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「一晩買ってくれませんか?」  週末を前に賑わう夜の繁華街で、一人の女がそう声をかけてくる。社内の飲み会を終えて、私が一人の女性社員を駅まで見送ったあとのことだった。  連日の熱帯夜とは性質の違う、女子社員が絡みついてきたときの肌の温もりがまだ腕に残っている。  家まで送ってくれないんですか?  だいぶ酔っていたのだろう。目を潤ませてそうせがむ彼女を押しこむように電車に乗せたのはついさっきのことだ。  同じ方向だったので女子社員と一緒に電車に乗ってもよかったのだが、私は酔いを覚ますため隣の駅まで歩くことにし、はたしてその途中で通りかかった繁華街でこの女と出会ったのだ。  性風俗の類いだろうか。  私は不信感も露わな表情を隠そうともしなかったが、かといってうまくあしらったり無視したりもできなかった。  女は上背が小さく、全体的にややずんぐりとしていた。鼻も低く、目は小さい。決して美人とは言えなかったが、二つ、私の目をひくものがあった。  肌の白さと、それとは対照的なほど黒く、腰のあたりまでのびた見事に長い髪。  女の服装は会社帰りのOL然と白いブラウスを着ていたが、肌はその色がかすむほどに透き通っていた。上半身を覆い隠してしまうほど大きな鞄の紐をかけなおした拍子に、まっすぐにおろしていた女の髪が肩口でさらりとほどけていく。 「いくらで?」無意識のうちに私は訊ねていた。  これでも私は会社では堅物と噂されている。博打はうたないし、煙草も吸わない。酒は会社の付き合いと、個人で嗜む程度しか飲まない。売春に手を染めたこともなかったし、女性関係でこじれたこともなかった。  三十にもなって、良い人の一人もいないの? 実家の母からは顔を合わせるたびにそう言われる。  普段はおちゃらけた様子の後輩たちからも、私に話しかけるときだけは心なしか顔がこわばっている。当然、彼らとは冗談を飛ばし合う間柄にはない。  私の何が堅物としての印象を与えるのか、実際のところ私自身が一番よくわかっていない。  誤解しないでいただきたいのは、真面目だなんだと言われる私とて感情を持った一人の人間であり、完全な冷血動物ではないということだ。  仕事に一人前の情熱は向けているつもりだし、日常生活におけるささやかな幸福を喜べる素直なところもある。恋だって、人並みにしてきたつもりだ。  いましがた女子社員のアプローチをかわしたのも、酔ったいきおいにまかせているようなのが気に入らなかったからだ。  据え膳食わぬは男の恥、とはよく言うが、この前時代的な発想が私にはいまいち理解できない。だから誘いを断った。  恋愛とは互いの気持ちを確かめ合いながら一歩ずつ進んでいくもの、私はそう思う。あるいは、このあたりが私が堅物と呼ばれる所以なのか。  週が明ければ、あの女子社員もこのことはきっと忘れているだろうし、もし覚えていたとしてもわざわざ蒸し返すことはしないだろう。  それっきり。この話はおしまいだ。  それはさておき、堅物と呼ばれていても私だって一人の人間、一匹の雄である。  わざわざ街を歩いていたのも、酔いとは違う、もっと本能に根ざした火照りを冷まそうとした無意識がはたらいた結果かもしれない。  そんな私の前に、この女があらわれた。  堅物としての私と、男としての私。心の中では二つの極点がしのぎを削っていた。  そして普段ならまず理性的な決断をくだしていただろうが、この日はけして弱くはない酔いが身体をまわっており、女子社員の誘いへの少なからぬ未練も残っていたため、堅物としての私の旗色のほうが悪かった。  黒髪も見事なこの女の値段を訊いたのも、冗談めかしたはぐらかしではなく、単にこうした市場の相場の見当がつかなかったからだ。  実際のところ、大いに興味はあった。  時折、私以外の男性社員が仕事の合間や飲みの席でいたずらっぽく囁く世界とはどんなものか、知りたい気持ちも否定できなかった。  だが勝手がわからない。  値段はいくらなのか?  場所はどうするのか?  この女はこうした業界では上玉に入るのか?  どういった行為までが許されるのか?  私にはそのすべて手探りだった。 「いくら?」今度は少しばかり肩肘をはって私は訊ねた。  女は口の両端を大きく持ち上げると、身体に比例した小さな手でピースサインをしてみせた。すっと伸びた二本の指の間でネオンがきらめく。  私は女に知られぬよう、静かに納得した。立てた二本の指は数字の「二」を示しているのだ。  問題は、それが二千円と二万円のどちらを意味しているのか。まさか二百円ということはないかと思うが、私はある程度の見当をつけていた。  繁華街を出歩くのは、なにも今晩が初めてではない。忘年会、新年会、歓送迎会に懇親会。日本のサラリーマンはとかくに酒を飲む機会が多いのだ。  仲間と出歩くにぎやかな通りでは、多くの客引きたちが勧誘にいそしんでいる。そんな彼らが担いた大仰な看板には〝一時間三千円〟や〝五千円ぽっきり〟などの安さをうたう派手な文句が書かれている。  今回、女は私に一夜を共にする交渉を持ちかけてきた。となれば、女の拘束時間や労力を考えて、値段は二万円が妥当なのではないか。  私は意志と裏腹に計算を行った。  財布の中にある額と口座に入っている当面の生活資金。ここから女を買うのに出費をしたとして、次の給料日までもつだろうか。  じゅうぶんに余裕がある。頭の中の電卓はそう勘定をはじきだした。いざとなれば積み立てた貯金をくずせばいい、とも。  汗水流して稼いだ金をこんな放蕩に使うのはひどく馬鹿げているし、どことなく危険で破滅的な雰囲気を孕んでいた。にもかかわらず、私の劣情は好奇心を糧にいや増すばかりだった。 「わかった、買うよ」私は言った。緊張と興奮で喉がからからに乾いている。「けど、あんまり持ち合わせがないんだ。コンビニかどこかでお金を――」 「じゃあ、全部で二万でいいです」私の言葉を待たずに、腕を組みながら女が言ってきた。先ほどの女子社員よりもさらに熱い体温が私に伝わってくる。「ホテル代込み、二万円で」 「それも僕が払うのかい?」 「当たり前でしょ」  私の真面目な疑問を冗談と受けとったのか、女がころころと笑う。生気の抜けた、それでいて艶っぽい笑みだった。  知らずしらずのうちに値切り交渉が成功したと言っていいのだろうか。結果的に、私はラブホテルの代金ぶん得をしたことになる。それどころか、女の儲ける金も途端に少なくなるのではないか。  女の損得にまで考えをめぐらせてしまうところも、私の面白みに欠ける部分なのかもしれない。  ともあれ、期待感は高まっていた。足の間にぶら下がったものがそれとなく膨らんで邪魔になっていると悟られないよう、私は注意深く女を連れ立って夜の街を歩いていった。
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