通り古くて悪いが俺の家に住まないか? 俺は、貴方の心の美しさにどうしようもなく惹かれている。下心ありでの誘いで申し訳ないが」
「……私が? ギルベルトと……? 毎日貴方とお話しできますか?」
どうしてそういう話になるんだ。
そう言ってまたギルベルトに笑われてしまったけれど、今まで何も持っていなかった自分の手のひらに、舞い降りてきた温かなものを確かに掴み取れた気がして――ツィロは何とか自力で上体を起こすと、半ばぶつかる勢いで思いっきりギルベルトを抱きしめる。
それからツィロに与えられたのは――包み込むような抱擁と、深く愛情に満ちた口づけだった。
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