7人が本棚に入れています
本棚に追加
麻理恵はうなずいた。
麻理恵はオフィスにアルバイトに来た女の子だった。ある日僕たちは部署の軽食を買うために二人で商店街に行った。目的の弁当屋につくまで、麻理恵はずっとしゃべっていた。商店街の入り口には雑貨屋があり、店頭にくまのぬいぐるみが置いてあった。めざとくそれを見つけた麻理恵は、テディベアに関する蘊蓄をぶちまけてきた。苦笑いしながら聞いていた僕の耳に、麻理恵のつぶやきが鮮明に飛び込んできた。
「かわいいな」
麻理恵は、小さくため息をついた。それは、テディベアの蘊蓄とは明らかに違う空気を帯びていた。この子は、くまのぬいぐるみが好きなのか。
「買ってあげようか」
「え?」
「そのくま。買ってあげるよ」
「いいんですか!」
喜びと驚きの混じった表情が、とてもよかった。あの時僕は、事実を羅列する麻理恵の中から、麻理恵の気持ちを拾い上げていた。静かな部屋の中にこぼれた、麻理恵の言葉が聞こえたように。
「麻理恵は、このくまを今でもかわいいと思ってる?」
「うん」
「じゃあ、変わらない気持ちだって、あるじゃないか」
アラームが鳴った。午前0時になったのだ。
「何のアラーム?」
「シンデレラの魔法が解ける音だよ」
「え?どういうこと?」
「聞きたい?」
「うん」
「最後まで聞いてくれるかい?長くなるかもしれないよ」
「聞きたい。コーヒー淹れるね」
「ありがとう。あ、でもこの間作ってくれたホットワイン? あれおいしかったな」
「わかった、あのね・・・」
麻理恵は大きく息を吸い込んだ。知っているだけのホットワインの豆知識をぶちまけようとしたのだ。
でも、麻理恵はそれを飲み込んだ。
キッチンから、ワインを温めるいい香りがしてきた。
今度は、僕が話をする番だ。
最初のコメントを投稿しよう!