ジャガーと毒ガエル

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 パコはマローノとともに森のそばにいた。コミタン・デ・ドミンゲスから出ているバスを南へと乗り継ぎ、地元よりも隣国グアテマラとの国境に近い場所だった。 「悪くないな」  パコが抱えたお菓子の空き箱から顔を出し、マローノが覆われた木々に黒い瞳をめぐらせながら言う。濡れた脱脂綿を敷き詰めて空気穴もふんだんに開け、なるべく快適になるよう工夫したが、数時間の道程はさすがに堪えたらしい。年老いたカエルは少し疲れているようだった。 「もちろん本物の密林とくらべりゃだいぶ見劣りするがな。まあ二晩もかければなんとかなるだろう」 「じゃあ、ここに三日もいるの?」 「家が恋しいか?」  パコはかぶりを振った。ここを訪れるために学校も無断で休んだが、いまさら誰に心配をかけようとどうでもよかった。そもそも、パコのことを気にかけてくれた唯一の人はもうこの世にいない。 「なら決まりだ。ここで毒をためる」 「ためるって……じゃあ、毒なんて最初からなかったの?」  マローノはお菓子の箱の中からこちらを見上げると、「そりゃちいっとは残ってるかもしれんが、さすがにジャガーを殺すまではな……」  試してみるか? そう目で問いかけられ、パコはふたたびかぶりを振った。それから森を少し進んで手頃にひらけた場所を見つけると、そこに荷物を置き、森での生活をはじめた。 「どうして毒があるなんて嘘をついたのさ?」約束の日の晩、パコは焚火を枝でつつきながらマローノにそう訊ねた。 「完全になくなったわけじゃない。相手を痺れさせるぐらいは残ってる。だがそうでも言わなきゃ、おまえさんは俺を家から追い出しただろう。身体の大きさじゃかなわんからな。おまけに毒も使い物にならないとくれば、あとは頭をひねるしかなかったのさ」 「ずるいや……」 「正直でいるだけが友達じゃないんだぜ」 「友達? 僕とマローノが?」 「お喋りなカエルじゃ不服か?」 「そんなことないよ」  先ほどよりも強く枝でつつくと、焚火からぱっと火の粉が舞った。幾粒もの光がパコの煤で汚れた頬と、マローノの鮮やかな体色を浮き彫りにする。 「でも、どうして毒がなくなっちゃったのかな?」 「きっと人間の世界に長くいすぎたせいだ」 「そうなの?」 「聞いた話じゃ密林から離れると毒の……言うなれば加護みたいなもんが抜けちまうんだとさ。けど、俺はもっと違う理由があると思ってる」 「そんな理由?」 「思うに、俺の毒は抜けていったんじゃなく、打ち消されたんだと思う」 「何に?」 「人間の世界にある毒にさ。毒のなかには、お互いの力を打ち消す組み合わせがあるんだと。どうだ人間の少年よ。おまえさんの世界は毒であふれかえってると思うか?」  パコは頷いた。そうすることに躊躇はなかった。 「なら、それが理由さ。俺の毒は強力だが、もっと強いやつにやられちまったんだ」 「でも、だからマローノは言葉を話せるようになったんじゃないかな?」 「人間の毒のおかげでか?」 「ううん。たくさんの人間を見てきたからだと思う」 「なるほど……」言ったきり、マローノは口を噤んで喉を小刻みに動かした。こうしていると、彼はただのカエルにしか見えなかった。「その考えは悪くないな」 「でしょ。それに僕は嬉しいな。こうしてマローノと話せるのは」 「心配するな。楽しいお喋りの時間だけじゃない。毒もかならず分けてやるよ。そら、ぼちぼち準備はいいか?」  パコは頷くと、小石の上で伏せるマローノの背中に鋭く削りだした枝の先端を近づけた。友であるこのカエルの肌は、それを照らす焚火よりも明るく鮮やかだ。 「慎重にな」背中を向けたままマローノが言う。「間違えても俺にそいつを刺すんじゃないぜ」 「自分の毒でも効いちゃうの?」 「毒ガエルが自分の毒で死ぬもんか! だがぶすりとやられるのが痛いことにはかわらん」  マローノはそのあとも、やれ乙女の指先のように繊細に触れろだの、やれ枝のささくれにも気をつけろだのと、パコに細かい注文をつけてきた。 「そら、いい具合だ」マローノの言うとおり、炎に照らされた肌の表面が少しずつ湿り気を帯びてくる。「いいか、慎重にな」  警句を繰り返されなくとも、パコは枝の先端を凝視し続けた。やがて削りだした枝の真皮が水分を含んで色を濃くすると、彼はポケットから銀色のキャップを取り出した。本来は短くなった鉛筆を持ちやすくするための道具は、枝の太さにぴったりとはまった。 「どんなもんだい!」小石の上でマローノが後ろ脚を伸ばして立ち上がったあと、パコに向きなおって言う。「古ぼけたバンジョーだっていい音色を響かせるもんだ。ああ、この言いまわしは子供にゃまだ早いな」  喉を膨らませるマローノに対して、パコは肩をすくめてみせた。その冗談が正確に意味するところはわからなかったが、いま手の中にあるものへの畏怖ははっきりと感じていた。  これは矢だ。それも相手のどこに触れても命を奪えてしまえる矢。はたして自分はこれを使うことができるのか。もっと言ってしまえば、これをペドロに突き刺し、その心臓の鼓動を止めることができるのか。  削りだした木の温かみは消え失せ、パコはそこから永遠に融けることのない氷のような冷たさを感じていた。  街に戻るバスのなかでパコは無言だった。  家に帰って最後の一晩を過ごしたあとで親戚が迎えに来れば、パコは故郷を離れて遥か遠くのグアダラハラという街に移り住むことになる。そのとき、マローノは自分と一緒に来てくれるだろうか。膝の上に置いたお菓子の空き箱に目を落とす。 「ねえ、マローノ。起きてる?」ほかに乗客がほとんどいない車内でパコはそう問いかけた。 「ああ。狭くて暗くてもまだまだ元気はつらつさ」 「森はどうだった?」 「物足りなかったが、文句を言うほどじゃなかったな」 「そう。あのさ、僕、家に帰ったら……ううん。マローノは人間の世界のほかに何か見てみたいものはあるの?」 「さて、あちこちと見てまわったが。そうだな、海ってやつを見てみたいな」 「そっか。僕もまだ見たことないや、海」 「なら一緒に見に行くか?」  マローノの問いに、パコはわきあがる気持ちをぐっと飲みこんだ。それからこう答える。 「うん。そのうちね」
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