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夜が明けたことを私に知らせてくれたのは朝日ではなく、隣の部屋のドアが開く音だった。そもそも窓もない部屋では、時計を見る以外に正確な時間を計るすべがなかった
部屋から出てきた男女は、どこか熱っぽい言葉を交わしながら廊下を歩いていた。
どれほど熱いひとときを楽しんだのだろうか。私は二人が過ごしたであろう夜を思い描きながら、その睦言の余韻が恐怖の絶叫で彩られるのを待った。女がこの部屋ではなく、エレベーター前の植木鉢か何かに身を潜めているのではないかと考えたのだ。その場合、あのカップルが鋏という毒牙にかかる危険はあったが、私は相変わらず立ち上がるのをためらっていた。
だが男女の声は遠のいていくものの、気違いじみた雄叫びも、死に瀕した悲鳴も聞こえてこなかった。
やがてエレベーターの扉が確かな開閉音を立てると、それきり周囲の物音は止み、ふたたび静寂にその場を譲った。
朝の訪れを体感した意識は、真夜中の時よりもぐっと明瞭になっていた。
私は意を決して張りついた裏腿を剥がすように便座と別れを告げると、脱衣所へとゆっくり足を踏み入れていった。
壁に手を這わせて寝室を目指したが、もっと手前の洗面所に備えつけの蛍光灯のスイッチがあることを思い出したのでそちらを手探りした。
スイッチを押すと、眠たげな白い光が数回点滅した後に灯る。
ふと向いた先に女が立っていた。
思わず息を呑んだ私が仰け反るのと同時に、女も身を引く。
と、そこで私は、女だと思っていたものが鏡に映った自分自身だと気がついた。大量の血を失った私の肌は、あの女にも負けないほど色を失っていたのだ。
明かるさのなかで、脱衣所の床と壁のあちこちにも血が飛び散っているのがわかった。それらはすでに酸化しはじめ、茶色く変色していた。
次いで私は脱衣所のスイッチをすべてオンにすると、周囲を警戒しながら照明のついた浴室のドアに手をかけた。ゴムパッキンで密閉され、室内外の気温差によって開きにくくなっていたドアは、疲労した私にとって古城の大手門ほど重たく感じた。
だがそこに女はいなかった。それどころか、寝室にも女の姿はなかった。空調だけが相変わらず、勤勉に無人の寝室を冷やし続けているだけだった。
私は裸のまま寝室を横切ると、脱衣所同様に、シーツを私の血で海老茶色に染めていたベッドの上に腰かけた。
女がいないことには安心したが、私は同時に落胆もしていた。ここにとり残されたという思いだけが募っていた。切り離された私の指とともに。
そう、指だ。その存在を思い出した私はベッドから立ち上がった。いまから大急ぎで病院に駆けこめば、まだ繋げてもらえるかもしれない。
私はベッドをまわりこむと、クローゼット周辺の床を這うようにして指を探した。床はベッドの影に入っていて薄暗く、私をもどかしい気持ちにさせた。
だが、どこにもなかった。携帯電話の光を照らしてベッドの下も覗きこんでみたが、そこには埃と紙くずが転がっていただけだった。まさかと思って覗いたクローゼットの中も空っぽだった。
持っていかれた。ぽっかりと口を開けるクローゼットの前で、私は力なくへたりこんだ。
あの女は確かにここに戻ってきたのだ。私がトイレで吐いているあいだに部屋に忍びこみ、指を拾うと明りを消して部屋から出ていったのだ。
だがそれ以外に部屋の様子は、私たちが入ってきたときと……正確には私がトイレに駆けこむ前とほとんど変わっていなかった。
女が脱ぎ捨てた服も、ボードに置いていった鞄もそのままだった。つまり女は全裸のままここに戻り、そしてまた全裸のまま立ち去っていったことになる。
きっと右手に裁ち鋏、左手に私の小指を握りしめて。
私は這うようにしてベッドに戻ると、女の鞄を手にとった。
小柄な女の上半身をすっぽりと覆ってしまうほど大きなバッグは、予想に反して軽かった。はたして中を覗いてみると、何も入っていなかった。
あの女はこの鞄に巨大な裁ち鋏だけを入れていたのだ。そして夜の街へと消えていった。自分の黒髪をほかの誰かに食わせるために。
全身の力が抜け、私はそのままベッドにごろんと横たわった。なんということか、鞄に鋏しか入れていなかったとなると、あの女は最初から偏執狂的な願望を達成するためだけに私を利用したことになる。
裏切られた。私は思った。そしてその感情の意味するところは、指を切り落とされたいまをもってなお、あの女に対して愛情を抱いているということだった。
天井をぼんやりと眺めながら、全身がベッドに溶けていくような感覚に身を委ねる。
剥き身の肌が寒さに震えたが、私はそのまま深い眠りに落ちた。
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