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Ⅴ
女……あるいは魔女や、もっと恐ろしい怪物を退けた私の奇談には、この夜にはまだつづきがある。
真っ暗闇の洗面所を脱衣カゴに躓きながら進み、トイレの明かりをつけ、もどかしくもなかなか指にかからない便座の蓋を開けて、ようやく洋式便器と対面した私は反吐と一緒に喉に詰まった異物を追い出すことができた。
吐き出した内容物には茶色がかった血が混じっており、ところどころにおぞましいほどどす黒いかたまりが浮いていた。
便器の底にたまったそれらが、今日の夕方、割烹居酒屋でお通しとして出された焦げ目のついたオムレツと重なり、私はまた吐いた。今度は黄色い胃液しか出なかった。
どれぐらいの時間、便器と熱い抱擁を交わしただろうか。たえだえの息もようやく落ち着きを取り戻し、私はやおら立ち上って反吐を溜めたままの便座にまたがった。
女に襲われたときに感じた便意が、胸にすべりこんだ安堵とともによみがえったのだ。
見てろ、お前の髪の毛の上に糞をかけてやる。
女への仕返しに暗いよろこびをおぼえつつ、私は尻にこめていた力を緩めた。水っぽい固形物が顔を出し、酸味の強い臭いに糞便の臭いが混ざっていく。倒錯ここに極まれりと言えたが、いまの私には復讐心を満たす方法がこれしか思いつかなかった。
人心地ついた私は、そこであらためて自分が小指を失ったことを思い出した。
よく見れば、あたりは床や白い陶製の便器をとわず、一面が血で汚れていた。傷口からはいまも緩めた蛇口を流れるようないきおいで血があふれていた。
ありがたいことに……といっても当たり前のことだが、私のすぐ横の壁にはトイレットペーパーをセットしたホルダーが取りつけられていた。
私はペーパーの端を掴むと、それを一気に引き出した。芯を支点に、ホルダーの中が狂ったように回転する。狂った、円の内側でハムスターが疾走する血まみれの回し車。
紙がなくなるのと、いきおいあまってできたばかりの傷を壁にぶつけるのとはほぼ同時だった。
小指の根本に錐を突き入れられるような激痛に私は思わず悲鳴をあげた。痛みをまぎらわそうとペーパーの塊を傷口に押し当てたが、すぐに赤い花が白地に大輪を咲かせ、柔らかな紙をぼろぼろと崩していった。
ショックで脳内物質も品切れになったのか、心臓が脈打つたびに傷口をハンマーで叩かれるような鈍痛が襲ってきた。
悪臭に包まれたまま便器に腰かけ、私は泣いた。
痛みはもちろんのこと、寒さも身体に堪えた。女と抱き合っていたときは自分の熱気と女の体温で汗ばむほどだったが、大量の血液を身体の外に流してしまったせいか、いま全身は凍えるほどだった。
だが痛みや寒さだけが涙の理由ではなかった。なにより私は、失った指を思って泣いていた。
何故あの女と一夜をともにすることを選んでしまったのか。いっそ私を誘ってきた女子社員と同じ電車に乗ればよかったのだ。そうすれば酒の手助けによる一夜の過ちにばつの悪さをおぼえこそすれ、指を切り落とされることはなかったのだから。
二十年前、からくも指の一本を失いかけた右手。それ以来、私は身体のこの部分にほか以上の愛情を持っていた。ふたたび欠けてしまったいま、私はそれを実感していた。
いまも小指はベッド脇の暗がりに転がっているのだろうか。
ああ、可哀相な指よ。すぐにでも拾いに行きたかったが、私はもはや精根尽き果てていた。少しでも出血を減らそうと押さえた傷の根元ごと両腕を高くあげたが、そのすべてが分銅のように重たかったし、トイレから寝室までの距離が別の惑星ほど遠くに感じた。
私がいまいるトイレから伸びる洗面所には、深淵とも言えるような闇が横たわっている。半開きになった引き戸の先にある寝室もまた、暗闇に包まれていた。
ドアを開け放ったトイレの個室からその様子を眺めていた私は、そこである違和感に気づいた。
はじめのほうこそ、それはパズルのなんでもないピースがぱちりとはまる程度の手ごたえしか私に感じさせなかった。だがそのピースをきっかけに次々と出来上がっていくパズルの絵全体を見て、私の全身は総毛立った。
私はいつ、寝室の明かりを消したのか?
