愛のチカラ

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 一年が過ぎた。  洗濯籠が空になり、彼女が縁側に腰を下ろす。真っ白に洗い上げられた衣類が、朝の風にはためいている。  あれからというもの、私達家族はすこぶる平穏な日々を送って来た。彼女という伴侶を得て、息子はますます研究に打ち込んでいる。私もすっかり手持ち無沙汰になり、何か新しい趣味でもと思い始めていた所だ。だが──  私は庭の柿の木に目を移した。頂点に一つ残された柿の実が、晩秋の夕焼けを一点に集めたかのように照り映えている。  彼女の視線は、その遥か上の雲を見ているように思えた。いやあるいは、私には知覚出来ない何かを無意識に感じ取っていたのかも知れない。 「……解っているよ」  彼女のとがりかけた耳が、ぴくりと動いた。  こうして空を眺めながら、溜息をつくことが多くなった。昼下がりにふらりと出掛けては、夕食の支度の時間に帰って来る。息子以外の相手と逢っていることは、容易に想像できた。 「息子には、私から話しておくよ。君は、君の思うようにすればいい」  縦に長く伸びた瞳孔から涙が溢れ、彼女のエプロンに碧い染みを作る。責めるつもりはなかった。自分の感情の変化に戸惑っているのは、おそらく彼女なのだから。 『……』  彼女が口を開こうとした瞬間、まばゆい光が地上を満たした。  空を一面に覆い尽くす、広大な銀色の影──あれが俗に言う、空飛ぶ円盤、という奴に違いない。 「待ってくれ! 行かないでくれ!」  息子だった。パジャマ姿のまま、慌てて寝室を飛び出して来たらしい。 「僕を置いていくのか! あんなに、僕達はあんなに……」  彼女に縋りつこうとする息子を、私は抱き止めた。 「やめなさい」 「お父さん、どうして止めるんです」 「……行かせてあげなさい」  愛とは、より善いものに近づこうとする力だという。  その力に導かれ、彼女は息子を追って幹を、枝を駆け登っていった。  だが息子と同じ果実を手に入れた時、彼女はそれを見失ったのだ。息子は──私達人類は、もはや彼女の向上心に応えることは出来ない。 『ごめんなさい』  可聴域の限界を滑るような声で、「彼女」は別れを告げた。進化の系統樹のより高みを目指して、彼女は旅立ったのだ。
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