ジャガーと毒ガエル

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 家に帰ると、窓辺には相変わらず毒ガエルが居座っている。パコはそちらを見ないようにしながら鞄を放ると、倒れこむようにしてベッドの上へと突っ伏した。痛みと情けなさのせいで、いまだけは毒ガエルの存在が些事に思えた。 「今日もたいした怪我をこさえてきたもんだな」  パコは枕に顔をうずめたまま何も答えなかった。  おまえのせいだ。そんな八つ当たりに近い考えが頭に浮かぶ。いっそ、この毒ガエルを相手に日頃の不満をぶちまけてやろうかとも思ったが、やめた。ペドロからいじめを受けているのはこのカエルのせいではないし、本人が悪くないのに責めを受けるというのが、いまの自分の立場とあまりにも似ていたからだ。  パコは何も言わない代わりに片手を振った。その拍子に、締め上げられた肩が痛んで思わず呻いてしまう。 「手当が必要か? まああいにく、俺が持ってるのは毒だけだがな」 「いい」身を起こし、こちらを見つめる毒ガエルにこう続ける。「自分でやるよ。それよりきみはいらないの? その、お水とか」 「お言葉に甘えるとするか。昨日と同じやつをひとつ頼む」  ベッドから起き上がったパコはリビングへと向かった。昨日からテーブルに置いたままにしておいた救急箱を開き、脱脂綿をひとつかみすると台所の蛇口で水を濡らした。それから救急箱も抱えて部屋に戻り、水滴をたらす脱脂綿を窓辺の端に置いた。毒ガエルに近づくことへの抵抗感は減っていたが、すっかり警戒を解いたわけでもなかった。  相手もそれがわかっているのだろう。毒ガエルはその場で待ち、パコがベッドの上に戻ってから脱脂綿に仰向けになって肌に水分を吸わせた。 「ありがとうな、若いの。なんて名前なんだ?」 「ルイス」なかなか指から離れようとしない絆創膏の包装紙と格闘しながらパコは言った。「でも、みんな僕のことはパコって呼んでる。ばあちゃんとか……近所のホセおじさんとか」 「友達もか?」 「きみの名前は?」答えないまま、パコは訊ね返した。 「マローノだ。世話になるぜ、パコ。ところでいまさらだが、あんたは俺のことが怖くないのか?」 「毒があるから?」 「喋るからさ。まえに人間にうっかり話しかけちまったときは、そりゃひどい目に遭ってな。だが黙ってるのはどうにも性に合わん。俺の口からはそのうち胃袋が飛び出すんじゃないかとも思ってるんだが……わかってたってやめられるもんじゃない。そうだろ?」  毒ガエル……マローノがしたり顔をしているように見えて、パコは思わず笑みを誘われた。切れた唇が痛んだが、あまり気にならなかった。 「やっと笑ったな」  傍目ではその表情に変化があったようには見えなかっただろう。それでもパコは、マローノが微笑んでいるように思えた。 「どうして喋れるの?」 「そんなことわかるもんか。おまえさんのほうこそ自分がどうして喋れるのか理解できてるのか?」パコが首を横に振るのを見て、「カエルが人間の言葉を話すなんて、特別でもなんでもないかもしれん。誰も試さなかっただけで、やってみたら簡単だった。そんなことは世の中にごまんとあるんだ」 「そうなのかな……」 「それよりめずらしいのはおまえさんのほうだ。本当に俺のことが怖くないのか?」 「うん。最初はびっくりしたよ。でも馴れてるっていうか……ばあちゃんが占い師、というか拝み屋みたいなものなんだけど、僕によくこう言うんだ。人間がいちばんじゃないって。生き物はそれぞれ不思議な力を持っていて、人間はそれを凄いものなんだって認めなきゃいけないんだって」 「そいつは賢い考え方だな。パコ、おまえさんもな。俺に不用意に触れなかったのは正解だ」 「じゃあ、やっぱり毒があるの?」 「猛毒さ」パコには目の前のカエルがにやりと笑っているように見えた。「密林でいちばん危険なのは俺たちさ。この毒なら、ジャガーだっていちころなんだ」 「ジャガーが怖くないの?」  パコはその昔、祖母から寝物語として聞かされたジャガーの伝説を思い出していた。真夜中の密林で旅人がジャガーに襲われるというものだ。漆黒の闇から音もなくあらわれる白い牙と爛々と光る眼が頭の中で浮かぶたび、幼いパコは寝室で起きては一人震えていたものだ。 「怖いもんか」マローノが脱脂綿にあてがっていた手で顔を洗いはじめる。「ジャガーを恐れるのは人間さ。だから人間は、ジャガーを倒すために俺たちの毒を使うんだ」 「なんだか石と紙と鋏みたいだね」 「いいや、違う。ジャガーは人間を食い殺すが、人間は俺たちを殺せない。ただ毒をわけてくれと頼んでくるだけだが、俺たちの毒はジャガーでも人間でも殺せるんだ。だから密林でジャガーとでくわしても、連中は知らぬ存ぜぬで俺たちの前を素通りするしかないのさ。これでわかっただろう、誰がいちばん危険なのかが?」  気にとめられていないだけなのかもしれない。パコはそう思ったが、口にするのはやめた。それから彼は、近所に住んでいたホセおじさんのことを頭に浮かべていた。  身寄りのないホセおじさんは軒先に置いた椅子に腰かけては、病気で亡くなるまで日がな一日道行く人々や世間に対してぶつくさと文句を言う生活を送っていた。パコがマローノに異を唱えなかったのも、ひとえに祖母が唯一の友人であるホセおじさんの姿と、このカエルの姿とが重なって見えたからだ。  ホセおじさんはいつだって偏屈だったが、それ以上にどこか寂しげでもあった。 「安心しな」物思いに耽っていたパコにマローノがそう声をかける。「一宿一飯の恩義ってやつだ。おまえさんを俺の毒で殺したりはしないよ」  パコは曖昧に頷いたものの、その日の晩は自分のベッドで眠ることができた。夜中に一度だけ目を覚ましたが、マローノは相変わらず窓辺に置いた鉢植えのそばに伏せていた。
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