一耳惚れ

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 一遍気になるといけませんね。お目にかかりたい思いは募るばかりですが、お勝手からじゃ歌声が聞こえてくるばかり。  ある日とうとう、あたしは腹具合が悪いだなんて空を使って仕事をすっぽかすと、風呂屋に寄ってこざっぱりとしてから御屋敷町に行ったんです。それも昼日中の表門に。  お天道様の下じゃどうにも縮こまっちまう性分でしたが、お向かいの家の塀にしがみつくみたいに表門を見張ったんです。妙に蒸し暑い日で、汗みずくの身体を吹いてるうちに手ぬぐいもあっという間に滴っちまいまして。身なりが悪くなると自分の背丈までちっぽけになっちまう心持でした。  そのとき表門の脇戸が開いてどなたかおいでになったもんですから、あたしは思わず手ぬぐいを落としちまいました。  お武家様をじろじろみるもんじゃないって教わってきたあたしですがね、このときばかりは目を逸らせませんでしたよ。  年老いた中間の見送りで出てきたのは、白い日傘を差した歳若いご婦人でした。お召しのものも白かったのですが、その肌ときたら、結った黒髪と相まってさらに抜けるようでしてね。  ええ、夏も盛りだというのに雪でも降ってきたのかと思っちまったほどです。物陰に隠れるのも忘れて、あたしはそのお姿に見惚れちまいました。  そうこうしているうちにご婦人、女中を一人従えて御屋敷町の奥へつい、とおでかけになりましてね。中間も脇戸に引っこんで、残ったのは手ぬぐいを踏んづけたままのあたしだけでした。  寝床までどうやって帰ったのかわかりませんや。ただ手ぬぐいをずるずると引きずって帰ると、仕事を終えた人足仲間たちからどこに行ってたんだと問いただされまして。  でも嘘をつく必要はありませんでした。なんせあたしの呆けた顔を見るなり、やっこさんがた途端に口を閉じちまってね、休むように気遣ってくれたんです。  兎にも角にもお唄の主はあのご婦人だと合点がいきました。  せんべい布団にくるまりながら、あたしはまず気後れしちまいましたよ。ああ、見るんじゃなかったって悔やみもしました。いっぺんでいいからお目にかかりたいなんて思うんじゃなかったって。  分不相応ってやつですね。唄を聞いてるだけで満足してりゃあよかったってのに、荷揚げ人足風情があれだけ気品のあるご婦人と吊り合うわけないんです。お会いするだけじゃなく恋仲なんてもってのほか。高望みするだけでも恐れ多いんですよ。  その日の晩は仲間たちが酒盛りする音も妙に頭に響いちまいましてね。赤ん坊みたいに丸くなって呻いてました。  けれども働かなきゃおまんまの食いあげってなもんで。次の日からは仲間たちについていって波止場に行ったんですがね。打って変わって仕事に身が入りませんでして。お目付け役の親父に何遍どやされたかわかったもんじゃありませんや。  ああ、あたしはこのまま死ぬまで独り身、死ぬまでここで海の物とも山の物ともつかねえ荷をあげたりさげたりするんだって思うと、急に情けなくなっちまいましてね。  それでも、ええい、なにくそと何も考えちまわないよう一心不乱に仕事をしたあと、へとへとに帰って泥のように眠りました。  眠ってるあいだは何も頭に浮かばねえからいいんですが、現世ってのは残酷なもんですね。目が覚めるとあのご婦人に募った思いとてめえの情けなさがまたぞろ溢れちまう。  恋煩いで生きるの死ぬのなんざ落語のお題目ぐらいだとばかり思ってましたが、まさか自分がかかっちまうとはね。するってえと、よもやこいつはお医者様でも草津の湯でも治りゃしねえんでしょう。  もう神も仏もあるもんかと、いっそ波止場に身投げでもしようかと思っちまったほどです。ただね、こうも思ったんですよ。  それまでは稼いだ銭をその日の晩のうちに飲むなり打つなりでそっくり使っちまってたあたしが身も心も入れ替えられたのは、あの唄のおかげなんだって。ならせめて、人知れずこのろくでなしを真っ当にしてくれたあのご婦人にご恩返しをしようと、そう思ったんですよ。なに、土左衛門になるのが早いか遅いかの違いだってね。  そうなるとまたぞろ気力がわいてきましたよ。  なんとかは死ぬことと見つけたり、なんて立派なもんじゃありませんが、人間それこそ死ぬ気になればなんだってできるんでしょうね。はたまた蝋燭は消える前がいっとう明るいってやつなんでしょうかね。一遍死ぬっててめえの命を見限ってみると、なんとも胸がかっかしてきやがるんですよ。  仕事に精をだす傍ら、人足仲間にご婦人へは何を贈ればいいのか相談もしました。しかしどいつもそろえた雁首斜めに振りましてね。最近あたしの付き合いが悪いからとりあわないのか、それともついぞ洒落た思いつきもねえのか。  そしたら所帯持ちで出稼ぎに来ていた兄貴分から、櫛はどうだと勧められましてね。あたしもぴんときましたよ。あのご婦人の乙女島田にちょいと乗せりゃあこれまた粋なもんだってね。  早速質屋を覗いてみますと、あのご婦人に見劣りしない上等な鼈甲の櫛を見つけました。それだけ値も張りましたが、なに、手元には六文ばかり残ればいいんです。  あたしは一念発起、それこそ骨身を削って働きました。荷揚げの仕事が明けるなり寝床に戻って内職もしました。あの櫛を贈るまでは朝も晩もありゃしねえとね。  銀行なんてできるのはもうしばらく先のことでして、稼いだ銭はみんなお目付け役に預かってもらいました。あの親父を信じられるかってえとそうじゃありませんでしたが、あたしが今日のこれこれの駄賃でいくら貯まったか、明日あれそれの仕事で稼ぐといくらになるか、毎日しつこく訊くもんですから手をつけようにもつけられなかったんでしょうね。
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