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 黒髪がいよいよ喉を圧迫し、完全に気道を塞いでくる。しかし私は怯まなかった。黒いかたまりとなった髪を吐き出そうともしなかった。むしろそれを飲みこんで、自らの力に変えてやろうとさえ考えていた。  脳裏に、黒い塊が白い弾丸に変わって、砲塔へと装填されるイメージが浮かぶ。  ツケを払うぞ。ただし、今度はおまえに払ってもらう。  最後の一突きは、確実に女の最奥に届いていた。私はそれを、身体のもっとも感覚が鋭敏な部分で察知していた。  絶頂の声が長く尾を引くなか、私の股間は女の中ではじけた。胎内に潜りこんだペニスが何度も飛び跳ね、子種をほとばしらせながら萎んでいく。  意識がふっと遠のいていく。解き放たれた精神がたどりついたのは、世間体も春の売買も、自分の生き死さえも存在しない、純真無垢の世界だった。  生暖かい液体が腹の上を広がっていく。朦朧とした意識のなか、私は女が鋏を突き刺してきたのだと思った。  だが、実際は違った。女が全身を震わせながら失禁していたのだ。それとともに、万力のような太股の締めつけは完全に弱まっていた。  無意識のうちに私は両手を抜きさると、身を起こして女を突き飛ばした。  膣から抜け出したペニスが冷房の効いた外気に触れる。女の股間からなおも放出される尿が放物線を描いて私の顔にかかる。  瀬戸物の壺を落とすような鈍い音とともに、女は後頭部から床に落下した。仰向けの姿勢のまま、女は手足をばたつかせながら意味の分からない声を張りあげていた。  床に敷かれた絨毯を小便の染みが暗く染めていく。私は女が、体液をまき散らしながら断末魔の最期をとげる毒蜘蛛のように見えた。  女はそれきり動かなくなった。仰向けの姿勢で両手を投げ出し、脚は膝を折って立てていた。残された短い黒髪に覆われて顔は見えなかったが、胸が激しく上下していることから死んではいないようだ。  信じてはもらえないかもしれないが私はこの瞬間、呼吸することを完全に忘れていた。それどころか、喉に指を入れ、詰まった女の髪を掻きだすことすら思いついていなかった。  頭の中にあったのは彼女の身を案じる思いだけだった。殺されかけたにもかかわらず、愛しささえ感じていた。  私は女に近づき、右手を差し出した。  女の手で何かがきらめく。それが裁ち鋏の刃だと気づいたときには、私の小指は吹き飛んでいた。私は何が起きたのかすぐには理解できず、起きあがって邪悪な笑みを浮かべる女をただ見つめていた。  少しの間を置いて、つい先ほどまで小指のあった部分で炎が燃えるような痛みが生じた。  子供の頃、緊急手術によってからくも人差し指がつなぎ止められというのに、二十年という歳月を経てまた別の場所が切り離され、クローゼットの傍らに転がることとなった。  私は反射的に左手の平で切り株のようになった指の傷を押さえつけた。  途端にむき出しの神経が血液を煮えたぎる溶岩に変え、涙でぼやけた視界のあちこちでいくつもの星が点滅した。  毒蜘蛛はまだ死んではいなかった。死ぬ直前に、最期の一撃を放ってきたのだ。  脂汗を滲ませる私の目の前で、女がゆっくりと立ち上がる。振り乱された髪の下から覗く眼は怒りに燃え、憎悪で爛々と輝いていた。繁華街で見たつぶらな瞳とは似ても似つかなかった。  私はといえば呼吸ができないことも忘れ、その視線に射竦められていた。きっと怯えた草食動物のような目をしていただろう。  女はゆっくりと口を開けると、喉の奥底から恨みに満ちた声をあげた。はじめこそ小さかったものの、しだいに声量と強さを増していく。地獄に時を告げるサイレンがあるとしたら、ちょうどこんな音なのかもしれない。  女の唸りは叫びになり、やがて呪詛をはらんだ咆哮へと変わった。巨大化した女の声が、私を飲みこもうとする。  今度こそ私は、自分が取り返しのつかないことをしたのだと感じた。必死の抵抗により拘束からは逃れられたものの、それは相手の逆鱗に触れる行為であったことを、いまさらながら思い知らされた。  指の痛みは吹き飛んでいた。恐怖に慄いた私の心は、生まれて初めて神か、あるいはそれに準ずる何かに縋った。  獲物に飛びかかる肉食獣のごとく、全裸の女が前屈みになってゆっくりと腰を落とす。  死を待つだけの私は目を覆ってしまいたかったが、全身は硬直し、眉ひとつ動かすこともできなかった。  と、不意に女は踵を返すと、寝室を走りぬけ、廊下へと飛び出していった。どたどたという足音が人気のないエレベーターホールを抜け、通路の反対側にある非常口の向こうへと消えていく。  それきりあたりを静寂が包んだが、私の脳裏には女が非常階段を風のように駆け下りる様がまざまざと浮かんでいた。  あとに残された私は、ベッドの上でアヒルのように脚をたたんでへたりこんでいたが、すぐに息苦しさを覚えてベッドから飛び降り、転がるように脱衣所の奥にあるトイレを目指した。  あとで考えてみれば、その場で床に髪の毛を吐き出してしまったほうがはるかによかったのかもしれない。だが混乱していた私は命の危機に瀕していたにもかかわらず、律儀にもトイレを目指していたのだ。  ともかく、私は生き残った。
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