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「そう思うでしょう。僕も仕事を勧めてみたんです。でも、しゃべる速さが1.5倍速になっただけでした。」
「あー。ネタが増えてしまったんですね」
「はい。とにかくあったことをひたすらしゃべり続けるんです。子供が欲しいなんて最近言い出しましたけど、そんなことをしたらどうなると思います?」
「寝ずにしゃべるかもしれませんね」
「その通りです。もう恐ろしくて恐ろしくて」
「なるほど。それでつかの間の静けさを求めていらっしゃるのですか」
「はい」
輪島さんは少しだまって僕のことを見つめた。
「では、しばしの静けさを、さしあげましょうか」
「え?」
輪島さんは、意味ありげに胸の前でパンっと手を叩いてから合掌した。僕が少し驚いていると、輪島さんは合わせた手の指先を僕のほうに差し向けた。僕はその指先を注視してしまった。きれいにやすりで整えられた爪が、キラッと光ったような気がした。
「おでこを右手で三回たたいて」
輪島さんが穏やかな声で言った。
は?何を言ってるんだ?
そう思う間もなく、僕は自分の右手で、自分のおでこをペチペチペチと叩いていた。
「え!」
「不思議でしょ。私、大学生のころに奇術同好会に入ってましてね。
ほら、ハンカチの中から鳩を出したり、サーベルでザクザク刺しても無事でしたっていう、あれです。マジックっていうのが一般的かもしれませんが、奇術って、響きがいいでしょ。私はこう呼ぶ方が好きですね。でね、私の得意分野は『催眠術』なんです。」
「さ、催眠術!」
「大丈夫。怖がらなくていいです。あなたを意のままに操ったりなんかできませんから。そんなことができるんなら、再雇用社員でくすぶってるわけないです。催眠術は、ちょっとだけ心の状態に働きかけて感じ方をずらすだけ。催眠術に掛けられた人がレモンの酸っぱさを感じなくなって、甘いって言ってるのをテレビで見たことがありませんか?あれは、味覚をずらしただけなんです。レモンの酸っぱさを感じないようにしようと脳が決めたんです。私の力ではありません。決めるのは、結局その人の意思なんです。今、吉岡さんは額を叩きましたよね。あなたが心のどこかで私に付き合ってもいいと思ったから成立したんです。優れた催眠術師は、ちょっと心に方向付けをして押してあげるんです。私もまあまあの腕前なんですよ。さあ、どうしましょうかね。吉岡さん、今スマホを持ってますか?」
「はい」
僕はポケットに突っ込んでいたスマホを出した。
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