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 もはや何も気にならなかった。脱ぎ捨てたスーツをハンガーにかけてクローゼットにしまっていないことや、部屋に置かれたプラズマテレビできわどいポルノチャンネルや週末のニュース番組を眺めることも考えられなかった。  気がつけば、私は顔を持ち上げて女の唇を吸っていた。女もそれに応じながら、あらためて秘境の入り口へと私を導き、腰を沈めていった。  そこは灼熱の溶鉱炉だった。  熱をもった肉の壁がとろけあって私を圧迫してくる。吸い上げようと蠕動する胎内の動きに、女が上下させる腰の動きがくわわる。ゆっくりとこすりあげるたび、骨盤ごと抜かれていきそうな刺激が襲いかかってくる。ふくよかな女の下半身に裏打ちされた快感だった。  このままでは、すぐに終わってしまう。そんな私の予想とは裏腹に、交わりは果てしなくつづいた。時間が糖蜜のような粘度で進んでいくなか、女の膣に潜りこんだ私の陰茎は、果てるどころかますます硬度を増していた。  ややあって女が腰の動きを止める。彼女は全身を密着させると、くわえこんだ状態はそのままに、心持ち尻をあげた。  触れ合う女の胸と頬が炎のように熱くなっている。腰を振っているあいだ私が手を乗せていた女の太腿も、湯気立つほどに発熱していた。女は私の両手をとると、汗と愛液で湿る自分の膝裏で挟み込んだ。私はちょうど仰向けのまま、まっすぐ気をつけをとる姿勢となった。  両手の自由のきかない私の頭上で、女がボードに置いた鞄をあさる音がする。  明かりを消すのだろうか(劣情で燃え上がった私たちは、照明を落とすことも忘れていた)、それとも喉が渇いたから水でも飲むのか。まさかこの期に及んで化粧をなおすわけではあるまい。  女に下腹部をじらされながら、私はじりじりとそんな事を考えていた。  身を起こした女の手には裁ち鋏が握られていた。  大きな鋏だった。刃渡りは二十センチ以上はあるだろうか。全体に焦げ茶色の錆が浮き、かなり年季が入っている。その刃の鋭さと持ち手の黒さもあいまって、化け烏のくちばしを思わせる。  女は身を起こして私の上に座りなおすと、切れ味を確認するように鋏の刃を開閉してみせた。古ぼけた見た目とは裏腹な、刃物同士の擦れる凍りつくような音が響いた。  身をすくめる私の体内から血の気が引いていったが、一物だけは最前と変わらず少しも縮むことはなかった。  咄嗟に突き飛ばそうとしたが、肝心の両手はその女の汗と、吸いつくような柔肌によってがっちりとおさえつけられていた。  そこに物静かな娼婦の姿はなかった。いや、静かなのは変わりなかったが、女の薄皮一枚が包んだ内側では、とてつもない狂気が渦巻いていた。  女は白眼を剥いたまま、神に祈る蛮族のように両手を力なく持ち上げると、再び肉欲の命ずるままに私とのまぐわいを再開した。  この女の豹変を前になすすべもない私は、ただ裁ち鋏に釘付けになっていた。  裁ち鋏は持ち手が辛うじて指にぶら下がっているような状態で、女が腰を振るたびに危なっかしく揺れた。女の手から落ちた鋏が耳をそぎ落とすのか、それとも胸板に突き刺さるのか、私は息を飲んで見守った。  もしかしたら、女が衝動的に私の顔めがけて鋏を振り下ろすかもしれない。仮にそうなったら私に残された自由は、顔を背ける方向で、左右の眼球のうちどちらを犠牲にするかを決められることくらいだった。  私はどうにか太腿から手を引き抜けないかと……無論、女に勘付かれぬよう細心の注意をはらって身をよじった。だが拘束はびくともしなかった。あれだけ性的な魅力をたたえた豊満な下半身は、瞬時に囚人をつなぐ枷となっていた。  生殺与奪の一切を女に委ねられたことを唐突に理解し、私はもう少しであげそうになった悲鳴を飲みこんだ。だがどこかで無理をすれば、そのツケは別の場所で支払わされることになる。私はこの夜、身をもってそれを経験した。  ある意味で、この事はお笑い種になるかもしれない。だが、あの夜道化を演じた張本人である私にとって、これはいまでも掛け値無しの恐怖にかわりはない。  とにかく、悲鳴のエネルギーはどこをどう伝わったのか私の下半身へと伝播したのだ。  見えない糸に引っ張られるように、私のペニスは大きく腹の方へと反りあがった。  私にとっては身体の一部がちょっとした宇宙遊泳をやってのけた程度にしか感じなかった。だが、女はどうだったろう。漁師の手から逃れようとする魚のように、身体のなかで最もデリケートな部分にむかえたものが跳ねまわったのだ。  敏感な部分をなぞられ、周遊された女の体内で刺激が爆発した。女が忘我の状態から立ち直るのは必然だった。  女の動きが止まり、白眼の上からこぼれるようにあらわれた黒眼に、私は束の間射すくめられた。同時に私は、自分の生理的な反応がとんでもない事態を招いてしまったことにも気づいてしまった。  もはや、私を快感の果てへ連れ去ってくれる女はそこにはいなかった。いるのは現代によみがえった魔女の末裔のように禍々しい存在だった。  私は、演劇舞台の背景に吊るされた月の書き割りのように平板な女の瞳の中に、その存在を見てとった。  やおら女が鋏を持ち上げる。その姿に、私はこれまでと観念した。  いっぽうで命の危機を前に、私の股間はますます怒張していた。その代わり……これも無理をした代償だ。結局、そのツケはどこかで払わされる……身体が強い便意を催しているのを意識の片隅で感じていた。  だが、女は鋏で私の心臓を突き刺すことも、腹をさばいて腸を引きずり出すこともしなかった。  その代わり、女は自分の黒髪をひと房掴むと、それを鋏で切っていった。
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