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Ⅵ
私がホテルをあとにしたのは月曜日の昼前だった。
会社から携帯電話に入った連絡が、私にこの場から立ち去る決意をさせた。
無断欠勤などしたことがない私を同僚の誰もが心配していたらしい。
私は週末に事故に遭い、いままで連絡をとれなかったと嘘をでっちあげ、詫びた上でさらに数日間会社を休む許しを得た。
それから身支度を整えた私は、財布の有り金すべてをベッドボードの上に置いて部屋から出ていった。
手持ちの金だけで数日間の宿泊料がまかなえるとは思えなかったが、ほかにどうしようもなかった。
女が出て行ったであろう非常階段から人目の忍ぶようにして繁華街に出た瞬間、私は立小便や落書きとは違う、決定的な犯罪を犯すことになった。
それから数日間、私は自宅でまんじりともせず過ごした。
生活が落ち着いたあとで仕事に復帰することも考えたが、結局一ヶ月もしないうちに辞めた。
皆は事故で指を失ったことによるショックが退職の原因だと思ってくれているようだ。少なくとも、彼らの理解を得られたことと、会社に復帰した折、上司に診断書を渡さなくて済んだことの二点において、指を切り落とされたことは役に立った。
だが、私が会社を辞めた理由はほかにあった。
あれ以来、私は毎夜のようにあの繁華街をうろついている。そうすることで、あの女と再会できるかもしれないと期待を抱いていたのだ。
ひどい目に遭わされたことに対して復讐するため?
あれだけ危険な女を野放しにしておくわけにはいかないという義憤から?
どちらも違う。
私があの女へ向ける情熱は、そうした物騒な類のものより、もっとロマンチズムに根ざした感情だろう。
端的に言えば、私はあの女に恋をしてしまったのだ。ふたたび会うことで、女に殺されたとしても構わなかった。
それよりももう一度あの女の黒髪を口にしたい。あの巨大な鋏で身体を切り刻まれたい。そうした上で、快楽の頂点に達した瞬間に死を迎えたい。
私は強くそう願っていた。
あの夜から一年が経とうとしている。
ふたたび夏が訪れようとするなか。私は今夜も蒸し暑い繁華街をさまよっている。
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