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碧の匂い。
甘いとか酸っぱいとか、そういうんじゃなくて、ただそこにいるだけで落ち着く、懐かしい匂い。
意識してしまうと、もう駄目だった。堰を切ったように、あふれ出す。なんだろう、これは。なにか、よくわからない、言葉で説明できない大きな『なにか』。
「碧……」
「え? どうしたの、急に」
「駄目だ。俺、もう駄目」
そのまま、碧の胸に倒れこむ。膝が折れる。体じゅうの骨という骨がなくなったみたい。フニャフニャになって、力が抜けて。雲の上を歩いてるみたいだ。で、それで、そのまま。
意識を失っていた。
変だな。
睡眠は足りてるはずなのに、いくらでも眠れる。頭も体も、全身で睡眠を欲している。なんでだよ。体が重い。重力が三倍の星にいるみたい。腕が重くて、足が重くて、頭がグラグラする。視界にはモヤがかかったみたい。
「熱があるからだよ」
額に手のひらが載せられる。あれ、なんだろ。熱って体温計で測るもんだろ? この手、気持ちいい。子どもの頃に戻った気がする。あれ、うちの親はそんなことするタイプだった?
「ゆっくり寝てて。緋聖くんは熱があるんだから、休まなくちゃ」
ああ、碧か。碧がいてくれるなら大丈夫だ。俺がボンヤリでも役立たずでも、碧だったら信じられる。
そっか。俺は、誰のことも信じてなかったんだ。
付き合ってる人間、親しくしてる人間、まわりの人間はいたのに。結局、俺は誰のことも『心から信じて』はいなかった。
だって、俺はDomだから。Normalな人たちとは、違う世界に住んでるから。本性を見せたら嫌われるかもしれない。蔑まれるかもしれない。怖がられるかもしれない。だから、体裁のいい振る舞いを覚えた。Normalに擬態することを覚えた。
本当は、Normalに生まれたかった?
そうかもしれない。普通に生まれていれば、こうやって悩むことはなかったのかな。でも、俺はDomだから。そこはもう、変えることができないから。諦めて受け容れるしかない。
自分に嘘はつけない。
好きなものは好きで、嫌いなものは嫌い。フリだけうまくなっても、心の底は変えられない。
けど、碧は、こんな俺のことを受け止めてくれた。俺の普通じゃないところ全部ぶつけても、否定することなく、受け容れてくれた。初めて、ありのままの自然体になれた気がする。
なんでだろうな。縁ってやつ? とにかく、あのタイミングで碧と出会わなければ、俺たちはいま、ここでこんな風になってないんだと思う。
布団をかけ直してくれる碧の手。離れていくのが嫌だった。置いていかれるのは、もうたくさん。
「いて……」
「ん?」
「ここ、いて」
「わかった。そばにいるから」
毛布の上、俺の手の上に碧のが重なる。両手で包みこまれて、それから、指の股を絡めて、ぎゅっと握られる。
「離れないよ、もう」
情けないな、と思う。こんなに守られてばっかりで、Dom失格じゃん、俺。でも、他に頼れる人がいないんだ。信じられる人も、いない。
アンディは俺を裏切ったし、チャールズは腹の底が読めない。社長や伊東も、よくしてくれてるけど、本当は何考えてるかなんて、わからない。
でも、俺は一人じゃない。この手は、碧と繋がってるから。
今度こそ、うんと強力に繋ぎとめておかないと。
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