河童の夫

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河童の夫

 目覚めると、遠くから水の音が聞こえてきた。寝ぼけ眼を擦りながら寝室を出ると、台所で、夫が自分のお皿を丁寧に洗っていた。 「おはよう」  私が声をかけると、緑色の皮膚が動いて、黄色い口がこちらを向いた。 「おはよう。よく寝たみたいだね」 「昨日のお酒がなかなか抜けなくて」 「人間は大変だね」  優しく微笑む夫のそばからコップをひとつ取り、冷蔵庫の麦茶を注ぎ、口へ流し込む。渇き切った口内がすぐに潤っていく。  コップを夫に返し、勢いよくリビングのソファにもたれかかった。今日は土曜日。せっかくの休みなので、だらだらしようと決めている。テレビをつけ、適当なチャンネルに回す。  朝の時間帯に放送している、子供向けのアニメが流れたところでザッピングを止めた。 「あ、ボクじゃん」  台所の方から、夫の声が飛んでくる。テレビの画面には、緑色のカワイイ河童のキャラクターが何か喋っていた。 「あなたの方が、華がある」 「ボクに主演は荷が重いよ」 「謙虚ね」 「河童はね、謙虚なんだよ」  私はリモコンを取り、チャンネルを単純なニュース番組へ変えた。背中から聞こえてくる音は、水の音から、フライパンで何かが焼けている音に変わっている。スマホをいじりながら、夫の朝支度を待つ。ふと、この生活も、いつのまにか染み込んでいるなあと感じた。時の流れと、人間の慣れは、驚くほど早い。  私は、河童と生活している。私の思い込みではない。正真正銘の河童だ。  出会いは三ヶ月前。何の前触れもなく、河童は突然103号室の扉の前に立っていた。こんにちは、なんてあまりに流暢に喋るもんだから、私もうっかり家に招き入れて、その生態とやらを詳しく聞き出してしまった。その緑色の湿った皮膚と、黄色く尖った口と、頭にある綺麗なお皿さえ除けば、ただの謙虚で優しい人でしかなかった。魅力まで感じていた。今まで出会ってきた誰よりも、波長が合っている気がした。  特段、結婚を焦っていたわけではなかった。でも、年齢的には三十五だった。気づいていないだけで、心のどこかに焦りはあったのかもしれない。 「私と夫婦になりませんか」  河童に、私はそう言った。結婚を焦っていたわけでも、もうヤケクソになったわけでもない。ただこの河童と、波長がシンクロし続ける心地の良い生活を、送りたい。そのチャンスを逃すまいと、衝動的に出た言葉だった。 「おまたせしました」  完熟の目玉焼き、カリカリのベーコン、シーザーサラダ、パラパラのスクランブルエッグ、よく焼けたトースト。夫は、見事な朝食をテーブルの上に並べていった。 「本当、料理が上手よね」 「旭が買ってくれたレシピ本のおかげだよ。あれをずっと読み込んでたんだ」  夫はそう言うと、台所から、へなへなにくたびれたレシピ本を持ってきた。遠い受験期の参考書を思い出させる。 「素敵よ」 「はは。ほら、食べよう食べよう」  夫は丁寧な箸使いで、サラダを取り分けていく。河童は手先が器用で、こないだなんか私に手編みのマフラーを編んでくれた。なんだか妻としての強みを奪われている気がするけど、喜びの方が圧倒的に勝るのでなんでもよかった。 「うん。よくできた」  満足そうに頬張っている夫。家の中には静かでぬるいくらいの空気が流れていて、私はこの生活に見事なまでに溺れている。だから、たまに不安になる。河童である夫が、私と居続けてくれる保証はどこにもない。 「あなたは、この生活どう?」  私の突然の発言に、夫は表情を変えることなく、すぐに答えた。 「大好きだよ。それに旭とも一緒だ」 「河童のみんなは、いいの?」  夫は、一瞬だけ下を向いた。 「ボクも含めて、みんなが、それぞれ生きたいように生きてる。河童だって人間だって同じだよ。ただ、群れから離れない河童がほとんどなんだけどね」  きっと、こうやって人間と暮らしている河童なんて、異例中の異例なんだと思う。だからこそ、先頭を走っているからこそ、夫は、仲間たちに対する罪悪感があるのかもしれない。 「あなたが道を開いているのよ」 「それは、どういうことだい?」 「河童が人間と共存する、なんて言い方はおおげさだけれど、あなたが可能性を広げていることは間違いないわ。いつだって先駆者は、巣で温まる仲間の圧に耐えながら進むものなのよ」  すると夫は、完熟の目玉焼きを私にひとつくれた。 「旭には、いつも感心させられるよ。ボクたち河童にないところを、旭はたくさん持ってる」 「おおげさよ」  照れを抑えながら、目玉焼きを頬張る。しっかりとした食感の黄身が砕けて、溶ける。 「旭は、なんでボクなんかと生活してくれるの?しかも、夫婦だなんて。それこそ、おおげさだと思うんだよ」  人間と河童の夫婦、なんて聞こえは悪いし、まず意味が分からない。  でも、昨今の夫婦は、様々なのだ。愛し愛されている理想的な夫婦や、仕事のために有益だからと夫婦になる者、生活のため、自分の名誉のため、他人のため、親のため、この世界で生きていくため。理由なんていくつもあって、何がきっかけになるかなんて誰にも分からない。  夫婦になる理由なんて、どんなに小さくても、馬鹿みたいに大きくても、ひとつあればそれでいい。それだけで、他の部分なんて簡単に無視できて、立派な夫婦になれる。 「あなたとは波長が合うの。それだけのことに、おおげさもちっぽけもないわ」  そう言い放つと、私はトーストに齧り付いた。サク、と音が聞こえる。 「ボクだって波長が合うよ。旭なんかよりも、もっともっと合う。おおげさなんかじゃないよ、ボクの方が合うんだ」  なぜか熱いスイッチの入ってしまったみたいで、顔の緑色が濃くなってきている。 「あなた、一旦落ち着いて。これは張り合うようなことじゃないのよ。好意を確かめ合っているだけなのよ」  河童と人間との確実な距離を感じつつ、その心地の良さに揺られながら、私は生活を続けていく。いつの日か、夫の仲間達とパーティーをするのが、密かな私の夢だ。とびっきりの高級なお皿と、とびっきりのきゅうりを用意する。そこではきっと、静かで、人間味のない、底からの冷えるような空気が流れるんだろう。私はそれが楽しみで、クローゼットの中にはすでに、緑の一張羅が眠っている。
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