兄は403号室の下に埋まっている

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兄は403号室の下に埋まっている

マンション403号室、ベランダの下で私の兄が発見された。 私はその部屋でじっと兄を待っている。 兄はもうどこにもいない。それはどこにでも兄がいることの証明になる。 そう気づいてから、私はあたりをじっと見るようになった。 朝のリビング、通勤先のスーパー、兄が通っていた通学路、たまに二人で行ったファミレス、兄の同級生の後ろなど様々なところに目を凝らした。 ちっとも見えることは無かったが 、それでいいような気がした。 きっと私が兄を見つけてしまったら、兄は厳つい顔をしているだろう。 それを見てしまったら、私もこのベランダから飛び降りてしまうだろう。 全てを投げ捨てることは間違っている。 誰に何を言われた訳では無いが、そう考えてしまうので少し気が引ける。 そう言うと、眉間のシワが少し薄らいだ。 「それはいいことかもしんねーな」 その答えに少しホッとした。 安城は、頬杖をつきながら 「お前もそんなこと考えるんだな。正直おどろいた」 と言った。 以前はこんなこと私も考えていなかった。献立とかもっと色々なことを考えていた。 だけど今はふと兄のことを考えてしまうのだ。 「そういえば 他の家族は?」 「祖母が1人」 「両親は?」 「離婚して 蒸発しちゃった」 へーと相槌を打ちつつジュースを一口含んで一言。 「苦労してんだな」 「そうかもしれない」 否定はしなかった。あまり、のほほんと物事を考える余裕はなかった。 窓がオレンジ色に染まっていくのを眺めながら考えてみる。 「でも 兄さんの方が大変だったと思うよ」 するっと言葉が出てきた。その言葉につい感心してしまった。 本当にそうだった。兄は苦労していた。 「確かに先輩頑張ってたなぁ」 安城もうんうんと頷く。 部活の後輩の目にもそう写っていたようだ。 生徒会長、特待生、無遅刻無欠席。兄の周りには様々な肩書きがあった。それを当たり前のようにこなしていた兄は 努力の人だった。でも本人は苦労しているという感覚はなかっただろう。 そんな心配している暇はいらない、とよく言っていた。それは本心ではないのかもしれないが嘘はつかない人だった。 「でもまさか死んじゃうなんてな」 安城は気力のない声で言う。 その顔には表情がなかった。 進学校〇〇高校での悲劇!自宅のベランダの下で 生徒会長が発見される!! いじめ?家庭環境が原因か という文字が浮かんできえた。 私はじっと窓を見る。 ベランダの下には兄のシルエットが何となく残っていた。 その近くには花束が転々と置いてある。 花壇の花は何も無かった。 さて、どの位経ったのだろうか。 コップのジュースがなくなった時、安城は今日は帰るわと言った。 私は曖昧に頷いた。 安城は身支度を整えながら言った。 「あのさ、死にてーって時とかなんで生きてるんだろって時もあるけど、やっぱり死にたくないッて思うんだ」 死にてーって時。なんで生きてるんだろって思う時。確かにあった気がした。 「お前は?」 安城は返答を待っている。私は少し間を開けて答えた。 「生きることと死ぬことの違いが、今はよくわからないかな」 どちらかというと死に近いような心持ちでいる。実は死んでいる兄の方が生者なのかもしれなかった。 「だから 死んでもいいし生きてもいいと思っているよ」 安城は何も言わなかった。 表情は何かを言いたがっているようだった。 しかし安城は言わなかった。 ** テーブルの上の食器に手をつけ、片付けを始める。 コップにはまだ結露がついていた。 それらを台所に運びながら、私はぼんやりと考え事をしていた。 わたしの兄は自他ともに認める努力の人であったけれど、安城も十分に努力している人だ。 部活の練習をしつつ、シングルマザーである母の為に、私の職場でアルバイトをしている。遅れたことはないし、しっかりやってくれている。 成績も悪くなく、素行も悪くない。 そして、兄が亡くなった日から何かとこの家に訪れてくるようになった。 元々兄の後輩でよく兄に懐いていた。兄は迷惑そうだったが、私は兄が弟分のように安城を思っているのになんとなく気づいていた。 私はそんな彼が羨ましかった。私には器量の良さがなかった。 毎日私は兄に叱られていた。でも嫌ではなかった。兄は私を見てくれたからだ。 安城がバイトを探していると言ったので私の職場を紹介した。ちょうど人手がたりていなかった。そして安城は私の同僚になった。 兄は私たち二人の仲を疑っていたが、私たち二人には全くそんな気はない。 私と彼の関係は一言でいうと同僚である。 距離感は散歩の途中であった近所の人である。 その関係が私たち二人にとって実に楽であった。 その関係は今も続いている。私は安城に感謝している。 私の人間関係はここで完結している。 兄と兄の後輩の安城、祖母。あとは仕事の同僚。 私を見てくれる人は限られていた。 はずだった。 ** 仕事帰りの夜道を私は一人で歩いていた。 「会長の妹さんですか?」 不意に後ろから声が聞こえた。振り向くと、薄暗い夜道の先に女性が立っていた。 暗くて顔はわからないが、兄と同じ高校の制服を着ている。 「はい そうですが」 知らないひとに話しかられても返事をするなと兄には言われたが 兄の知り合いならば知らない人に入らないだろう。 私はそう考え返事をした。 「少しお話いいですか」 彼女の声は震えていた。 ** ふたりで公園のベンチに座った。 街灯には蛾がバタバタとはためいている。自動販売機の明かりが辺りを照らしていた。 「私、会長のことが好きだったんです」 彼女は珈琲缶を見つめながらそう語り始めた。