疑問が裁判官の打ち鳴らす木槌のように私の頭の中で反響する。
そして私は思い出した。明かりは一度も消していないことを。
女と連れだって部屋に入ったときも、セックスに臨んだときも、黒髪をたっぷり喉に詰めこんだ私がトイレに駆けていったときも、寝室の明かりは消えていなかった。
私はあらためて前方の暗がりを見た。這うようにまとわりついてくる冷気がいっそう強まった気がする。
女の持っていた裁ち鋏の、氷のような冷たさの中に灼熱の痛みをもたらす刃が霧となって、私をとりまいているかのようだった。
誰が寝室の明かりを消したのか?
動悸が早まり、恐怖にかられた私は乱れた呼吸を繰り返すことしかできなかった。
自分がネコに追い詰められたネズミのように思えた。いや、それともろくな稽古もしないまま舞台を照らすピンスポットの下に駆り出されてしまった端役だろうか。
頭上から照らすトイレの明かりが、私を闇から追い立てていた。
あの女が復讐に戻ってきたのか?
疑問が頭のなかを駆け巡り極度のパニックに襲われながらも、私は身じろぎひとつできずにいた。少しでも身体を動かそうものなら、目の前の闇から鋏を手にした女がゆらりとあらわれる気がしてならなかったのだ。
後方の壁には窓もなく、前方のドアは開け放たれ、女が潜んでいるかもしれない暗がりばかりが広がっている。おまけに私は全裸のまま深い傷を負い、体力と気力も失ったまま銃を突きつけられた人質のように情けなく両手をあげている。
膀胱が緩み、私は失禁した。小便から立ちのぼる湯気が新たな悪臭を足していく。
唯一の慰めは、それが跨った便座からこぼれなかったことだった。
歯の根が合わず、私はがちがちと音をたてながら震えていた。悲鳴がいまにも肺からほとばしりそうになったが、必死でそれを耐えた。物音をたてたが最後、それを聞きつけた女が襲いかかってくるに違いないと思えたからだ。部屋の出入り口からトイレは丸見えだったし、頭上では明かりが煌々と灯っている。
このような状態では私の居場所がとうに女にばれている可能性はじゅうぶんにあったが、それでも私は息を潜めつづけた。そうすることで、私の存在そのものが消えてなくなると本気で信じていた。
だが、なんの変化も訪れなかった。
どこかで物音がしたり、あの化け物じみた咆哮が聞こえたりもしなければ、女の柔らかな匂いがすることも、女自体が私の目の前に姿をあらわすこともなかった。
ただ闇だけが私の前で静かに横たわり、時の流れまでも止めてしまっているかのようだった。
まんじりともせずに私は待った。唐突に襲いくるであろう狂気の女に、身構えるでも降伏するでもなく、ただ待ち続けた。
寝室から鋏を開閉する音が聞こえるのを待った。
廊下のドアの隙間から、女の白い手が伸びてくるのを待った。
湯を張った浴室から誰かが出てくるのを待った。
トイレのドア枠の上から、逆さまになった女が顔を覗かせるのを待った。
便器の中、またぐらから女がこちらを見上げてくるのを待った。
背後から女の黒髪が私の顔の横に垂れ下がってくるのを待った。
女に殺されるのを待った。私は待ち続けた。
待ちながら、私の頭にある甘美な考えが浮かんでいた。いっそこちらから躍り出て、闇と同一化した女の前に身をさらすのだ。
それは一種の破滅的な願望だった。断崖にぶらさがった登山家が命綱を切ったり、水中で潜水士が自分の担いだボンベのバルブを緩めて酸素をすっかり捨ててしまうのと同等の考えだった。
だがそうすれば、すべてにけりを着けてしまえるのもまた事実だった。
無意識のうちに私は便座から立ち上がりかけていた。それを阻止したのは、私の理性だった。
私は両腕をおろすと、右手の傷口に左手の親指を目一杯の力で押しつけた。全身を電撃が走り、脳が沸騰するような痛みが爆発する。
だが、声はあげなかった。傷口を抉ったまま私は左手首を強く噛み、悲鳴を押し殺した。
外に出ればこれよりももっと痛い目にあうぞ。私は脅しつけるように、自分自身を鼓舞した。
左手首に食いこんだ歯が肉を破り、そこからあらたに血が滲んでくる。
血は温かかった。温もりは、私に勇気と正常な判断力を与えた。
果てしない夜はまだ続いていた。
それでも私は本能で、いずれは終わりがやってくることを知っていた。
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