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「気持ちなんて、全部嘘だもの。事実だけが、本当のことだわ」
「どうしてそう思うの?」
「私の両親は離婚してるでしょ。私が五歳の時だったけど、お父さんが出て行ったの。両親は私に気づかれないようにしていたけれど、子供にだってそういうのはわかるわ。私を寝かしつけるのはお父さんの役割だったから、いつも聞いてたの。お母さんとどんな出会いだったの?どこでデートしたの?楽しかった?
お父さんは夢みたいに素敵な話をしてくれたわ。それを聞くたびに、またお父さんとお母さんは大丈夫だって思ってた。でも、離婚しちゃった。
そのあとはお母さんと暮らしたの。そうしたらお母さんの話は全然違うのよ。初めてのドライブデートの話も全然違う。同じなのは乗ってた車とご飯を食べたレストランだけ。悲惨でみじめなデートの話だったわ。あそこで引き返していれば、私はいま、幸せだったのよって、お母さんはいつだってそういうの。
ねえ。どっちが本当の話だと思う?」
「・・・ごめん。僕にはわからない」
「ね。わからないの。自分の都合で嘘も本当も決まる。人の心に真実なんてないの。あるのは事実だけよ。だから私は、事実だけですべてを埋めてしまいたかった。」
「僕のことを好きなのは、真実じゃないの?」
「今日は真実よ。でも明日はそうじゃないかもしれないでしょ。離婚した後、一回だけお父さんと話したの。あの時私にお話ししてくれたことは、嘘だったの?と聞いたわ。お父さんは、答えてくれなかった。ただ、苦しかったって。真実だったことが真実じゃなくなることもあるって。真実じゃないことを私にお話しするのは、とてもとても苦しかったって。だから私は、誰かの話を聞くのが怖いの」
麻理恵の目から涙がこぼれた。僕はソファから立ち上がって、出窓に並べられているくまのなかから、一番古く薄汚れているのを手に取った。真ん中に置かれているくまだ。
「このくま、僕が買ってあげたこと覚えてる?」
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