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 悪い遊びに免疫のない私であったが、それでもラブホテルのひとつくらいは利用したことがある。学生時代と社会人になりたての頃、それぞれ当時付き合っていた恋人と一回ずつ入ったことがあった。 「どこがいい?」ホテルのエントランスに入ると、私はもたれかかるように腕をからませてくる女に訊ねた。 「選んでください。お金はあなた持ちなんだから」  私は頷くと、内装が紹介されたディスプレイから最上階の部屋を選んだ。一番高い部屋だったが、躊躇はなかった。  こうなったらとことん楽しんでやろう。私は半ば開き直るようにそう思っていた。これも社会経験と、おあつらえむきの釈明を引っ提げて、今夜だけは堅物の鎧を脱ぎ捨てようと心に誓った。  どこのラブホテルもそうなのだろうが、受付窓口とエントランスはお互いの姿が見えないようになっている。  部屋を選んで窓口まで行くと、申し合わせたように衝立の向こうから手が伸びてトレイの上に鍵を置いた。 「五〇三号室です」姿の見えない中年女性の声がそう言う。「ご延長や御用の際はお電話下さい。ごゆっくりどうぞ」  感情を排した淡白な声に見送られ、お互いに無言のまま廊下を進む。  私たちを乗せたエレベーターは信じられないほどの遅さで目的の階を目指した。  故障でもしているのではないかと、私は思わず苛立ちをおぼえた。当然エレベーターは壊れてなどいないし、順調に最上階を目指している。ひとところにぐずぐずと留まっていると思わせているのは、早く女とねんごろになりたいという私自身の焦燥感だろう。これほどまでに気持ちが昂ぶるのは久しぶりだった。  思えば、初めて女性と親密な関係を持ったとき以来ではなかろうか。行きずりの女は私に若さと無鉄砲さを取り戻させてくれた。  五階の廊下は蒸し風呂のように暑く、しんと静まりかえっていた。背後でエレベーターの扉が閉まる音がやけに大きく感じる。  密閉されたこの空間では表の喧騒も届かないらしい。唯一、外界の存在をにおわせたのは、都の条例を無視して街頭で打ち鳴らされるダンスミュージックのベースラインだけだった。  壁を震わせてかすかに届いてくる重低音が、私の耳の奥で高鳴る心臓と共鳴している。会社の定期健診でも要再検査のつまづきひとつもらったことのない私だったが、いまはその鼓動が心筋梗塞の一歩手前まで早まっていた。  私の興奮などつゆ知らず、女は相変わらず平然とした様子で腕に絡みついていた。  半袖のシャツから伸びた私の腕が、女の開いたブラウスの胸元に触れる。その肌がしっとりと汗ばんでいるのを感じ、私の心はますますかきたてられた。血流が激しくなり、さめはじめていたはずの酔いが悪いかたちでぶり返してくる。アドレナリンとアルコール、それに蒸し暑さのせいで廊下は一歩進むごとにぐにゃぐにゃと歪んでいった。  廊下の突き当たりにある部屋の前に辿りつくころには、私の足どりはすっかりおぼつかないものになっていた。廊下の反対側、表の非常階段へと通じる鉄の扉からは、まだ単調なベース音が響いていた。 「さあ、しっかり」  女の励ましに助けられ、私はドアに鍵を挿し込んだ。  鍵と鍵穴。弱まった理性をすり抜けて、その二つが野卑な連想をさせる。これから私の鍵は女の鍵穴に挿し込まれる。その喩えに、視界の中で世界がぐるりと一回転しそうになった。  先に行動を起こしたのは女のほうだった。背後でドアが閉まるや私から一瞬身を放すと、すぐに首っ玉にかじりついてきたのだ。  胸元、首元を問わず、口づけが私の身体じゅうに降り注いでくる。それから女はその妙に厚ぼったい唇で私の口元を捉えると、痛いほどの強さで吸ってきた。  私はどうすることもできなかった。ただ女に唇を吸われながら、所在無げに部屋の中を見渡すことしかできなかった。  フロントのディスプレイが映した画像より見劣りするものの、五〇三号室はそれでも値段が高いだけあって内装も立派だった。  ドアを横切るように導線が引かれ、右手に靴箱、左手は寝室へとつながっていた。奥は十畳ほどの広さがあり、突き当たりのクローゼットを従えてダブルサイズのベッドが鎮座している。ドアに背を押しつける姿勢となった私は、女の頭越しに木製の引き戸を見つけた。その奥は浴室なのだろう。  これらを確認するころには、顔と胸元は女の唾液まみれになっていた。私は自分の本能に抗うように、女の身体を引き剥がした。 「どうしたんですか?」女が喘ぐように訊ねてくる。 「先にシャワー、浴びたいんだ」同じくらいぜいぜいと息をしながら私は答えた。  女が潤んだ目で見つめ返してきた。こうして見ると、唇以外はやはりのっぺりとした薄い印象の顔立ちだ。身を離すときにつかんだ肩は私の手にすっぽりとおさまってしまうほど細い。やはり取り立てて特徴のない女だったが、その黒髪だけは息を呑むほど美しかった。あれだけ激しい口づけだったにもかかわらず、女の髪は櫛を入れたばかりのように少しも乱れていない。 「いいかな?」  無言のままの女にふたたび訊ねると、私は答えも待たずに正面の引き戸を開けて奥へと引っこんだ。  後ろ手に戸を閉め、暗闇の中電灯のスイッチを探し当てる。白色灯に照らされ、奥へと縦長に伸びる脱衣所が浮かびあがった。私は通勤鞄を投げ捨てるように手放すと右手にある擦りガラスのはめこまれたドアを無視して、奥のドアへと駆けこんだ。  過たず、そこはトイレだった。ベルトを外し、チャックを降ろしてペニスをつまみ出す。膨らみかけの先端がねっとりと濡れている。下着をみると、そちらにも大きな染みができている。いかに冷静さを欠いていたかを見せつけられたようで、私は大きく嘆息した。
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