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やがてそれは現実となった。
濡らした雑巾を絞り、目の前に敷いてやる。毛の生え揃った前足をその上に踏み締め、「彼女」は軽快に走り始めた。
時折仕事の手を休めては、興味深げにこちらを見上げる。つぶらな瞳、ひくひくと動く鼻先、大型のネズミのような姿だ。
「ネズミはとうの昔に卒業してますよ」
かいがいしく縁側を行ったり来たりしている彼女を追いながら、息子は目を細めた。
「分類学上でいう化石霊長類、プルガトリウスと呼ばれる猿の仲間です」
「ということは」「はい」
彼女が直立歩行を始めるまでに、さほど時間はかからなかった。
縁側に並んだ私と息子の間を、味噌汁の香りが通り過ぎていく。妻が死んでからというもの、家にこの匂いが漂ったことはない。懐かしい空気を鼻孔一杯に吸い込み、私は口を切った。
「服を、着せてやりたいんだがね」
彼女は徐々に体毛が薄く、頭髪は濃くなって来ている。このままでは息子はともかく、私が目の遣り場に困ることになるだろう。だが勿論、理由はそれだけではなかった。
「でも、ここには女物の服なんて──」
「母さんのがあるだろう。それが駄目なら、買って来ればいい」
ああそうだ、と思い出したかのように言葉を添える。
「座敷の桐箪笥の奥に、母さんのウェディングドレスがあるはずだ。まずは、それを着せてやりなさい」
「──お父さん」
庭の柿の木の梢で、雀が小さく鳴いていた。
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