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戻った街でバスを降りて家路へとついているあいだ、パコはいかに自分の覚悟が不十分であるかを悟った。
細い一本の路地の先にペドロたちの姿を見つけ、思わず足を止めてしまったのだ。あまつさえ彼はまだ見つかっていないことを期待し、回れ右をして戦うことなくその場から逃げ出そうという考えまで浮かべていた。
「おい弱虫野郎、どこ行くんだ?」
いつから気配を察していたのか、顔をあげたペドロがこちらを真っ直ぐ見るなり、取り巻きを連れて歩み寄ってきた。
「最近見かけないから、てっきり死んだばあさんのあとを追いかけたのかと思ったぜ」
パコは咄嗟にお菓子の空き箱を胸にかき抱いた。だがそれは目ざといペドロには逆効果だった。この類いの人間は、標的の弱点を即座に見抜くことができる。
「そいつはなんだ?」
手を伸ばすペドロに対して、パコは身を丸くすることで空き箱を守った。
「おとなしくよこせ!」
そう取り巻き二人に肩を押さえこまれる。守りが緩んだところをペドロの手が伸びる。
「やめろ!」
「相当大事なものみたいだな」
叫ぶパコをよそに、ペドロは奪った空き箱をからからと振ってみせる。
「いますぐその悪ふざけをやめろ、このクソガキめ」
どこからともなくした声にペドロが動きを止め、周囲を見まわす。
「こっちだ、この間抜け」
言うやいなや、空き箱の中からマローノが躍りかかった。突然鼻の頭に張りついてきたカエルに、ペドロが驚きの声をあげる。
「どうだこの野郎! 俺の友達にちょっかいだしやがって! 覚悟しろ!」
だが反撃も長くは続かなかった。ペドロが伸ばした手がマローノを捉え、地面へと叩き落としたのだ。
風船の割れるような小さな音がした。命という、あまりにも大きなものが叩きつけられる小さな音。
全身の力が抜けるのを感じながら、パコは食い入るように地面の上でぐったりするマローノを見た。ぽっかりと開いた口元からは、ティースプーン半分よりも遥かに少ない量の血が吐き出されていた。
「ちくしょう、このクソガエル!」ペドロがレザージャケットの袖で鼻の頭を拭いながら言う。「気色悪いもん飼いやがって!」
ペドロが落ち着きを取り戻し、道の隅で横たわるマローノに近づいていく。
絶望的な一瞬、パコの脳裏に毒矢の存在がよみがえった。いまそれは右の前ポケットに入っている。
いまこそ矢を使うときだ。深々と刺す必要はない。ペドロの首筋か手の甲でもほんの少し引っ掻いてやりさえすれば、それですべてが終わる。
だがこの期に及んでもパコにはためらいがあった。
復讐の結果、相手に死をもたらすことを怯えていたのではない。ほかならぬ、マローノの毒を使って誰かの命を奪ってしまうことが恐ろしかったのだ。
〝おまえさんは優しいのさ〟
マローノの言葉がよみがえる。いまは何よりも、彼の言っていた冷徹さが欲しかった。
あるいは、ジャガーのような……
マローノを踏みつぶそうと、ペドロが片脚を持ち上げる。その瞬間、横合いから衝撃が走った。片足立ちで踏ん張りながら見ると、パコが横腹にかじりついていた。
「ちくしょう! 離しやがれ! このマリ――」
威嚇は途中で絶えた。パコのこぶしが顔面に炸裂したのだ。血飛沫とともに数本の前歯が吹き飛ぶ。
パコは仰向けに倒れたペドロに馬乗りになった。それから恐怖と驚きが浮かんだ相手の顔面になおもこぶしを叩きつけた。だが体重差がわざわいしてか、数発と打ちこまないうちに片手をつかまれてしまう。
「調子に乗るんじゃねえ! ぶっ殺して――」
今度、ペドロの言葉は彼自身の苦痛に満ちた叫びによって遮られた。パコが手首に深々と噛みついていたのだ。
「やめろ、こいつ!」
追いすがった取り巻き二人がようやくパコにつかみかかった。それまでただ痛めつけるだけだった標的の思わぬ反撃に、脚が竦んでいたのだ。
この小さな身体のどこに秘められているのか、パコは力強く、まるでハリケーンでもびくともしない大木を相手にしているかのようだった。
ペドロから引き剥がす瞬間、パコの口元で何かのちぎれる水っぽい音がした。
しばしの静寂のあと、立ち上がったパコの両肩にかかっていた取り巻きたちの手がゆっくりと離れていく。彼らは一様に恐怖の色を浮かべ、パコを遠巻きにしながらペドロへと歩み寄っていった。
自分の手首を押さえたペドロの指のあいだからは血がどくどくとあふれ、その奥で白い骨も覗いていた。パコの口のまわりもまた、真っ赤に染まっていた。
何かを言おうとしたのか、ペドロはあえぐような呼吸を繰り返したものの、そのまま取り巻き二人に支えられるようにして逃げ去っていった。
「マローノ!」敵の姿が見えなくなった直後、パコは友のもとへと駆け寄った。「ごめん! せっかく毒を出してくれたのに……僕、使えなか、からこんな……マローノ、ごめん!」
あふれた涙が口元の血を洗い落として斑模様を作っていく。両手で描く欠けた輪の中心では、マローノが仰向けになっていた。丸みを帯びた腹と喉が、いつも以上に小刻みに、そしてわずかに膨らんでは萎んでを繰り返している。
「使えなかったか」やがて、聞き取るのがやっとの声でマローノはそう言った。「無理もないな。おまえさんにはちっと過ぎた力だ。やっぱり冷徹にはなれなかったな」
「ごめん……」嗚咽混じりにパコが繰り返す。
「いいんだ。それよりも、おまえさん一人の力で勝てたじゃないか。ジャガーみたいに勇敢だったぜ。知ってるか? 密林でいちばん勇敢なのはジャガーなんだ」
パコは頷いた。両手でマローノの小さな身体を囲ったまま。そうしていれば、自分の命を分けてあげられると信じたかった。
「けど、いいか。密林でいちばん危険なのはジャガーじゃない。俺たちさ」
「わかってる……わかってるよ、マローノ」
「俺にもわかったよ。人間の世界にあるのは毒だけじゃないってことがな。ところで……海は、どんな色をしてるんだろうな?」
パコは答えられなかった。彼もまた、海を一度も見たことがないからだ。
そしてマローノもそれ以上何も話さなかった。彼がもう、海を見ることはなかった。
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