天国で貴方を待ちながら

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 入ってきたのは現世では娘と孫に囲まれてその生涯を終えたときの姿とは異なり、二十代の頃の外見の、かつて現世で雪音が運命の人と選んだ相手だった。敦司だった。 「え……」  突然の来訪に、雪音は言葉を失った。 「本当は」  何十年振りに聞いたその声に、雪音は忘れていた感情の歯車が動きだし、また大粒の涙を流し始めた。 「雪音が待っていてくれていると教えてもらったときは本当に嬉しかった。ありがとう」  敦司は微笑んだ。しかし、すぐに表情を曇らせた。 「本当はもう何度もこの店に入ろうとしたんだ。でも、どうしても扉の向こうへと進む勇気がなかった」 「どうして? 私、ずっと待っていたのに!」 「雪音にプロポーズしたときのこと、覚えてる?」  忘れるはずはなかった。十代の頃に初めてデートをした道筋を全く同じようになぞって歩いて、海の見える公園でプロポーズしてくれたあの日のことを忘れるはずはなかった。 「僕は一生、雪音のことを幸せにするって誓った」  雪音は頷いた。   「でも、あの頃の僕はまだ若くて大した稼ぎもなかった。父の借金もあったし、それを返しているのか、また返すために借金を増やしているのかもわからなかった。里依紗を生んでくれたばっかりなのに、雪音にも無理をさせてまで働いてもらっているうちに、とうとう病気になってしまった」  遠い日の記憶がじわりと目を覚ます。  つらかった日々の記憶、それも敦司との日々だった。忘れたわけではなく、思い出さないようにしている日々だ。 「里依紗を託児所に預けて、病をおしてまで雪音に働かせてしまった。やっと借金がなくなり、仕事が軌道に乗った頃はもう雪音に残された時間はほとんどなかった……。僕は君を幸せにできなかった。不幸にしかできなかった。そんな僕が天国で、雪音とまた暮らすなんて選んでよいとは思えなかった」 「そんな……私は」 「でも、いま店の前で雪音の声が聞こえて、また僕は雪音を不幸にしているのかと思ったら、扉を開けていたんだ」  敦司は扉の方向へと振り返り、しばらくして再び雪音の方を見た。 「現世で雪音を幸せにできなかった僕と、また暮らしてくれるかな? 今度こそ幸せにしたいって思ってる」  その問いに雪音は何の迷いもなかった。  涙を一度拭ってから、雪音は大きく頷いた。 「でもね、敦司」  雪音はそう言ってから涙を拭った。
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