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 用を足し終えると、私は先ほど素通りした擦りガラスのドアを開けた。こちらも予想通り浴室だった。  湿気が足元に忍び寄るなか、廊下に備え付けの洗面所から使い捨ての歯ブラシを抜き取り、小指ほどのチューブから練り粉を搾り出し、親の敵でもあるかのようにまず歯を磨く。  女の口づけに対する嫌悪感はなかった。むしろその逆で、キスの相手である私の酒臭さが申し訳なかったのだ。  浴槽は足を伸ばせるほど広々としており、そばの壁には銀色の大きなボタンがあった。歯を磨きながらそれを押してみると、途端に浴室が暗くなり、浴槽のジェット機能が働いた。  気泡を含んだ湯が勢いよくはき出され、底に取りつけられた電飾の淡い光が色とりどりに変化していく。ピンク、赤、紫、青、水色、緑、黄色。  歯を磨き終えるのと風呂がたまるのとはほとんど同時だった。私は乾いた愛液で下腹部と張りついていた下着ごと服を脱ぎ捨てると、シャワーで汗を流し、湯船につかった。  熱い湯に日々の仕事でたまった疲労感が溶け出していく。先ほどの抱擁とは違う、静かな心地よさがそこにはあった。  酔いもさめたことでふと冷静な思考が戻ると、私は情けない気持ちになった。  ちょっとした火遊びで英気を養おうという考え自体は悪くないものに思えたが、これではまるで童貞の小僧ではないか。いや、それよりも性質が悪い、突然の口づけに驚いて逃げ出すところなど、生娘もいいところだ。  興味こそつきないものの、やはり売春に対する抵抗があるのだろう。無理からぬことだ、いましがたあったばかりの男女が肌を合わせるなど、やはり常識的とは言えない。  私は両手で湯をすくうと、景気づけとばかりに顔を洗った。それから風呂から出て、まず女に金を支払うことに決めた。それさえ済ませてしまえば、あとは割り切れるはずだ。いや、割り切らなくてはここに来た意味がない。  腹を括って浴槽の淵に手をかけた瞬間、風呂場の扉がひらかれた。  驚く私の目の前にあらわれたのは、一糸まとわぬ姿の女だった。  私は唖然とした。あらためて目にした、その肌の美しさに心を打たれていたのだ。そんな私をよそに、女がためらうことなくこちらへ歩み寄ってくる。  体型は相変わらずずんぐりとしていたが、その印象を持たせたのは主に女の下半身だった。むしろ腰から上の肉づきは薄く、乳房も胸板に小ぶりなものがついているだけで、全体的に洋梨のようなかたちをしていた。  女が浴槽のへりをまたごうと足をあげた拍子に、薄い恥毛が私の鼻先に飛びこんでくる。湯船の中にしゃがみこんだ女は、その反対側にいる私に向かって微笑みかけた。  妖艶な笑みだった。太陽のような快活な笑顔が世の中にあるとして、女の表情はその反対の、まるで冷たい月のようだった。  そこで私は驚くべき事実に気がついた。あれだけ汗をかき、これだけ湿気の多い浴室にいるにもかかわらず、女の顔は出会ったときとほとんど変わっていなかったのだ。  めくるめく愛の一夜が明けると、そこには少なからず幻滅というものが横たわっている。  情事の後で眠りについたときの鼾がうるさかったとか、目覚めのキスからつんとした口臭が鼻をついただとか。  化粧を落とした女性の姿もまたそうした幻滅のひとつである。昨夜、あれだけ眩しかった女の美貌が、朝になると魔法のように消えてしまう。態度にこそ出さないものの、世の男性はそのことに落胆を禁じえない。かくいう私もそうだ。  だが目の前の女は、世の女性一般が自分自身に施す魔法をほとんど我が身にかけていなかった。女はまったくと言ってよいほど化粧をしていなかったのだ。  いまの見てくれはこんなだが、化粧さえきちんとすればこの女はとんでもない美人になるぞ。私の打算的な側面がそう結論づける。 「そういえば、まだお金を払っていなかったね」抱いた期待をひた隠しながら私は言った。 「終わったあとでいいですよ」 「名前、まだ聞いてなかったけど」 「そんなの、今からすることに必要ですか?」  答えあぐねる私に、女がそっと近づく。水面にさざ波をひとつとして立てない、静かだが素早い動きだった。  水中で伸ばした女の手が局部に触れてくる。この不意打ちに、私は思わず呻き声をもらしてしまった。それでいたずら心に火がついたのか、女はゆっくりと私の陰嚢を揉みはじめた。腰を中心に、弱い電流のようなものが走る。途端に私が先ほどまで女に抱いていたためらいは、快感で拭い去られてしまった。 「気持ちいいですか?」分かりきっていることを女が聞いてくる。身体で金を稼ぐ、男の泣きどころを心得ている者の声だった。  答える代わりに、私は黒髪に手を伸ばした。それは相変わらず美しく、湯についている毛先は別として乾いているときでも艶をたもっていた。  私の指先が触れる瞬間、女は怯えるように少しだけ肩を縮めた。愛撫する手が休まらなかったことから女が演技をしていることもわかったが、それでも私は愛しさを感じた。  手で髪を梳いていく。見た目以上に滑らかな手触りだ。私の指についた水滴を宝石のように輝かせながら、女の黒髪はさらに美しさを増していた。  髪と陰部。触れ合う場所こそ違えど、これは紛れもないペッティング行為だった。私はすっかりのぼせあがっていたが、女のほうも明らかに頬を紅潮させていた。  浴室を二人の息づかいだけが支配する。実際のところ女がどう感じていたのかはわからなかったが、私のほうはこれだけでも大枚をはたいたかいがあったものだと満足していた。  だが、お互い絶頂には達していなかった。果てしない夜は、まだ幕を開けたばかりだ。 「先にあがって、髪を乾かしておきます」私への愛撫を終えた女はそう言って立ち上がった。「待ってますね」  女が浴室を後にすると、私は浴槽に頭をあずけて天井を見上げた。愛撫の名残だろうか、天井から垂れる鈴なりの水滴が、立ち昇った熱気の激しさを物語っているようだ。  すぐにでも女を追いかけたかったが、私にはそれができなかった。がっついて女の機嫌を損ねたくなかったのではない。私のなかで迷いはほとんどふっきれていた。  ただ、女の指使いに腰が砕けて、しばらく立ち上がることができなかったのだ。
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