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「服、適当なの貸すから着替えてこいよ。その後で病院行こうか?」
「いや、いい。平気だから」
終始無言だった碧は力なく首を降った。粉まみれのコートはハンガーにかけて、玄関で軽くはたく。ズボンの裾は特に汚れていたので、替え用にジャージを渡す。
「ほら、飲んで」
お湯を沸かしてインスタントコーヒーを煎れる。ジャージに着替えた碧は、湯気のたつマグカップを素直に受け取った。
「ねえ、おかしいかな。いまになって、ふるえが、とまらないんだ」
「おかしくないだろ。あんな事故、滅多に起こることじゃないし」
後日、警察からも連絡がいくかもしれないと言われている。あの事故は、一つ間違えば大惨事になっていた。碧が無傷でいるほうが奇跡だ。
「緋聖くんが、あのとき、止めてくれなければ、僕は、いまごろ、もう、」
コップを置いた碧が背中を丸める。肩が左右に大きく揺れて、奥歯がカチカチ鳴る。いまになって、恐怖がこみ上げてきたのだろう。ビビって当然。
「碧が無事でよかった」
体育座りの肩をうしろから抱き寄せた。軽くトントン叩く。
「ありがとう。あの、変なこと聞くようだけど、緋聖くんが時間を止めてくれたような気がして、本当にビックリして、それで、」
碧の言わんとしていることを察して、ハッと息を飲んだ。
バレてる。
当たり前か。あれはGlareとCommandだった。無機物には効果ないけど、Subには効くし、Normalでも足止めくらいにはなる。
でも、いいのか? こんなタイミングで、おまえ実はSubじゃん? とかいうのって違くない?
「なあ、全然話は変わるんだけどさ、前に体弱くて、胃腸の薬飲んでるって言ってただろ?」
「へ? あ、ああ。うん」
「どこの病院で処方された薬?」
「病院っていうか、ずっと診てくれてる主治医の先生がいて、その先生が出してくれた薬なんだけど。それが、どうかした?」
さらに続きを促すと、主治医は母方の開業医の伯父という答えが返ってきた。やっぱりそうか、という確信は胸に重石となる。
胃腸薬といわれ、親族から処方されたSub用の抑制剤。
碧は、自分がSubであることを知らされていない。家族の意向で伏せられている。伯父の他に誰が把握しているのかはわからない。
一粒種の御曹司という立場から、Subであってはいけない、と考える者がいる。
「どうかした?」
「いや」
軽く首を傾げる碧の前で、俺はなにも言えなくなった。
碧がSubだと都合が悪い。そんな連中に囲まれていて、俺がいまダイナミクスについて告げるとどうなる?
碧が混乱する。きっと認められない。まして、こんな事故のあった後だ。
でも、黙っているのが碧のためになるのか?
碧はSubなのに、Subとしての喜びを知らないままでいいのか?
考えがまとまらない。俺が黙り込んでいると、碧は不意に顔を歪めて、大粒の涙をにじませていた。
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