別れのほとりで

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   数年間、顔の左側だけに起きる耳鳴りに悩まされてきたというのに。  目を開くと遼輔は、何もない空間にたたずんでいた。自分の靴音さえ、捉えることができなかった。地面のみがほのかな緑色で、遥か先の視界までぼんやりと光っている。 「おおい。どこだ、ここ。いないのか、育美」  数え年で四十になる遼輔だが、心細くなり、思わず妻の名前を呼んだ。 「遼輔。私はこっち」  声のした方に振り向くと、なんの形も存在しなかったはずの、手の届くほどの範囲に、育美の全身がゆっくりと現れた。遼輔の心臓が、驚きで波打つ。しかし、安心感が勝り、息をつくと彼女の元に駆け寄っていた。 「ずいぶんさみしいところに来たな。いつの間に入り込んだんだろう」 「そうかな。一人ぼっちじゃないだけでも、私、ほっとしてるけど」  本当は私たち、向かっている場所があったよね。目的地は、なんていう名前だっけ? そんな風に、二人が相談しだした直後。 「いらっしゃいませ」  空虚だった背後から、若い女の声が響いた。きゃ、育美は悲鳴を飲み込み、きびすを返す。  遼輔も両手に拳をつくってから振り返ると、おそらく二十代半ばの、髪の長い女性が薄く笑んで立っていた。寒々しい色のワンピースを着ているせいか、遼輔の背すじにも、さっと冷気が走る。  女性は表情を崩さず、遼輔たちに敬意を払うように、上品な口調で言った。 「シズリと申します。『魂の血判状』にお二方の署名をいただけると風の噂で聞き、お呼び立てしました。私は書面の立会人であり、番人です」
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