手は震えていた。 彼女は兄と同い年で同じクラスメイトだったようだ。挨拶はするけれど、友達という程ではなくもっと仲良くなりたかったが、男女の差や周りの目が気になってあまり話したりできなかった。 それでも兄を憧れていて、いつか告白するタイミングを窺っていたようだ。 「会長を狙っている娘、実は結構いたんですよ」 少しはにかみながら彼女は言った。 全く知らなかった。確かに兄は顔はいい。けれど、兄はそんなことを言ったことはなかった。 「あの人がこんなに早くいなくなるなんて考えたこともなかった」 卒業して 離れてしまうのはわかっていたけれど まさかこんなに早く しかももう彼の時間は止まってしまったままなんて、と彼女は泣きながら途切れ途切れに言っていた。 彼女はとても苦しそうだった。 私はその様子をじっと見ていた。 ** 「突然泣いてしまってごめんなさい。妹さんの方が辛いはずなのに」 赤く腫れた瞼はとても痛々しかった。 わたしは謝る必要は無いと言った。 彼女が兄のことを好きだったということを、ちゃんと覚えておきたいと思った。 そうして彼女とは別れた。 飲み終わった珈琲缶を持ちながら帰り道を歩く。 私は泣いていた彼女のことを考えていた。 彼女の中で兄は一生思い出として生き続けていくのだろうか。 それは私や安城と同じだ。 妹だとしても 弟分に思われていたとしても 兄として 憧れの先輩として兄は私たちの中で生き続ける。 もしかして兄は幸せ者なのではないだろうか。 ** マンション403号室に到着した。 なんだか どっと疲れが私の体を襲っていた。 いつもより長く帰宅するのに時間がかかったような気がする。私は荷物を下ろすとカーテンを開けた。 満月が大きく私を照らしていた。 ベランダから顔を出す。下は暗くてよく見えない。 この暗闇の向こうに兄はいる。 なぜ兄はここから落ちたのか。考えなかったわけじゃない。 理由は私にはわからない。理由はないのかもしれない。 だから私は兄が死んだという事実だけを考えた。 何故兄は 今死んだのか。なぜ大人になれないのか。なぜ私と共にいてくないのか。 それだけをただ考えていた。 「兄さん」 声に出してよんでみる。 あの日から初めて話しかけた。 「今日、兄さんのクラスメイトに会ったよ 一昨日は安城がきてくれたの」 「みんな兄さんのことが好きみたい」 「だって私の傷のこと誰も触れないもの」 顔にある大きな火傷のあとをなぞりながら私は話しかけた。 「兄さんのことが話したくてきてくれたんだよ」 「兄さんは幸せ者だね」 返事はかえってこない。 「私、兄さんがいないから一人暮らしをしているよ」 「兄さんがいないからあまり要領よくできてないかもしれないけど 怒らないでね」 他にいうことはないだろうか いざ声に出そうと思うと見当たらない。 時間が刻刻と近づいてくるのを感じる。兄がいなくなってしまうような気がする。 沈黙が続く。暗闇が揺らぐ。体から力が抜ける。 その時だった。 雫があたまにおちてきたのは。 雨だろうか? そう思い、上を見上げるとそこには 満天の星空が広がっていた。 星を見ると兄を思い出す。 兄は私のヒーローだった。 顔に大きな火傷のあとがある私は、悪い意味で目立っていた。 いじめ、とまではいわないが腫れ物扱いされていた。私自身あまり人と関わりたくなかったのでちょうどよかった。 人の目が昔から苦手だった。 そんな私を怒り続けたのが兄だった。 兄は親の役目も果たしてくれていた。 馬鹿な私に就職を勧めたのも兄だ。 兄が私のすべてだった。 私は兄さえ近くにいてくれればいいと思っていた。 「でも もう、そうじゃないんだ」 兄はこの星の下で死んだ。 だから 「兄さんは星になったんだね」 人ではなくなった分、ずっと私を見ていてくれる。 話すことは出来ないし、怒られることももうないけれど、ずっと私や安城、彼女のことを見守ってくれているかもしれない。 そんなことを言ったら 自惚れるな!と怒るだろう、でも本当のことだ。兄は誰よりも優しくて心配性だった。 きっと兄はそばにいてくれる。 「おやすみ 兄さん」 私はカーテンを開けたまま ベットの中へ入っていった。 満月が優しく照らしていた。 ** 「なんで てるてる坊主なんて飾ってあんの」 開口一番、安城は言った。 しかもチョー不格好じゃんと余計な一言も添えて。 「初めて作ったからしょうがないでしょ」 と思わず言い返した。 そして、安城は不格好なてるてる坊主を眺めながら 聞いてきた。 「明日雨だっけ?」 「明日は快晴だよ」 「じゃあなんで飾ってあんの」 私はてるてる坊主を眺めながら言った。 「だって兄さんは星になったから。毎日晴れてないと私たちのこと見てくれないよ」 この時の安城の顔は未だに忘れられない。鳩が豆鉄砲くらったような顔をしていた。 「兄さんって会長のこと?」 「そう」 「会長、星になったの?」 「うん」 長い沈黙があった。安城の表情はだんだん落ち着いていった。 私は百面相を見てるみたいで面白かった。 「そうか先輩は星になったのか」 「人にしてはキラキラしてたでしょ?」 「確かに」 私は兄さんは星に似ていると思っていた。安城も同じ様だ。 兄は私たちのスーパースターだ。 「晴天だったら 先輩俺達のこと見守ってくれんの?」 「きっと怒りながら見守ってくれるよ」 「先輩らしいや」 俺も作ろう てるてる坊主、と言った安城の顔はなんだかスッキリしているように見えた。 安城は器用だ。 私のてるてる坊主より安城のてるてる坊主の方が効果がありそうだと思った。 外には青空が広がっている。 今日も満天の星空が見られそうだ。
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