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静かな部屋
午後は仕事が立て込んでしまった。思いがけないクレーム処理に奔走し、へとへとに疲れ果てた僕は輪島さんとのやり取りをきれいに忘れていた。
いつもより二本遅い電車に乗りこんだときには、すっかり空気は冷え込んでいて、コートを着ていても身震いがした。麻理恵にはさっき帰宅のラインを入れた。絵文字がたくさんついた返信がきて、僕は大きくため息をついた。
また、長い夜が始まる。重い足を引きずりながら、アパートに帰った。
異変にはすぐに気づいた。ドアを開けると、いつものように麻理恵が飛びついてきた。しかし何か変だ。口をパクパクさせて、金魚みたいに見える。なんでだ?
僕は麻理恵の顔をまじまじと見つめた。
パクパクパクパク
ああ、そうか。音が、ない。せわしなく動く麻理恵の口から、音が出てきていないのだ。
「麻理恵、どうしたんだ?」
思わず声をかけた。一瞬麻理恵の口の動きが止まった。少し首をかしげる。そしてまた口がパクパクと動き出す。
そこで初めて輪島さんのことを思い出した。これが、輪島さんが作ってくれた壁か。
「すごいな」
麻理恵が、ん?といぶかしげな表情を浮かべて口を閉じる。そのすきに僕は麻理恵の横をすりぬけてリビングに向かった。
すべての音が聞こえないのではない。エアコンがあたたかい空気を吐き出す音がよく聞こえる。鍋が弱火でくつくつと言っている音も聞こえる。
シチューだ。
「お腹空いたな。ご飯、もらえるかな」
後を追ってきた麻理恵が、また口をパクパクさせてからガスレンジの前に向かった。僕は部屋着に着替えて、テーブルに座る。椅子がきしむ音も聞こえる。
静かだ。実に快適だ。
僕は深呼吸した。かすかに、ラベンダーのにおいがした。真理恵がお香を焚いていたのだ。今まで全然気づかなかった。
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